幼い頃から、本が大好きなお母さんは、眠る前にぼくにたくさんの物語を聞かせてくれた。

女神は怒りました。その旅人は、勝手に村の星を捕って喰ってしまったのです。輝きがなくなった村は、夜を真の闇で過ごすことになってしまいます。村の人々から強く信仰されていた女神は、村を、その人々を愛していました。そして女神の怒りに触れた旅人は、姿を消してしまったのです。旅人のその後を知る者は、誰もいませんでした…

 うとうとする意識の中で、聞いたことがある。

お母さん、星ってどんな味がするの?

 母は本を閉じて、ベッドの脇へそっと置いた。お母さんの暖かい手が、ぼくの額を撫でる。意識がゆったりと、遠のいて行くのがわかる。小さく灯っていたランプが、ふっと消える。

星はね、神様のものなの。だから、本当は誰にもわからないわ。でもね、ミドリ。神様のものを勝手に捕る事は、許されないことなのよ

 そうなんだ。返事をする間もなく、ぼくの意識は眠りの中に落ちていく。

 お母さんが読んでくれる話には星がたくさん出てくる。僕たちの住む村の空が、星で溢れているから、きっとそういう話が多く語り継がれてきたのだとお母さんは言っていた。
 そしてどの話でも、星を捕ってしまった人、食べてしまった人は、重い罪を背負うことになった。小さな頃からそれを聞いて育っていたから、星に手を出すことは罪なんだと、頭の中に強く印象づけられていた。
 それでも、夜に空を見上げると思ってしまう。
 砂のように散りばめられた細かなきらきら。手に取ってみたらどうなんだろう。口にしてみたら?
 こうやって考えている人は、絶対ぼくだけじゃない。そう思っても周りに話しづらいのは、印象づけられた罪のせいなんだと思う。きっと笑われる。ミドリお前、またそんなこと言ってんのかよ。子供だなあ。
 それが嫌で、それでもぼくは星への興味を捨てられないでいる。

 ぼくの家の裏から少し歩いた場所に、小さな水たまりがある。いつも窪んでいて、なぜか常に水が入っている。
 その水たまりは、冬の寒い日、暖炉を暖めるために木を探しに行った時に見つけた。
 最初はただの水たまりだと思って通り過ぎたけれど、それはいつまで経ってもそこにあって、晴れの日でもなぜか干上がらない。不思議に思って水に触っても、特に何か起きるわけでもない。入ってるのは少し汚れた、ただの泥水だ。

お母さん、なんだか変わった水たまりがあるんだよ

 暖かいシチューを食べながら、お母さんに話してみたことがある。

いつも水があるんだ。凍ってもいないし、でも、触っても何もないんだ

まあ

 パンを口に運びながら、お母さんは言った。

不思議ね。もしかしたら、神様の落とし物かもしれないわね。ミドリ、勝手に何かしてはだめよ。そっとしておくのよ

 そんなものはない、と否定しないお母さんが好きだ。本が好きだからか、夢のような話をしても、お母さんは笑って聞いてくれる。
 神様の落とし物だったら、きっとすごい発見だ。

 ぼくはそれからずっと、水たまりのところへ通うようになった。覗いても相変わらずの様子だ。
 お母さんは何かしてはだめだと言ったけれど、見続けるだけなら問題ないよね。この水たまりがどうなるのか、ぼくは気になって仕方がない。
 水たまりの隣に腰を下ろして、空を見上げる。
 星がとっても綺麗だ。晴れの夜、星の砂場のようになるこの村の空が、ぼくはとても好き。
 手を伸ばして、そっと撫でるように手を動かしてみる。空気を掴んで、そっと口に運ぶ。何の味もしないし、何が起きるわけでもない。
 それでも毎晩、水たまりの横でこうやって星に手を伸ばすことを、やめられないんだ。

 長い冬が終わって、春が見え始めた頃だった。
 星座も変わってきて、けれどぼくは変わらず空を撫で続けている。マフラーを巻いてコートを着てブーツを履かなくても、外にいられるようになってきた。かさかさ音を立てていた葉も緑色になってきて、周りの景色も大きく変わり始める。
 小さな花が、道の脇で、夜の風に揺れている。お母さんは毎年、この花をたくさん摘んできて、窓に置いてある花瓶に挿す。今年も咲いてきたんだ。そう呟いて横目で見ながら、いつものように水たまりに向かった時だった。

 薄暗い夜の中で、水たまりが、淡く、淡く光っていた。

 思わず駆け出していた。土に汚れるのも構わずに、地面に手をついて水たまりを覗き込む。
 いつも濁った泥水しか入っていなかったのが嘘みたいに、窪みには溢れそうなほど、透明で澄んだ水が入っていた。
 そして、その底で光る、何か。
 ぼんやりとして、それが何なのか一目ではわからなかった。黄色、黄緑、赤、青、ピンク、橙。虹のような、何色とも言えない光。
 動悸が収まらないまま、思わず手を伸ばす。震える指先が、水に触れる。水は冷たくも感じたし、暖かくも感じた。袖が水についたのに、濡れた感覚はない。ぼくはそのまま、水底へと手を沈めていった。

 ざら、という感触がした。砂のようだった。手のひらでそっとすくい、ゆっくり持ち上げる。水が、手のひらから零れていった。
 ぼくの手の中に残った、きらきら光る、なにか。水から出てきたそれは、淡かった光を、強い輝きに変えた。
 空に浮かんで光っているものしか見た事はない。絵本の中の、架空の姿しか知らない。けれどこの、ぼくの手の中で輝くこの光は、星だ。
 理由はないけど、そんな確信があった。

 もしかしたら、神様の落とし物かもしれないわね。ミドリ、勝手に何かしてはだめよ。そっとしておくのよ。
 神様のものを勝手に捕る事は、許されないことなのよ。
 星を捕ってしまった人、食べてしまった人は、重い罪を背負うことになった。
 旅人のその後を知る者は、誰もいませんでした…
 お母さん、星ってどんな味がするの?
 星って、どんな。

 だめなんだ、だめなんだ、だめなんだ。ミドリ、だめなんだよ。

 震える手を止めることが、どうしても出来なかった。肩も、気付いたら体中が震えていて、震えているのに、いるのに。
 そのままぼくの唇は、手のひらの光に触れた。


 ざらり。ざらざら、とろり、ぱきん。つるつる、ふわり、ぐるぐる、きらきら。
 形容出来る言葉が見つからない。それは個体だったし液体で、ゼリー状で、何かの肉のようでもあって、それでいて綿菓子のようで、その感覚は、わからない。
 足を踏み出したら、とろけるような柔らかさの羽毛に包まれて、冷たくひんやりとした心地よいガラスの上に肌をつけて、暖かな日差しに目蓋をくすぐられて、優しい匂いが体を包む。心地の良いことが一度に起きたような、口に出せない幸福感。これを食してしまったら、罪だと言われても当たり前だと思える。震えそうなほど、過ちの味がする。
 ぼくは、死ぬまで知らなかったはずの味を、知ってしまった。


 わかっていたのに、わかっていたのに。口にすればするほど理由のわからない涙が止まらなくて、口に、口に、口に運んでしまう。
 許されないことなのよ。
 そうなんだ。
 泣きながら、ぼくはずっと、星を食べ続けた。


 春が終わりそうだった。あの時から、ぼくは毎日、毎日星を食べた。忘れられなくて、やめられなくて、特に空腹感があるわけでも、星を食べても腹が膨れるわけでもないのに、星を食べる夜の時間が待ち遠しくて、そのことを考えながら1日を過ごすようになった。

ミドリ、窓のお花の水を変えてやってちょうだい

 お母さんが、夜ご飯の支度をしながら言った。窓に生けてある花は、もう季節が変わるからか、違う花に変わっている。
 花瓶からそっと花を抜き、水を捨てる。花瓶をゆすいで、新しい水を入れる。そして、花を元通りに入れる。
 いつからか、そう、きっとあの時から。まばたきをすると、目の前に一瞬光がちらつくようになった。睫毛のさきから光が零れ落ちるような、ぼくにしかわからない感覚。
 花がきらめいた。ぼくの睫毛のせいだ。

お母さん、変えたよ

ありがとう。さあ、ご飯が出来るわ。お皿を取って

うん

 お母さんの作る、ご飯が好き。
 でも、それよりも、もっと。

 その晩、いつもは光っている水たまりが光っていなかった。不思議に思って足を速める。
 もしかして、泥水に戻ってしまったのかな。
 謎の焦燥感に駆られて、急いで水たまりを覗き込む。
 そこには、いつも溢れていた星はなかった。
 代わりに、一匹の魚がそこにいた。

こんばんは。ミドリさんですね


 その魚は、ぼくの名前を知っていた。口を開いて、ぼくの名を呼んだ。

驚くのも無理はありません。あなた達の世界で、魚は喋る生き物ではないでしょうから


 ゆらゆら、小さな窪みの中の、澄んだ透明の水の中で、魚のうろこが光った。見た事のない魚だ。うろこの煌めきも、初めて見る色に変わる。

君は、だれなの

名前は、ありません。ただ一つ自己紹介出来る事は、私は天の魚であるということです

あ…


 天。かみさま。そう聞いた途端、思い切り体が震えだした。
 神様のものを勝手に捕る事は、許されないことなのよ。
 何度もよぎったお母さんの言葉が、また頭の中でこだまする。

心当たりは、あるようですね。その様子だと、ご自身の過ちも、きっとご理解されているのでしょう


 魚は続けた。

ミドリさん。あなたは、星を食べましたね。それも、一度では飽き足らず、たくさん、今日まで毎日のように。それが罪だと、わかっていながらも


 ああやはり、罪だというのは本当だったんだ。お話の中の、空想の出来事じゃなかったんだ。わかっていたはずなのに、今更そんなことを思う。
 魚はくるりと窪みの中で回った。

あなたが食べた星の数は尋常じゃありませんでした。これから夏が来ます。そして、七夕が来ます。ですが、あなたが星を食べ過ぎたせいで、天の川に流す星が足りなくなってしまいました


 目が合った。

これは重罪です。ミドリさん、あなたは取り返しのつかないことをしました

 お母さん。ぼく、お母さんの言う通り、なにもせず、そっとしておけばよかった。
 だって、水たまりがここにあるのがいけないんだ。そう言いたかったけど、手を出してしまったのはぼくだ。口にしてしまったのはぼくだ。お母さんは忠告してくれていた。それこそ、何年も前から、ずっとだ。
 どうしよう、どうしよう、どうしたらいいの。頭が真っ白になって、目の前がチカチカしだした。ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙が頬を伝って落ちる。
 

一つだけ、罪を償う方法があります


 魚がぱしゃんと小さく水面を弾く。目の前のチカチカが少しだけ収まった。

あなたは星を大量に食しました。このことにより、今、あなたの体には、相当な星の成分が蓄積されています。あなたの細胞が、星に近くなっていると言ってもいいでしょう。そして今、あなたは罪の意識により、涙を流していますね


 涙が伝った頬に手をやると、驚くことに、頬は濡れていなかった。だが、涙はどんどん伝って行く。
 乾いたのとは違う。その証拠に、たくさん涙が落ちたはずの服が、どこも濡れてはいなかった。

その涙は、この天の川の水を通せば、星になります。つまり、あなたが、罪の意識で涙を流せば流すほど、星の数は補われていくということです。こちらに来て。水面の上に涙を落としてごらんなさい


 言われたままに、水たまりの上で、まだ流れる涙を落とす。膝が震えて、うまく立っていられなかった。
 涙は、水面に触れた途端、見覚えのある輝きに変わって、底へと落ちた。

あなたには、夏の七夕の日、ここで涙を流し続けて戴きます。それが、罪を償う方法です。良いですか。あなたの過ちは、この空を見ている人間全てに被害を与えました。村によっては、せっかくの七夕に、暗闇で過ごさねばならないところもあるでしょう。あなたが涙を流し続ければ、いつかは空に星が戻っていきます。ただし


 魚の雰囲気が僅かに変化する。

それは少しの期間で終わる者では決してありません。あなたにはおそらく、永遠に、七夕の日に泣いて戴くことになるでしょう。そしてその涙は、罪の意識によるものでないと、星に変化しません。自分の犯した罪を忘れないでください。あなたが好きなこの星空を見られない人の悲しみを、忘れないでいてください


 ゆらりと、魚のひれが舞った。そのまま消えてしまうような気がして、ぼくは慌てて呼び止めた。

待って、最後に聞かせてください。どうしてこんなところに、こんな、水たまりができたんですか


 魚はおかしそうに笑った。

神様も、落とし物をするんですよ


 
 村で、七夕を祝う日がきた。この村は星が好きだ。だから、この土地発祥ではない七夕伝説を、もう何十年も昔から、祝い続けている。
 家のテーブルに、食べきれないほどの料理が並ぶ。豊作でありますよう。健康でありますよう。大切な人といつまでも幸せでありますよう。人それぞれの様々な願いを込めて、伝統的に作られてきた料理を、人々は口に運ぶ。
 願いが天の川を流れて、神様の元に辿り着きますように。祈りながら、眠る前に空を見上げて、目の中に輝きを残す。

今年は少し、空が暗く感じるわ。気のせいかしら

 お母さんが言った。
 ぼくは目の前の料理を口に運んで、ゆっくりと噛んだ。そして飲み込んだ。

ねえ、お母さん

なあに?

ぼくね、お母さんの作るご飯が、一番好きだよ

あら。嬉しいこと言ってくれるのね

来年もまた作ってね

変なミドリ。毎年作ってるじゃない

 ぼくは笑った。

 食事は全部、濡れてしょっぱく感じた。

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