……静かね

 普段と同じ森の様子に、息を吐く。

どこにいるのかしら、魔物さん

 もう一度、森の中をぐるりと見回し、リィンは一人、微笑んだ。

 リィンが暮らす、王国辺境部に位置する村の側に広がる森の中に魔物が出たという噂が立ったのは一昨日のこと。噂だけではない。その巨大な魔物を見たという村人も、何人かいる。

 どんな魔物が、この小さな森に住み着いたのだろうか? 家にある本の挿絵を一つずつ思い出しながら、リィンは木々の影を一つずつ、確かめるように見詰めた。綺麗なものも好きだが、珍しいものも好き。もっと色々な物事を見たり聞いたりしてみたい。そこまで考えて、リィンの口から出たのは、溜息。

ま、いっか

 畑を彩る黄金の麦穂と、その黄金を揺らす風。森にひっそりと咲く、様々な色と形と匂いを持つ花々。冷たさの中で星々が煌めく冬の夜空。この場所にも、綺麗なものはいっぱいある。そう、思い直し、リィンはこの森に来た本来の目的である薬草摘みに戻った。薬草を摘み、村の人々の為に薬を作ること。読み書きと計算。そして万が一の為に剣や武具の扱いに慣れることも、領主の妻となるには大切な事柄。

 それにしても。薬草を探しながら、静けさに満ちた森をもう一度ぐるりと、見回す。本当に、魔物がいるとは思えない雰囲気だ。リィンは静かに微笑み、そして真顔になった。森に入った複数の村人達が、尋常ではない大きさの魔物を見たことは、事実。どんな時でも、油断は、禁物。リィンに剣術と学問を教えてくれている、村に住み着いた仙人のような師匠の言葉が脳裏に響く。

気をつけないと

 リィンは背筋をピンと伸ばした。

 そして。

お父様が冒険者を雇ってくださってるし

 昨晩、村と森を支配する領主である父の許にやって来た、偶然、村に滞在していたという冒険者達の顔と姿を思い出す。仲間だという印に皆で揃えたという鎧も、磨かれた剣も、確かに美しかった。だが。

でも、どことなく頼りなげな感じがしたなぁ、あの冒険者さん達

 辺境を旅する冒険者って、あんなもの、なのだろうか? リィンは昨晩と同じように首を傾げた。しかしながら。

ま、ルーインは喜んでたから、良いか

 冒険者を間近で見てはしゃぐ弟の顔を思い出し、リィンはそっと息を吐いた。父は、自分の唯一人の息子であるルーインを冒険者にしたいらしい。父が雇った冒険者達と行動を共にしたいと言ったルーインの我が儘を、父は二つ返事で許可した。

大丈夫かなぁ、ルーイン

 心配が、リィンの唇を歪ませる。いや、弟が心配だから、ではない。……悔しいから、だ。リィンに婿を取らせて領地を継がせ、ルーインには冒険者として家名を上げるという期待を託す。それが父の希望。

ま、そんなもん、か

 森に魔物が出るのなら、さっさと必要な薬草を集めた方が良い。無理に、気持ちを切り替える。

 その時。

うわっ!

出たっ!

 リィンの横の草がざわざわと揺れると同時に、血相を変えた件の冒険者達がリィンの前に飛び出してくる。

ま、魔物っ!

えっ!

 冒険者達の言葉に、リィンは咄嗟に、護身用の短剣を抜いて身構えた。

 だが。

え?

 続いてリィンの前に現れたものに、別の意味で絶句する。目の前にいるのは、複数の小さな影。辺境の森でよく見掛ける、いつもお腹を空かせた魔物だ。

キ、キ!

 及び腰の冒険者と、短剣を収めたリィンを見上げ、魔物が怒ったような声を出す。

あ、お腹空いてるのね

 リィンはすぐに、肩に掛けていた布鞄から大きなパンを取り出し、小さな魔物の一体に渡した。

一個しかないから、皆で分けてね

キキッ

 魔物に渡したパンは、あっという間に細かく分けられ、魔物の口の中に消える。

美味しい?

 少ない量ながらも、魔物達は満足したようだ。リィンはほっと息を吐いた。

 と、その時。

キキッ!

 警告音を発した魔物達が、集まってリィンの背中に隠れる。

ど、どうしたの?

 一瞬驚いたリィンは、しかしすぐに尋常ならざる気配を感じ、はっと顔を上げた。

えっ!

 見えたものに、動けなくなる。

 木々の間から丁度出てきた、彫像のような怪物は、縦も横もリィンの三倍は、あった。

 とにかく、逃げなければ。そう思うより先に、リィンの眼前に岩でできた拳が迫る。

……!

 それでも。リィンの後ろで震えている小さい魔物達を助ける必要が、ある。声にならない悲鳴を上げながら、それでもリィンは背後の魔物達を庇うように両腕を広げた。

 次の瞬間。リィンの鼻先ギリギリで、彫像の拳が止まる。

……た、助かっ、た?

 リィンはへなへなとその場に座り込んだ。

大丈夫?

 そのリィンの前に、暗い色のマントが優しく翻る。

止めることができて、良かった

 リィンと同い年くらいに見える、魔法使いらしき少女の微笑みに、リィンも思わず微笑んだ。

しかし、我々の魔法は、一時的なもの

 その少女の後ろから、老魔法使いが現れる。

きちんと封印を施さねば、また動き出すのは必定

 そう言って、歳経た方の魔法使いは、リィンの横で腰を抜かしていた冒険者達を鋭く睨んだ。

それもこれも、おまえ達がいたずらに封印を解いてしまったから!

はっ!

何を証拠に!

 白を切るような冒険者達の言葉に怯むことなく、老魔法使いは手にした杖で冒険者達の鎧を指し示す。

森奥深くの遺跡に、おまえ達のと同じ紋章を付けた鎧を着た遺体があった

なっ!

 絶句する冒険者をもう一度見詰め、リィンは今更ながらあることに気付いた。この人達と一緒に行動していたはずの弟、ルーインの姿が無い!

ルーインはっ!

 逃げ腰の冒険者達に、急いで尋ねる。

あ、それ、は

そういえば、遺跡傍に小さい子が倒れてた

 魔法使いの少女の言葉を聞くや否や、リィンは跳ね起き、先程老魔法使いが杖で示した方向へ走った。

……あ

 少女の言葉通り、木々の間に倒れている見知った影を見つける。

ルーイン!

ううっ……

 その影を抱き上げ、息が有ることを確かめると、リィンは再びその場に頽れた。

良かったぁ

 ほっとして、息を吐く。

 リィンとルーインがいる場所のすぐ側に、黒い石碑のようなものが立っているのが、見えた。

 そして。石碑の向こうに見えるのは、白っぽい色をした二本の柱。

さっきまで暴れてた彫像は、この場所にあった古代人の城を守る門番として、あの柱に封じられていたらしいの

 少女の声に、顔を上げる。確かに、柱の一つには、先程リィンを襲った彫像と同じものが、凭れるように座っている。

彫像を封印するには……

 リィンに説明する少女の声は、しかし途中で途切れた。

きゃっ!

 いつの間に現れたのか、件の冒険者の一人が、少女を羽交い締めにしている。

動くな!

 少女の首筋に短剣を突きつけ、冒険者が叫ぶ。リィンの後ろでも、冒険者の一人が剣をリィンに突きつけている。今は、動けない。リィンは唇を噛んだ。

いいことを考えたぜ

 そのリィンの前で、少女に短剣を突きつけた冒険者が醜く嗤う。

あの魔物の封印を解いたのはこいつらってことにして、ここで全員殺しておけば、俺達がやったことは誰にもばれない

ちょっと!

 勝手極まりない冒険者の言葉に、リィンは思わず声を上げた。そんなことは、させない。ルーインも、リィンを助けてくれた魔法使い達も、リィンが守る。だから。リィンの方へ剣を振り上げた冒険者の一人を、姿勢を低くして躱す。気を失ったままの弟を地面に滑り落とすと同時に、リィンは蹈鞴を踏んだその冒険者の無防備な背中に全力の手刀を叩き込んだ。

うぐっ!

 呻いて地面に落ちる冒険者を確かめる前に、思わぬ反撃に動揺の表情を見せた、魔法使いの少女を羽交い締めにしている冒険者に襲いかかる。魔法らしき光が周りを威圧するのと、リィンが少女を緩んだ冒険者の腕から引き剥がすのとが、ほぼ同時。

なっ!

きゃっ!

 だが。光に視力を奪われた冒険者の、闇雲の攻撃が、リィンの視界に入る。持ち前の俊敏さで攻撃は何とか躱したが、バランスを崩したリィンの身体は、石碑の方へと倒れた。次の瞬間。

わっ!

 背中に当たる冷たい石の感覚と、その石碑にリィンの全ての熱を奪われるような感覚に、思わず叫ぶ。その次に、リィンの口から出てきたのは、歌。

え?

 戸惑うリィンにお構いなく、リィンの口は、リィンの知らない言葉と旋律を紡ぐ。その歌が途切れると同時に、リィンの目の前は真っ暗になった。

嘘っ!

このような辺境に、『歌碑』を読むことができる者がいたとは

 倒れるリィンを支えてくれた老魔法使いの、意外にしっかりとした腕を、リィンは夢現に感じていた。

見てみるが良い

 そのリィンを見て微笑む老魔法使いが指し示す方向を、ぼうっとした瞳で見詰める。

え?

 先程までは確かに何もいなかった柱に、もう一方の柱と同じ形の彫像が、いる。

この『歌碑』が、彫像を封印する鍵だったのだよ

 戸惑うリィンの耳に、老魔法使いの説明が響く。

ありがとう

いえ、そんな……

 老魔法使いの感謝の言葉に、リィンは頬が熱くなるのを感じた。

ねえ、お師匠様!

 そのリィンの耳に、元気を保ったままの少女の声が聞こえてくる。

この子、王都に連れて帰りましょう!
『歌碑』が読めるのならきっと『石板』も読めるわ!

そうだな

 少女と、老魔法使い。期待に満ちた二人の瞳に、正直戸惑う。しかしながら。

わ、私で、役に立つなら

 リィンの口から出たのは、承諾の言葉。

あ、でも、お父様を説得しないと

それくらい、お安い御用

 にこりと笑う老魔法使いに、リィンも思わず、微笑んだ。

 はっと、目を覚ます。

おはよう、リィン

 魔法使いティナの、普段通りの笑顔に、リィンは思わず微笑んだ。

昨日、石板たくさん読ませてごめんね

ううん

 悄気たようなティナの言葉に、首を横に振る。

 希望通り冒険者になり、綺麗なものや珍しい物事をたくさん見聞きできるのは、父を説得してくれたティナと、ティナの師匠である老魔法使いのおかげ。体力を吸い取られる『石板』読みは今でも苦手だが、それくらい、御礼にもならない。だから。

青石亭に朝御飯食べに行こう
今日はおごるから

うん

 にこりと笑うティナに、リィンはこくんと、頷いた。

のほほん冒険者、誘われる。

facebook twitter
pagetop