思考に没頭したい時、資料を見る必要がないのなら、できればじっと留まらずに躰を軽く動かしながらにしろ――それはあたし、レイディナ・ブリザディア・近衛の父親であるところの、エイクの言葉だ。
 だから、というわけではないにせよ、あたしは腕を組むようにして胸を下から支えつつ、狭い研究室内部を右へ左へと歩きながら思考に没頭する。動く、ということは意識を別の部分で使わなくてはならないし、視界も変動するため、いろいろな情報が目に飛び込んでくる。父に言わせれば、逆にそれこそが発想の転換になるのだ、とのことらしいけれど、あたしはまだそこまでの領域には至っていない。ただ、そうなれば良いとは思う。

 得体の知れないヤツ――ふらふらと、あちらへこちらへ。けれど八方美人ではなく、掴みどころがない人物。これはあたしへの評価だ。どうにも努力や苦労なんてものを表に出したくない性格のあたしは、いつだって他人をからかって自分のことを知られたくない、と思ってしまう。こんなふうに悩むのだって、一人でなければやらないし、誰かに見せたくはない。
 ――過去へは戻れない。
 それが絶対的なまでに、あたしをあたしたらしめる要素だ。つまり、過去は改ざんできず、確定してしまい、変動そのものをしないのである。それが記録になければ記憶を頼りにするほかないのだけれど、記憶とはそもそもが曖昧なもので風化しがちではあるが、それでも、そうであっても、蓄積された過去そのものが消え去るわけではない。
 だから、過去になっていく現在を、あたしは貴重なものだと捉えている。できるだけ記録に残らないよう、記憶にだけ残るよう、それはあたし自身の記録をあたしが取りたいという欲求から発生したものか、そうした考えを態度にしてみると、何故か、掴みどころがない人物に見られてしまうのだ。

 あたしはそれでいい。自分のことだから、ある程度は把握できているし、できていなかったとしてもやはり、それはあたしのこと。
 けれど、あたしを悩ませている雨天紅音という人物は、そういう感じでもなさそうだ。
 似ている部分はある、と思う。ハルが指摘した通り、浮かんだ疑問などはあたしがここへ来た時と類似しているし、さきほど会話をした限り、転移システムにもある程度の知識を有しているように思えた。もっとも、肯定と否定を使い分ける話術には、意図してそれを引き起こしているのかどうかはともかくも、その点に関しては幾分か猜疑的ではあるにせよ、こちらの動揺を誘う手口に似ていなくもない。

 ただ、それこそ本気で探りを入れてきているようには、どうしても思えなかった。まるでそんな会話を、一過性のものとして楽しんでいる様子さえあったのは、あたしとは違う部分だろう。
 何度も、幾度も、先ほどの会話を回想しても、あたしの感想として出てくるのは手玉に取られていた、だ。あたしが行った手法、話術をそのまま返してきたのも確実だろうし、となるとあたしの会話方法を見抜かれて、そんなものは簡単に使えるのだと証明されたような――上手で、あたしが下手で……くそう、なんか悔しいな。

 悔しい、という感情を再認識する。
 ああ、どうやら冗談ではなく、あたしはアカに惹かれているらしい。これが色恋なのかどうかは、あたし自身に経験がないため断定はできないけれど、しかし。
 残念ながら、厳密に、たぶん初恋ではないだろう――。
 四度のノックに顔を上げ、腕を外して腰を下ろす。意識して固まった表情を両手でほぐしたあたしは、テーブルのレッドに開放要求が名前と共に出ていたため、解除鍵を入れて扉をあけた。左右を見てから、するりと中に入って来たのはユキ――伏見こゆきだ。

伏見こゆき

こんにちは、リイディ

リイディ

どうかしたんかいユキ

伏見こゆき

ディに休暇を強制されたので、いつものように少しお話をと思いまして。構いませんか?

リイディ

いいよん。そっち、座るといいさあ

 まるで友人への態度に似ているが、実際には対価を取引材料にして交渉する、持ちつ持たれつの関係だ。敵対はしていない、という程度で味方でもなし。もちろん、あたしはユキ個人に対してはべつにどーとも思ってないので、総合管理課の責任者という意味合いでのことだ。個人的には談笑を交わす程度である。

リイディ

にやにや、疲れてるみたいだねえ。珈琲はセルフだぜい

伏見こゆき

そう見えますか。リイディ――雨天紅音さんはどうですか?

リイディ

それは一般論かねえ。世話をしてるんは、ハルであってあたしじゃないねい

伏見こゆき

では、リイディは関与……干渉していないと?

リイディ

何か事件でもあったなら、関与言われても返答できるけど、これといった干渉はしてないぜい

伏見こゆき

なるほど。……普段ならば、リイディとのこうしたやり取りを楽しくも思えるのですが、しかし

 今はそうじゃないって顔だねえと言うと、眉根に寄っていたしわをユキは左手でほぐした。こうして弱気にも見える姿を見るのは初めてではないが、珍しいことには違いない。

伏見こゆき

リイディ、……レイディナ・ブリザディア。彼は

 一度言い澱み、けれどしかし、彼女は言う。

伏見こゆき

彼は、湯浅あかでしょうか?

リイディ

思いますか、じゃあないんだねえ……にやにや。確証はないんかい? あるんかい?

伏見こゆき

あるから困っています

リイディ

たとえば

伏見こゆき

写真は幼少の頃のものしかありませんでしたが、漠然とした物言いになってしまいますが、わからないんです。雨天紅音という人物が、わからない

リイディ

それは理由が、かい?

伏見こゆき

そう……ですね。行動理由……いえ、もちろん、一般とは少し違うという部分も気になってはいますが

リイディ

何より、ユキがそう感じてるってのが、一番かもねえ

伏見こゆき

杞憂であればそれで良いのですが、リイディの見解としてはどうでしょう。差し支えなければ聞かせてください

リイディ

あたしだって伝聞だぜい。親父から何か聞いてないんかい

伏見こゆき

あまり詳しくは……

 ユキがここで誕生した際、親父はエンジシニで責任者をしていたが、あたしはそんな親父を見たことはない。転移時期は、たぶんあたしが先で親父が後だ。

リイディ

確か……親父が湯浅あかから研究所を預けられたのは、あたしが三歳くらいだったかねえ。当時の湯浅は十六歳、親父は二十八だっけ? そんくれえさあ

 当時の実験は、ラットを既に使っており、人体実験をどうすべきか、という段階にまできていた。所長は湯浅あか、副所長がエイク。人体実験の選別については上の決定に従うしかなく、所内の噂では犯罪者を利用する形に落ち着くのでは、などという雰囲気で、研究それ自体は小休止に近いものだったらしい。
 その日。
 ラットでの実験データから調整を行っている、それほど切羽詰った状況ではない研究所の中で、慌ただしく人が行き来することもない状況で。

あなたは

 何の契機もなく、切欠も当然なく、当たり前のように、湯浅あかはエイクの隣で作業の手を止め、口を開いた。

――僕がいない方がいいんじゃないか?

……なんだって?

 唐突な質問、唐突な言葉。一瞬、エイクは何を言っているのか疑うくらいに、理解が追いつかないほどに、それは異質で、けれど当然のように放たれた。

あなたの技術、この研究に捧げる熱意も含めて、知識にしたって発想にしても類を見ない。けれどあなたは決して、この研究において主導権を握ることができない――たかが、そう、たかが湯浅機関の代表であるところの僕、湯浅の血筋がいるという、くだらない理由でだ

 くだらない、理由。
 これらはあくまでも伝聞であり、実際に湯浅あかの口調とは違っているのかもしれない。ただエイクは、そんな言葉の端に見られる単語については強く印象に残っていた。
 そんなことはないと否定するよりも前に、それをくだらないと言い切る湯浅あかの異常性に、言葉を失う。そもそも仕事上で必要な会話はしたけれど、プライベイトでの会話などしたこともなかったし、それはいうなれば、エイクが初めて――彼とまともな会話をしたものだったらしい。

だから、あなたは僕が消えたら嬉しいだろうと思ってね。表向きは悲しんでも、僕の意志を継いでと、そんな理由を掲げればあっさり引き継ぎはできる。そして、僕のことを忘れていない素振りができれば完璧だ。それで滞りなく、あるいは今以上に研究は加速するかもしれない

なにを……言っているんですか。研究はもうほとんど完成して

考えたことは、あるだろう?

 エイクの言葉を聞いているのか否か、彼は続ける。

幾度か、それともたった一度きりかな? けれど必ず、あるはずだ。あなたほどの技量を持っているのならば、発想があるのならば、――僕がいなくなれば、どれほどいいだろうかと

やめてくれ。研究はあなたがいるから回っているんだ

それは、僕がいなくなれば回らないと、そんな証明をするほどのものじゃないよ。四割は君に任せてある、残りの六割は僕じゃなくほかの研究員だってできるさ。だったら、僕の代わりはあなたで充分過ぎる。あるいは、僕以上にそれは可能だ

……なにが、言いたいんですか

だから、僕が消えてやろうと言っているんだよ

え……?

嬉しいだろう?

 こちらの反応を待たず、ため息を落として作業を終えた彼は、白衣を脱いでポケットから二枚のチップをエイクの眼前に置いた。それを後になって調べ、湯浅夫妻が転移した時のデータであることを知ることになる。

あなたと僕の違いは、その二枚を持っているかどうかだった。今までどうにか隠し通せたのは僥倖だけれど、それは今からあなたのものだ。これであなたと僕の差はなくなった、おめでとう。好きにしていいよ

好きに――とは

言葉通りに。さてと、今から記録準備だ。公式的には初めての人体転移になるからね。成功、失敗に関わらず、次のステップには必要だろう。なあに、上から文句がきたら、勝手に消えたと押し通せばいいさ

 そして、湯浅あかは転移した。
 親父の印象では、放棄したように見えたそうだ。転移装置に入った姿も、その雰囲気は、決して、己の責任で創り上げた装置に絶対的な信頼を置いているようにはみえなかったらしい。
 父は、止められなかった。その権限を持っていたのに、できなかったようだ。それは親父の後悔で、罪の話になる。ユキには黙っておいた方がいいだろう。
 ただ。
 ――わからない。
 複雑な顔でそう言ったのを覚えている。だからこそ、あたしは顔も知らない湯浅あかという人物を追うように、この道を選んだのだ。
 知りたいと、そう思って。

伏見こゆき

……随分と、印象が違いますね

リイディ

そうかい。アカと湯浅あかが同一人物なら、だけどねい

伏見こゆき

それもそうですが……リイディは違うと?

リイディ

八割合致していたら、そいつは正解かね? 研究に携わる身としちゃあ頷けないさあ。それに、あたしは逢ったことないからねい

伏見こゆき

私もですが……雨天さんとはさきほど、直接会話をしてきました

リイディ

へえん、どうだったんだい?

伏見こゆき

立場がなければ、とっくに両手を上げて降参しています

 それができないのがわかっているから、こいつは可愛らしく悩んでいるわけだ――って、あたしもそうか。

伏見こゆき

一貫性があるようで、ない。虚実を使い分けるのが上手いと感じられたのは今回の会話で、となりますが、初見であっても――どちらとも取れない態度をしていたらしいと、ようやく確信が得られました。収穫はそれだけかもしれません

リイディ

たとえば?

伏見こゆき

書類作成時に、偽名のようなもので構わないかと問うた後、考える素振りを見せながらも、本名でも良いのですねと確認する。そうだと肯定しておきながらも、否定するような言葉を口にして――と、つまり一部は肯定しているのだと結論が落ちる。私は何も探り出せないままに、聞き出すこともできず、撤退するしかありませんでした。主導権を――

 握れないのだと、あのまま続けていればどうかしていたと、ユキは苦い顔で言った。

伏見こゆき

最初の二度、湯浅さんと呼びかけました。しかし三度目は雨天さんと――けれど、どれにも反応せず、近づいて四度目の呼びかけに、気付いていなかったよう顔を上げたのですが……

リイディ

意味深だねえ。気付いていて無視してたんか、それとも本当に没頭してたのか――前者であったところで湯浅である確証にはならず、後者ならば余計に不明だねい。でも、ユキの威圧感が通じないのは普通じゃないさあ

 管理課の責任者である以上、そうした威圧感は必要だ。冷徹を演じなくてはならず、近寄りがたい雰囲気を作り出している。

伏見こゆき

リイディにも通じていないようですが

リイディ

あたしは別ってやつさねえ

伏見こゆき

あなたは自分の代わりがいたのならば、席を譲れるのですか? そう問うた時に、なるほどと頷いてはいましたが……

リイディ

否定でも肯定でもないねい。参る話さあ

伏見こゆき

……ともかくですリイディ、この件に関しては協力していただけませんか

リイディ

それが本題かい。んー、あたし個人としてはアカに興味あるけどねえ、仕事とは別の部類だろうし。そうだなあ、いっこ質問いいかい

伏見こゆき

なんでしょう

リイディ

ユキは、どうしてそこまで湯浅あかに拘るんだい? そして、もしもアカが当人だったら、何かあるんかい?

伏見こゆき

それは、……ご存じの通り兄であることも事実ですが、しかし、職務上であっても放っておけません。可能ならば研究に参加して欲しいですし、何よりも先代――おじさまから、警戒を怠るなと警告を受けています

リイディ

具体性は皆無じゃのう

 とはいえだ、ここ数日で干渉した結果としての、一時的な結論を出したのならば――なんて、こんな前置きをしたくなるのは、まだ確証を得ていないのにも関わらず、そうである、だなんて断定をあたし自身が行っているあたり、どうも半信半疑だからなのだけれど、ともかく。
 雨天紅音は湯浅あかで間違いない――と、そう考えていた。
 けれど、今のあたしにとってユキのような拘泥する何かはなく、純粋にアカという人間への興味であって、緊急性のない案件だ。娯楽の一つのようなものである。
 今はまだ、それでいいだろう。
 知らないことがある、たったそれだけのことで、あたしは前へ進めるのだ。知ってしまえば興味を失うことだってあるのに、どうしてそれを他人の手に任せようだなんて思うだろう。
 だから今は、限られた協力しかできないと、そんな返答をする。
 ――まだこの時、あたしはことの重要さと雨天紅音の歪さを、あるいは目的を知らなかった。きっとそれも、あたしの罪の一つなのだろう。
 知らなかったでは済まされないことが、これから起こるのに。
 やはり人であるが故に、今のあたしは未来のことなど知らないし、愚かにも想像すらしていなかったのである。

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