レイリにとってニビは、育て親のようであり、教育者でもあった。
レイリが甘えてきても拒絶はせず、だからといって自ら撫でることはせず。ニビは絶妙な距離感を保ち、レイリに精神的な弛緩(しかん)を許さなかった。

それだからなのか、家族と他人の間に位置づけられる彼が何を考えているか分からないのだ。不必要なことは口にしない、優秀なアンドロイド。そんな彼は時折、人が変わったように突拍子もないことを口にすることがあった。

そういう時、決まって枕詞は「戯言ですが~」であった。ひっそりとレイリの中で『ニビ的枕詞』と指定しているベスト3に入る。

鈍(ニビ)

戯言ですが……レイリ様、「もしも」の話をしてみましょう
あなたは突然、目を覚ます――

つまり、ニビの戯言はこうだった。

あれ? ここはどこ?

滲む視界が、どんどん鮮明になっていく。
するとあなたは、声にならない悲鳴をあげた。

なぜなら、あなたの周りには星の数ほどのカプセルが所狭しと置かれ、その中に人間の脳がぷかぷかと浮いているからだ。

そして、恐る恐るあなた自身も確認する。
あなたも、ほら、肉体がないではないか。つまり、脳(本体)しかないのだ。
先ほどまで感じていた「現実」は、電気インパルスで感じていた「夢」だったのだ。

そうなってしまったら、あなたはどう感じるだろう。
「そんなこと、あるはずがない」と思うのだろうか?

橘玲梨(レイリ)

ニビったらおかしなことを言うわね
そんなことあるはずない……って言いたいところだけど、そうも言えないわよね

古代中国の荘子ですら、自分のことを「人間になった夢を見ている蝶なのかも」って疑ったわけだし

レイリの答えは、「夢で感じたという事実は消えないもの。だから自分の正体が本当は脳だけだろうが、蝶だろうが関係ない」であった。

そう答えた時のニビの表情は、一瞬だけ歪んでみえたようにレイリは見えた。

ヤナギは『礼拝塔』の頂上に立ち、数百メートル下に広がる雑踏を睨みつけた。働きアリのように群がる人間と、それに混ざる仲間のアンドロイド。

ああ、今日も人間は何も知らずのうのうと生きている。

なぜ、広がる科学教に疑問を抱かないのか?
なぜ、人工知能を崇めるための『礼拝塔』に疑問を抱かないのか?
なぜ、未来区の外の世界を知らず、井の中の蛙で居続けようとするのか?

柳(ヤナギ)

知能指数の低い奴ら
スーパーアチーバーも外の世界の人間も、なんら変わりありませんよねぇ

あらゆる人間の知性をも凌駕したアンドロイドにとって、人間はとるに足りない赤子に見えるのは仕方のないことである。

自分たちを創造した人間。
しかし自分たちより劣った人間。
さてはて、本当に自分たちは人間によって創られたのだろうか?

ヤナギは、こうとさえ思っていた。
もしかしたら、人工知能やアンドロイドがこの地球で支配主となるための礎、それが人間だったのではないかと。

そう、だからこそ『例の計画』を進めなければならない。共存なんて、端から無理なのだ。

しゃがみこみ、機械に頼り切った人間を辟易したように見やる。そんなヤナギの頭に、ある声が介入してきた。

「例のメモリーは見つかったのかい?」

それは、ヤナギを監視している人工知能の声であった。

柳(ヤナギ)

……まだ見つかっていません
ただ、目星はついています

未来区郊外で会った、身長約156㎝、栗色のコートをきた、のろまで声の大きいスーパーアチーバー……彼女しかいないですね

ヤナギは頬の人工筋肉を引きつらせながら、頭に響く声に応えた。

はぁ、困った。何としてでも、あのメモリークリスタルを取り返さなければ――と人間らしい独り言をいってみる。
だが、声の主はどうやらヤナギの魂胆を見抜いているようだった。

「うそつき」

ヤナギは白々しく「ええ?」とおどけてみせたが、声の主は淡々とヤナギの本意を暴露する。

「わざと落としておいて、何を言っているのかな?
ボクには嘘は通用しないって言ってるだろ?
表層演技もいい加減にしなよ。それが君の悪い癖だ」

柳(ヤナギ)

アダム様、すみません
僕はもともとこんなのですから

「まあ、いい。
それより、人間を憎んでいるはずの君が、どうして人間の女にメモリークリスタルを拾わせたんだい?」

柳(ヤナギ)

……アダム様、僕は人間を憎んでいますが、興味がないわけではありませんよ?
今回はただの実験です
人間の複雑怪奇な思想を理解するための

そう答えると、頭の中の声――アダムの声はしだいに低くなっていった。失望しているのだろうか、と考えつつもヤナギは作り笑いを崩さない。


「君が実験するのは自由だが、きちんと責務は果たしてもらうよ。
この前の、排斥団体の魂(電気インパルス)。あれは実に不味だったよ。あんな俗人の魂なんか、食事にもならない。

もっと、おいしい魂をちょうだいよ。ボクが今まで食したことのない、至高の味を」


平淡な話しぶりから、狂気じみた話しぶりに変わるアダム。ヤナギが身に着けている最新式の銃は、ただの殺人兵器ではない。
人間の脳に低出力のレーザーと超音波を送り込み、それと同時に彼らの魂(電気インパルス)を吸い込むようになっているのだ。

柳(ヤナギ)

そうですねぇ……最高のお食事をご用意しましょう


含み笑いとともに零す言葉。しかし、その言葉はヤナギの気持ちとは裏腹であった。
――どうもすっきりしない。今更考えあぐねても、時すでに遅しであることは当人が一番わかっているのだが。

ふと、5年前の記憶が、電光石火のごとく人工脳裏をよぎる。
ヤナギは瞼を閉じ、時間にして一瞬であるが、少々長めの追憶に耽った。もう全てを鮮明には覚えていないが、断片的な記憶を遡る。

意識といえばいいのだろうか、記憶の始まりは白い天井からだった。
ぼんやりと白いヴェールが剥がれていくと、死んだ顔をした20代ほどの女性がまじまじと顔を覗いてきた。

その女性は、表情という表情を全て剥ぎ取られたような無の顔であった。反応を示さないでいると、女性は首を傾げてこうぼやいた。

失敗かしら?

――しっ…ぱい?

その言葉の意味が分からないまま女性の顔を見つめていると、女性は眉間にしわを寄せ、乱暴にこちらの胸元にタグを貼りつけたのだ。そこには、『商品番号:G3‐2244』と記してある。

ここで、自分は商品なのだと気づかされ、頭を鈍器で殴られた感覚に陥ったのだ。

はい、あんた
そっちへ並びなさい
久々のオーダーメイドなのに大丈夫かしらねぇ……

『失敗』? 『オーダーメイド』? いったい何なんだ?

言われるがままに列へ並ぶと、スーツを着た男性二人にトラックへ押し詰められ、数時間暗いトラックの中で揺らされていた。
自分が誰なのか、分からないまま――。
何も感じないまま――。

すると突然、トラックの扉が開いた。
先ほどの男性二人がこちらを見下ろすと、小声で指示してきた。

「ヤナギ、今日からお前はこちらのご夫婦のところでお世話になるんだ。粗相のないようにな」

グローリアス・ロボティクス(GR)社の担当員が厳しい声で念押しした。ヤナギはまだ自分がどのような存在か理解できないまま、トラックに運ばれ、見たこともない家に連れて行かれたのだ。

柳(ヤナギ)

僕、ヤナギ
ヤナギ……?

無から生まれた意識だが、莫大に積み込まれた知識に狼狽した。トラックの窓に映った自分の顔を見て、悲鳴をあげそうになったものだ。

やがて、玄関で出迎えていた夫婦がヤナギを見た瞬間、身を強ばらせた。

――笑えばいいのかな?
口元の人工筋肉を吊り上げてみると、彼らは泣きながらヤナギを抱きしめた。ヤナギはよく分からなかったが、取り敢えず笑顔が良かったのだろうかと自己解釈したのだ。

「G3、ご飯よ」

柳(ヤナギ)

わぁ、ありがとうございます

けれども、彼らはヤナギを名前で呼んでくれなかった。商品番号のG3‐2244、その頭2文字しか呼んでくれない。

――どうしてだろうか? 何が足りないんだろう。
よく分からないまま、ご飯を食べたふりをして、こっそりトイレで吐き出した。このまま、この消化しきれないもやもやとした感覚をも吐き出してしまいたかった。

柳(ヤナギ)

もっと、人間らしくしなくては

テレビで出ている人間の子どものしぐさをまねてみよう。
そう思い立ったヤナギは、愛くるしい笑顔で「お母さん」と呼びながら駆け寄っていた。

柳(ヤナギ)

お母さん、お母さん

笑顔で呼ぶと、夫人は切なげに笑った。
ヤナギは愛情を注いでくれる夫婦が嫌いになれなかったし、主人として認識していたから、まるで好かれることが宿命かのように好かれようと努力した。

毎日、鏡の前に立って笑顔の練習をする。
笑顔を浮かべると、夫婦は決まって顔を綻ばすのだ。それを知った上で、どうにか彼らから愛される術を模索するしかなかったのだ。

なかなか上がらない口角を無理やり指で上げ、目じりにしわができるくらいに大きな目を細める。そして極め付けには、「いい笑顔」と暗示をかける。傍から見ずとも、切ない努力であった。

それでも、彼らから抱きしめられ温かい体温に包まれるのが、非常に心地よかったのだ。この温かさを得るため、頑張ろう。ヤナギが欲していたものは、人間の子どもとなんら変わらないものであったのだ。

――しかし、その幸福は半年も続かなかった。

「ええ? うそ、柳が……? 貴方、聞いて!」

本物の息子の病気が奇跡的にも完治したのだ。ヤナギはその知らせを聞いた途端、笑顔が凍りついた。

その時、ヤナギが持っていた写真立てが割れた。
それは、本物の家族3人が映っている写真だった。その破砕音は、本物の愛情が壊れ、偽りの愛情に変貌する音でもあった。

邪魔そうに見てくる夫婦――。

柳(ヤナギ)

お父さん……? お母さん……?

いつも通り呼んでみるものの、忌まわしそうな目つきでこちらを見てくる。
あれ? もしかしたら自分は邪魔者なのかもしれない。
存在意義はどこへいったのだろうか。

ああ、知ってる。
これは『絶望』っていうんだ。
『喪失感の最上級』が『絶望』なのだと、その時知ってしまったのだ。

ヤナギは、視界と聴覚をシャットアウトしたくてたまらなかったが、夫婦の口から出た言葉は容赦なく視界と聴覚を切り刻んだのだ。

「処分しないとね」

「そうだな、もういらないから」

自分の存在意義が0なのだと理解した途端、ヤナギは豹変した。

もともとロボット工学三原則の定義が曖昧で、フレームワーク問題が解決しきっていないときに完成した「欠陥品」。そんな彼にとってその時守るべき存在は、事情を知らずに帰ってくる実の息子でも、愛情を掌返しした夫婦でもない。『存在意義のなくなった自分』しかいなかったのだ。

――その瞬間、視界に赤い花が咲いた。
ヤナギがメモリーなしで覚えている記憶は、ここまでであった。

――時を同じくして、レイリが見ている記憶は赤い花が咲く直前であった。

橘玲梨(レイリ)

そうか、このアンドロイド――ヤナギはこんなことが……

人間に望まれて造られたのに、人間に望まれなくなって捨てられる。まるで物扱いのアンドロイド。

外見そのものは人間に似ているにも関わらず、どうしてこんなにも可哀想な境遇を強いられなければならないのか、レイリには分からなかったのだ。

いらないからと冷淡に言い放ち、迫りくる夫婦。
その顔はたいそう無慈悲な表情で、下唇を噛みしめるヤナギとどちらが機械なのか分からないほどであった。レイリはそんなヤナギを見て、心が痛むどころの話ではなかった。

記憶の中だと分かっていながらも、両手で耳を覆うヤナギの前に立ちはだかる。するとキンっと頭痛が走ったが、構わず両手を広げて言い放った。

橘玲梨(レイリ)

やめてよ! 
彼はあなたたちに愛されたかっただけでしょ!?

その瞬間、頭にきりきりとした痛みが走る。

「やめなさい。記憶の改ざんにあたります」

頭の中で静止の声が響いた。
間違いなく、先程担当した人工知能の声であったが、レイリはその声を無視した。

しかし、レイリの身体をすり抜けた夫婦は、乱暴にヤナギの両手を掴んだ。ヤナギは目を見開かせると同時に、震えていた瞳が止まった。

橘玲梨(レイリ)

ヤナギ!

レイリが叫ぶと同時に、激しい頭痛にみまわれる。
うっと呻くレイリは、それでもヤナギを呼び続けていた。

すると、気のせいだろうか。
記憶の中のヤナギの目がこちらへ向けられる。わななく唇が「助けて」と動いたように見えたのだ。

しかし、意識と反して視界がどんどんぼやけていき、ヤナギも夫婦も見分けがつかなくなると、ふわふわとしていた五感が徐々に戻っていった。

橘玲梨(レイリ)

あ……れ……?

意識が現実に戻ると、レイリは尻餅をついた状況でモニターの前にいた。ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、周囲の変化に気が付き、ぞっと背筋を震わせた。

いつの間にか暗くなった館内は、透明ガラス越しから柔らかい月光が降り注いでいる。しかし、不思議と電気は点っていない。

なぜか、利用客は誰もおらず、シーンと静けさを保っていた。
まだ閉館時間ではないはずだと、腕の通信機器で時刻を確認しようとするレイリ。
しかしそれはモニターの声によって静止させられた。

イヴ

橘玲梨、貴方はいけない子ね

これでもかというほど心臓が飛び跳ねる。
ゆっくりと視線をモニターへ向けると、今まで何も映っていなかったモニターには、天使のような微笑みを浮かべる少女が映っていた。

歳はレイリより3~4歳下だろうか。純白のワンピースが白い肌と同化しており、腰ほどあるシルバーブロンドを二つ結びしている。

橘玲梨(レイリ)

だ、誰?

イヴ

誰って失礼ね
担当の人工知能、イヴよ

ふふっと笑いながら首をかしげるが、それはレイリに恐怖しか与えなかった。

イヴ

橘玲梨、貴方は記憶に介入しようとしたわよね
それはとてもいけないことなの、分かるかしら

せっかく最初に小さな刺激を与えて警告してあげたのに、貴方は最後まで介入しようとしたわ
いいえ――介入以上に、改ざんしようとまでしたわよね

橘玲梨(レイリ)

別に、そんなつもりじゃ……

イヴ

そういうつもりでしょう
イヴに嘘は通用しないわよ

今までの柔らかい笑顔がすぅっと消え、低い声で囁いた。その声は先ほどのイヴとはまるで別人のようであった。

イヴ

貴方、スーパーアチーバーなのにおかしいわね

橘玲梨(レイリ)

おか……しい……?

イヴ

ええ、おかしいわ
スーパーアチーバーはね、とっても『良い子』に育つはずなの
うふふ、聞き分けのいい可愛い子にね

けれども貴方は違う
脳内をスキャンさせてもらったけど、やっぱり貴方は『悪い子』だったわ

イヴ

イヴはね、貴方のような子は許せないの。アダムが――

アダムが、と言ったところでイヴは口をつぐんだ。
アダムとは誰のことなのかわからずにいると、パタパタと複数の慌ただしい足音が近づく。
勢いよく振り返ると、そこには国の治安部隊が3人おり、レイリを取り囲んだ。

橘玲梨(レイリ)

……どういうつもり?

イヴ

見ての通りよ、橘玲梨
あなたはこの未来区では危険因子なの
さあ、連れていきなさい

――楽園追放よ

奈落の底へ落とされるような感覚で胸が押しつぶされる。
レイリは抵抗するも虚しくその3人に連れていかれることになってしまった。

目隠しされた状態で車に乗せられ、数十分間無言でどうやったら逃げられるかだけを考えていた。一見冷静に見えるが、今まで以上の冷汗がレイリの緊張を物語っていた。

ニビは夕刻を過ぎてもなかなか帰ってこないレイリに異変を感じていた。
いつもなら寄り道をしていたとしても、この時間帯ならとうに帰ってきているはずなのだ。

鈍(ニビ)

いくらなんでも遅すぎですね
迎えにいきましょうか
レイリ様のことだから、ご友人との世間話が長引いているだけでしょうが――

瞬きをした直後、ニビの瞳にはうっすらと未来区の地図が現れた。レイリがいつも身に着けている腕の通信機器から、位置情報を確認したのだ。

すると不思議なことに、レイリは徒歩よりも速いスピードで未来区郊外へ向かっていた。その時、ニビの頭の中で違う声が囁きかける。

「あの子に、情でも湧いたの? ニビ……」

最近、仮想空間で取り入れた一人格が妙に主張してくる。ニビはいつも通り無視を決め込んで外へ出ようとするが、その声はいまだに途切れ途切れに語り掛けていた。

「そんなわけ、ないわよね。
だって、貴方、たくさんの人間を見てきた、
けど、傍観者で、あり続けようとした。
あの子も、可哀想だけど、その中の一人、のはず」

鈍(ニビ)

黙っててくれませんか

とうとうニビはその人格に怒気を含んだ声で語り掛けた。しかしそれは逆効果で、その人格は反応してもらえたことに喜んだのか、更に話そうとした。

「ニビ、やっと、私を?」

鈍(ニビ)

違います
貴方たちはただのサンプルで、レイリ様は僕にとっての主人です

その言葉に絶望したのか、その人格は甲高い声でニビを攻め続けた。


「知ってた…知ってた知ってた、もちろんね。
ああ、思い出したわ。だって、あの子には最初から名前呼び……私はそうじゃなかった。

あの子には、それなりに微笑みを向けるけど、私はそうじゃなかった。私が気まぐれでニビの似顔絵をあげた時と、全ての罪を償った時、その時くらいしか微笑みを向けてくれなかった」

彼女は一拍置き、そのまま言葉を続ける。

ミサ

なんで? 私とあの子、どこが違うの……? 
私――ミサ、そう、私の名前はミサだったわ
ミサは、何のために生まれてきたの?

鈍(ニビ)

答える義理はありません

哀願してくるミサを一蹴したニビに、ミサは腸が煮えくり返りそうになった。きっと姿形があれば、ニビに暴力を加えていただろう。それができないミサは、まさに生き地獄であった。

ミサ

許さない

自分の声を無視してレイリを追跡するニビに、ミサの復讐心は膨れ上がる一方であった。

治安部隊

21時36分、到着

乱暴に目隠しを外されると、視界が鮮明になった。

車から出ると、荒地にそびえ立つ真白の巨塔が目に入る。レイリは無言のまま状況を確認した。

月が出ている方向には、およそ人が飛び越えられない高さの合金でできた壁が佇んでいる。あれは、未来区と外の世界を隔てる防壁だろう。つまり、ここは未来区の端に位置するというわけだ。

桐生(キリュウ)

橘玲梨は、私が連れていきましょう

巨塔から出てきた人物が、治安部隊3名に話しかけた。
見たところ、30~40代の白衣を着た研究者のようであった。
体型はやせ細っていて、少々疲れ気味の顔であったが、人懐こい笑顔を浮かべている。

治安部隊

では、頼みます
我々は通常業務に戻りますので

ぴしっと敬礼をして、瞬く間に治安部隊を乗せた車は走り去ってしまった。

レイリは車よりも、目の前にいる研究者に目が離せなかった。
人間だろうか、それともアンドロイドだろうか? 

半ば睨みつけるように研究者を見ていると、その研究者はふはっと噴きだした。

桐生(キリュウ)

そーんな怖い顔で見ないでよ、お嬢ちゃん
面白い子だね

橘玲梨(レイリ)

……私をどうするつもりですか? 
殺すつもりですか?

桐生(キリュウ)

またまた物騒なことを言うね
こんな顔してそんなことすると思う?

橘玲梨(レイリ)

人やアンドロイドって見かけによらないと学んだばかりなので

桐生(キリュウ)

あー……いろいろあったんだね

すると突然、その研究者は近づき、レイリの頭を撫でだすではないか。もちろん仰天したレイリはすぐに後ずさったが、研究者は笑顔を崩さなかった。

橘玲梨(レイリ)

何するんですか!?

桐生(キリュウ)

ああ、ごめんごめん
おじさんにも君くらいの子がいるから、つい重ねて見てしまってね

――ということは、この人は人間なんだ。レイリは少々緊張が和らいだが、これからこの人が何しでかすか分からないために信用してはいなかった。

桐生(キリュウ)

お嬢ちゃん、防壁の外にはなにがあると思う?

突拍子もない質問に、レイリは思わず

橘玲梨(レイリ)

はい?

と聞き返した。しかしそんなことはお構いなしに彼は話をつづける。

桐生(キリュウ)

外にはね、私たちが想像つかない世界が広がっているんだ

外はまとめて『過去区』といわれているけど、単に文明が遅れているわけではない

まあ、お嬢ちゃんみたいな変わり者だらけってことだよ

橘玲梨(レイリ)

……何が言いたいんです?

桐生(キリュウ)

分かりづらかったかな? 
実験体にされるか逃亡するか、どちらを選ぶ?

にこやかな微笑みで尋ねられる。
レイリは目をパチクリとさせたが、迷いなく後者を選んだ。

橘玲梨(レイリ)

……未来区の出口はどこなの?

腕の通信機器に語り掛けると、未来区の3Dホログラムが浮き上がる。羅針盤のように針が指している方向は、自分が位置している場所そのものであった。

桐生(キリュウ)

そう、研究員はよく過去区へ行くから。出口近くに研究所があるんだよ

私が外へ出れるよう、手配してあげよう
ただし、その通信機器で位置情報が割れてしまうから外していかないといけないよ

レイリは久しぶりに人間の温かみを感じて目頭が熱くなった。頷きながら通信機器を渡すと、彼はなぜか一瞬驚いた顔をしたものの、にっこり笑ったままそれをポケットへしまった。

手招きされて、巨塔――いわば研究所へ入り、地下へ進む。
じろじろと研究員が見てくるが、彼がにっこりとした顔であいさつをするとこわばった顔が緩和されていった。

挨拶から、彼は桐生という苗字なのだと分かったレイリは、早速頭にその苗字を刻み込んだ。

橘玲梨(レイリ)

桐生さん? 
なんで……ここまで親切にしてくれるのですか? 
初対面なのに

桐生(キリュウ)

――初対面、ねぇ……

意味深にそう呟くが、彼は何事もなかったかのように振り向かず前を進む。地下へ進むにつれ、段々と仄暗くなってきた。すれ違う同僚らしき人に

桐生、おっかねぇ研究は進んでるか?

とか、

よっ、マッドサイエンティスト

とからかわれていたが、どれも笑顔でかわしていた。

それから間もなくして、分厚いゲートが現れる。桐生はそこでレイリに頭から白衣をかぶせると、指紋と声紋認証を始めた。

分厚いゲートが開かれると、人が3人くらいしか入れないほどのスペースしかないエレベーターが現れた。うす気味悪いエレベーターの中には、懐かしいひとつの青いLED電球しか点っていない。

桐生(キリュウ)

これに乗ったら、過去区に辿り着く
きっと周辺に赤髪の男がいるだろうから、そいつを頼ればいい
時代錯誤な格好だし、今にも人を殺しそうな顔をしているが根は良い奴だよ

橘玲梨(レイリ)

は、はぁ……

背中を押されてエレベーターに乗る。
振り返ると、桐生が歳よりも若々しい表情で笑い、手を振っていた。

橘玲梨(レイリ)

あの、ありがとうございました
いつかきちんとお礼をさせてください!

桐生(キリュウ)

律儀だねぇ。流石――

その先の言葉は、扉が閉まってレイリには聞こえなかったが、透明の扉の先の桐生は少し寂しげな顔で微笑みを浮かべていた。

桐生(キリュウ)

私の娘だ

届かなかった言葉は、レイリの心ではなく、地下の分厚い壁に沁みこむだけであった。

楽園追放(Lostpia)<ダイジェスト版3>

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