フタバの家は、大きな森のはずれにあった。
 大きく、豊かで、いつでも葉が柔らかく擦れる音がする。暖かい木漏れ日が差すその森で、小鳥の声を聴きながら木の根元で眠る。風の香りを胸いっぱいに吸い込んで、季節の食べ物を動物と分け、遊んでから家族の待つ家に帰る。フタバは森と仲が良い、優しい少年だった。


 ある日のことだった。フタバがいつものように森に足を踏み入れ、木の実を探して歩いた先にそれはあった。
 生まれてから今の今までこの森と育ってきたのに、フタバの目の前には見たことのない美しい木が立っていた。白い樹皮に青々と茂る葉。特別太いわけでも大きいわけでもないのに、その木には惹き付けられる何かがあった。

 ぼうっと木を見上げて眺めていたフタバは驚いて、目を大きく見開いた。
 大きな果実かと思ったのだ。木々の中にはたまに、一つだけ大きく育った果実が実っている時がある。
 しかしそれは、よくよく目を凝らしてみると、自分と同じくらいの少女だった。膝を抱え、目を閉じてうずくまっている。
 何より目を引いたのは、少女の頭から伸びた枝のようなものだった。
 少女は、木の実と全く同じように、枝に実っていた。所々に蔓や草が生え、葉が揺れている。植物と同じようにも見える。けれど、どこをどう見ても、少女は人間だった。少女を実らせた枝は、重さなどいともせず、どっしりと構えている。
 ぶら下がっていて、頭や首は痛くないのだろうか。

ねえ、きみ

 呼びかけても返事は無い。

ねえ、ねえ!

 何度呼んでみても、目を覚ます様子はなかった。
 フタバは胸が高鳴るのを感じた。
 森のはずれは、街から遠い。そのためフタバには、同年代の友達がいなかった。遊ぶ相手は、物心ついた頃から、たくさんの森の動物達だけだった。
 自分以外の、同じくらいの歳の人間。見た事も無い、まるで童話に出てくる花の精のような少女。そしてその少女は、果実がごとく実り、枝にぶら下がっている。それこそ見た事が無い。
 これで胸が高鳴らないわけがない。
 フタバは少女の、閉じられた目蓋を見つめた。

ぼくフタバ。明日もここに来るね

 もっと少女を見ていたいと思った。


 それからフタバは、少女の元に通い続けた。
 動物達を連れ、友達だと紹介した。少女の実る木の根に座り、動物と歌ったり、声を出して絵本を読んだり、時には歌う事もあった。
 少女は目を覚ます様子を少しも見せなかったけれど、フタバはそれでも構わなかった。少女を見つめて、その日何があったのか話す事が、フタバの楽しみになっていた。

今日はこいつに、かけっこで負けちゃったよ。いつも勝ってたのになあ

 フタバの横で、得意げに小さな小さな子鹿が胸を張る。近くでは母親と思われる牝鹿が、花の中に腰を下ろしてこちらを見守っていた。

きみはかけっこ得意かなあ。ぼくはだいすきなんだ。思い切り走って、柔らかい草の上にばたんって倒れて大きく息を吸うと、とても気持ちがいいんだよ

 脚を抱えて、小さくうずくまる少女。背伸びをして手を伸ばしても、まだ少女には届かなかった。風で少女から伸びる蔓が揺れて、葉が優しく音を鳴らす。白い頬にほんのり浮かぶ紅色が、雪の中に咲く花と似ていて、きれいだと思った。

きみが目を覚まして、降りてきたら嬉しいのに。そうしたら、もっと近くできみを見つめられるのに。今たくさんきみを見ていると、首が痛くなってしまうんだ

 頭上できらきらと木漏れ日を浴びる少女は、この世のものではないように思えるほど、儚げで、それでいて生命の強さのようなものも感じた。生きているのがわかる。植物が何も喋らなくても生きているとわかるそれと同じだ。葉の先まで凛として、つやつやと光る蔓。控えめでも主張を忘れない、花の花弁のような髪。太陽の光を吸い込んで、風に身を任せている。
 だからフタバは話しかけるのをやめない。生きているのなら、言葉がきっと届いている。
 動物と駆け回ることがなにより大好きだ。
 でも今は、それよりも、少女のことが好きだった。


 フタバが手を伸ばせば、少女に触れられようになるほどの年月が経った。
 背伸びをして、初めて少女に触れた時に感じたこと。それはやはり、自分や、母や、父から感じる、人の体温だった。
 植物でも、人間でも、どちらでも良かった。そんなことは関係なかった。ただフタバが願う事は、少女と会話を交わすことだった。

きみはどんな声で喋るんだろう。どんな声で笑うんだろう。こうして君の元に通うぼくを、きみはどう思うだろう

 今は背伸びをする必要も無く、手を伸ばせば少女の頬に触れられる。少女が降りてくるよりも、フタバが近付くほうが早かった。
 フタバは背が伸びて、顔つきもだんだんと大人になっていっていた。そんなフタバに合わせるかのように、少女も成長していた。伏せられた目蓋を縁取る睫毛は長く、幼い頃ぽってりとしていた唇は、形よくすっと閉じられている。柔らかそうだった頬の線は、滑らかさを残して綺麗に弧を描いている。そのことがわかるようになったのも、ここ数年でのことだ。
 愛らしかった少女が、驚くほど美しくなっていく。少女から伸びていた蔓はさらに伸び、彼女を優しく包み、葉は雨や熱気を遮るように彼女を守る。植物に守られた姫のようでもあり、一人でも存在を放つ強かな少女でもあった。
 少女の頬にそっと触れ、額を合わせる。

きみと話したい。きみともっとたくさんのものを見たい。きみを、きみを…抱きしめたいと言ったら、おかしいかな

 フタバは目を閉じた。

話した事も、目を合わせたこともないのに、どうしてきみに惹かれているんだろう。不思議なほど、きみで頭がいっぱいなんだ。どうか、ぼくの傍にいて欲しいって、言いたいんだ

 少女が果たして目が覚めるのかもわからない、そんな不安をフタバは十年間抱えていた。
 それでもわかることがある。
 きっと目を覚まさなくても、自分は永遠にこの少女のことを好きでいるだろう。
 フタバは少女に、そっと口付けをした。


 その時だった。
 少女の睫毛が大きく震えた。時間をかけて花が開くように、少女はゆっくり、ゆっくりと目を開いた。
 そして少女が目を開いた途端、今まで彼女を支えていた枝が、熟した木の実を落とすかのように彼女を離した。

きゃっ!

わ!

 フタバはとっさに少女を受け止めたはいいものの、体を安定させられずに、少女ごと尻餅をついた。幸い土が柔らかく、葉が敷かれているので、怪我をすることはない。
 動物達が心配そうに木の陰から覗く。彼らに笑顔を向けると、フタバは膝の上の少女に話しかけた。

あの、大丈夫?

 少女は辺りを見渡し、そしてこちらを見上げた。口元が、穏やかな笑みの形を作る。
 ああ、彼女の瞳の色を、初めて見た。その中にぼくが映っている。胸の高まりが収まらない、ぼくの顔が、ビー玉のような目に、きらきらと。

あなたは…

 少女は、フタバの頬に手を添えた。もっとよくみせて、ああ、やっぱり。あの。

いつも、お話を聞いていたの

 少女が口を開く。フタバは驚いて、本当に?と聞き返した。

ねえあのね、今抱きしめてほしいと言ったら、あなたは抱きしめてくれる?

 それは花の綻ぶような笑顔だった。ずっと見てきた頬の薄い紅が、少し強くなっている。はにかむ少女は植物と同じ香りで、人間と同じように、ふふ、と声を立てた。

ねえきみ、すごいよ。願い事を叶える力があるのかな。ちょうどぼくも今、君を抱きしめたくて仕方がなかったんだよ

 フタバの顔に、抑えきれない喜びの表情が浮かぶ。
 フタバは思い切り少女を抱きしめた。少女の腕が背中に回る。少女から生える蔓が頬をくすぐるのが、少しだけくすぐったかった。

ねえ!かけっこを教えて!わたし、あなたがあんなに楽しそうに話すから、どうしてもやってみたかったの!

 少女が森の出口の方へと走っていく。

あ、まって!

 今まで走った事がないのが嘘かのように、少女は軽やかに消えてしまう。もう子鹿には、かけっこでは全く勝てなくなった。
 急いで追いかけようとして、フタバは立ち止まった。
 少女の実っていた木。白くて美しい、優しい木。
 木の幹にそっと耳を当てる。生きている植物の温もりがあった。

君の愛情が水となり、彼女を生かしたんだよ

 フタバは顔を上げた。

いま喋ったのは…あなたは、木ですか?

そう。私だ

 どこが顔なのか、はっきりとわからないので、また木の幹に耳を当てる。

彼女は生まれてすぐに、捨てられていたんだ。幸い私は他の樹木よりも力があったので、彼女を拾って育てようと思ったんだよ。けれど所詮私は木だから、やれることには大きな限界があってね

 そこにやってきたのがフタバだったという。
 栄養をあげたりするだけなら、持っているという不思議な力で、木の枝から人の必要な栄養分を与える事が出来る。少女から生えた草木は、その力の影響だそうだ。
 しかし、感情はそうはいかない。彼女が成長して木から離れるには、彼女と対等にある人間の感情が必要だった。
 木がざわざわと、お辞儀をするかのように揺れた。

彼女を育ててくれてありがとう


 フタバは驚いて、そして笑った。

こちらこそ、ぼくに幸せをありがとう


 木の幹を、少女にしたのと同じように、強く抱きしめた。
 そして、少女を追って、森の出口まで走っていった。

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