はじまるよ

第 1話 プロローグ

 月野美良(つきの・みら)はずっと片頭痛に悩まされていた。頭の奥底から荒々しく神経を引き吊り出されて来るような頭痛だ。良く判らないが他に形容の仕様が無い。片頭痛の痛みは、一般的な外傷と違って、当事者でなければ理解出来ないモノだ。
 それでも片頭痛とは高校時代からの付き合いなので、今はある程度は対処が出来るようにはなっている。痛みが始まる前に鎮痛剤を飲んで大人しくしているという、実に消極的な方法だ。原因はストレスと言われているが、片頭痛に画期的な治療法は今の所見つかっていない。

 そんな美良は府前大学文学部の四回生、今年は卒業論文を提出しなければ卒業が出来ない。片頭痛も痛いが、これも別の意味で頭の痛い問題だ。そこで美良は卒業論文のテーマに”失われつつある農村の風習”にしようかと考えていた。
 婚約者の宝来雅史(ほうらい・まさし)は同じ大学の講師をしている。彼の研究テーマは『民俗学』である事から、色々と助言を期待して卒論のテーマに選んだのだ。もちろん、雅史も賛成して全面的に協力を申し出てくれている。

 地方の農村などに伝わる祭りなどを、昔からの風習や因習に結び付けて、卒業論文にしようという、良く見かける在り来たりな論文だ。
 それでも論文とするためには、ある程度の下調べは必要なので雅史に相談してみた。『五穀の器』をメインのテーマにしてはどうかと言われた。『五穀の器』とは東北地方に伝わる風習で、五穀豊穣を願って盃に酒を満たしてお祈りをする物らしい。雅史が研究の対象としている民間信仰の対象物の一つだ。
「インターネットを使って情報を集めてみて、後は現地に取材に行って論文の形式にまとめれば楽勝だよ」
 雅史は事も無げに言っていた。普段から彼が行っている活動の仕方だからだ。
「そ・れ・に…… 現地取材に行く時には一緒に行くからさ」
 どうやら雅史は一緒に旅行に行くという点に関心があるらしい。普段なら年頃の娘を思って門限にうるさい父親も、かつての教え子であり婚約者でもある雅史が一緒なら、簡単にOKしてくれるだろう。
「でも、現地調査のやり方が分からないの……」
 美良は雅史に上目遣いに尋ねた。これで雅史が美良の頼みごとを断った試しはない。美良の必殺兵器だ。


「現地のお爺さん・お婆さんや郷土研究家に話を聞くだけさ。 お祭りなんかがあったら、それを写真に収めてレポートに貼り付ければ、それっぽい論文になるもんだよ」
 雅史はニコニコしながら答えた。彼は取材に連れて行って貰えると考えているらしい。まるで、散歩に連れて行って貰えると喜んでる子犬のようだ。美良はクスリと笑ってしまった。

 美良は早速、インターネットを使って取材先の絞り込みに入った。ネットに溢れ返る雑多な情報の中から、何点かの祭りの話をピックアップして読み込んで行く。目に付いた祭りを更に詳しく検索したり、大学の文献で調べたりしていく中で、ある動画サイトで祭りの様子を紹介している物もあった。
 その中のひとつに奇妙な祭りの様子のレポを見つけた。どこかの神社らしき境内の真ん中で、ふんどし姿の中年男性が胡坐をかいて座り、その周りには火を灯した蝋燭を立っている。村の男たちが竹のようなもので地面を叩いて回っているだけだった。何が奇妙かと言うと誰も言葉を発しないのだ。録画自体が無音なのかと思ったが竹の棒が地面を叩く音は聞こえている。そして無音にも関わらず地面を叩く音は全員が揃っているのだ。一定の間隔で叩くのかと思ったが、そうでは無くて三歩歩いたら叩く、一歩歩いたら叩く、四歩歩いたら叩くをなど、見た限りではランダムな歩数だ。
 普通なら何がしかの祝詞を唱えるなり、御囃子が聞こえたりして華やかなものだが、その祭りでは終始無言で地面を叩いて回っていた。そして、物の五分程で儀式は終了したらしい。”らしい”というのはそこで録画が終っているからだ。

”んーーーー、何だろう? 不思議なお祭りね。 これの続きがあるのかも知れない……”
 興味を持った美良は村の所在地を調べてみた。北関東の山間部にある村だった。これなら日帰りで行ける距離なのだ。明日にでも車で出かけて日帰りしてしまおう。そう考えた美良は、雅史の研究室に行くと肝心の雅史は居らず、研究室のホワイトボードには『出張』と書かれていた。
 そう言えば、何日か前に信州方面に『五穀の器』の取材に行くと言っていたのを思い出した。
「しょうがないなー、わたし一人で行っちゃうぞー」
 雅史とは味気ない取材ではなく、旅行だけを楽しみたかった美良は一人で出かけることにしたのだった。
「…… 雅史はがっかりするかもね」


 美良はクスクス笑いながら、雅史には取材先から帰って来てから謝っておこうと考えた。


 翌日、美良は自分の軽自動車を運転して、カーナビを頼りに村に出向いた。その村に近づくとトンネルが見えて来た。車が一台通れるような狭いトンネルだ。山を迂回すれば行けない事も無いが時間が掛かってしまう。余計な手間を掛けたくない美良はそのまま進む事にした。しかし、トンネルに差し掛かった瞬間、誰かに『入るなっ!』と警鐘を怒鳴られた気がした。
 美良は思わず車を停車させてしまい、辺りの様子を伺ってしまった。何もいない。美良は自分の気のせいだと言う事にして、車を村に向けて走らせた。

 まず、村役場に向かい大学の論文を作成するために、村の祭の事を尋ねに来たのだと、来訪の目的を伝えると村の役人たちは大層喜んでくれて、自ら案内役を買って出てくれた。何も無い田舎の村に、都会から若い女性が来ることが、珍しいので嬉しかったのであろう。
 村の史跡を巡っている時、村の一番高い山に登ると眺めとは裏腹に寂れた神社があった。昔は神主も居たのだが村人の減少に合わせて無人となり、村人たちが交代で境内の掃除などをしているのだそうだ。
 美良の目的だった鎮守の祭りは、春先に行われるだけなので見学したければ、その時に来るしか無いと言われてしまった。美良は神社の成り立ちなどを聞きながら、論文用に何枚か写真に収めていった。
「先日、泥棒が入りましてね。 大したものが無いのが気に入らなかったのか、扉なんかを壊していきやがりまして…… まったく、神さまに畏敬を持たない輩には困ったもんですわ」
 案内してくれた村役場の人が怒りながら言っていた。
「泥棒が神社の中を荒らしてしまっていますが、古いだけで特に謂れのある場所では無いのですよ」
 境内を掃き掃除をしていた老人が話してくれた。
「ただ…… 御神体を何処かに捨ててしまったらしくてね……」
 老人は続けてそう言って顔を曇らせてしまった。普通、神社の御神体というのは「三種の神器(勾玉・剣・鏡)」が殆どだが、ここの神社では河原で拾った石なのだそうだ。
「折角、苦労して押し入ったのに、御神体が石ころでは泥棒も、さぞやがっかりしたでしょうな」
 そう言って老人は笑っていた。


「この先にもお寺があります。 神社と同じで住職はおりませんが、古い仏像なんかはありますよ?」
 案内役の山形誠が言ってきた。
「はい、ぜひ見学させてください」
 美良は興味を示して案内を頼んだ。
「わかりました。 こちらへどうぞ」
 山形は喜んで美良を寺に案内した。そして、神社からの帰ろうとした時に、美良は何かを踏んでしまった。薄汚いコンビニの袋だ。なんだろうと屈んで手に取ると、中には茶碗の欠片が入っていた。
”なんだ、ゴミか…… このまま捨てて置くのも神様に失礼よね”
 美良は欠片を帰りがけにでも捨てようかと自分のバッグにしまった。美良は道端に落ちてるゴミは積極的に片付けるタイプだ。 その後、寺の中を見て回り山形に謝辞を述べると、そのまま帰宅の途についた。


 翌日は大学で村で取材した内容をパソコンで論文の形にしておいた。雅史はまだ出張から帰って来ていないが、メールで村での事を書いて置いた。大層残念がっていたが、埋め合わせに東京ねずみ園に連れて行ってあげると書くと機嫌が直ったらしい。本当は自分が行きたかっただけだが、雅史は美良と二人きりになれるのなら、近所の公園でも大喜びしたであろう。その事を考えるとニンマリしてしまう美良であった。
 その時、大学の教室の窓に何かが張り付いているのに気が付いた。なんだろうと近寄ると紙で出来た人型だった。
「え? なに?? 気味悪い……」
 その人型は美良の見ている目の前から、風に吹かれてどこかに飛んで行ってしまった。そういえば大学に来る前に駅のホームで誰かに見られている気配がしたが、あれは気のせいでは無かったのかも知れないと思い始めた。
「……」
 とりあえず、今は目の前の論文に集中しようかと美良は思った。論文は雅史が出張から帰ったら二人で詰めを行うとメールで約束しておいた。


 ひょっとしたら自分の勘違いなのかもしれないし、闇雲に雅史に心配かけるのも嫌だったので、自分が感じている違和感については何も言わない事にしていた。美良は大学から自宅へ帰宅の途についた。夕方近いので大学の中に人が少なくなっているからだ。そして大学近くの駅のホームで電車を待っていた。そして、ホームで電車のアナウンスに何かの音が混ざっているのに気が付いた。
 リズミカルな小太鼓と笛の奏でる小鳥の様なさえずり。祭囃子だ。場違いなお囃子は、まるで日の暮れを追いかけるようにして、ホームの中を右に左に揺れる様に奏でていた。
「……え、祭り囃子? 」
 ここは大都会の駅の中。確かに近くには古い神社があるが、今は祭りの時期では無い。加えて美良は片頭痛が始まりつつあった。心臓の鼓動に合わせるかのようにズキンズキンと来る痛みに耐えながら、バッグから鎮静剤と水を取り出した。
「え? お囃子が片頭痛の合図なの??」
 片頭痛とは不思議なもので”これから始まるよ”みたいな合図があるのだ。人によって異なるが美良の場合は、目の前の光景がキラキラと異様に眩しくなるのが合図だった。しかし、今回は祭囃子が合図になっているようだった。
”やっぱり、あの村に行ってから、何か変な事ばかり……”
 不測の事態に戸惑ってしまったが、ズキンズキンと来る痛みに顔をしかめ始めた。こうなると痛みが去ってくれるまで大人しくするしかない。手持ちの鎮痛剤を水で飲み込んで、ベンチに座って痛みをやり過ごそうかと考えている時に、駅のホームの端に黒い影を見つけた。


「なんだろう……」
 その黒い影は小さくてはっきりとしていないが、人の形をしているのは判る。背丈は小学生の低学年くらいだ。それがフラフラとホームの端を行ったり来たりしている。
「…… 幽霊?」
 美良は咄嗟にそう考えた。それをジッと観察していると雅史の顔が浮かんできた。
『死後の世界なんて在りはしない。 情報が消失して終わりなのさ。 幽霊だの輪廻転生だなんて、宗教家がお布施目当てに言っているだけだ』
 恋人の雅史がそんな身も蓋も無い事を言っていたのを思い出した。しかし、今、自分の目の前に幽霊らしき者がいる。美良はフラフラとした足取りで駅の端まで来た。その黒い影と手を繋ぎたいと何となく思ったのだ。
「危ない!」
 侵入してきた電車がけたたましく警笛を鳴らす。だが、美良はホームから落ちる寸前に、駅員によって片手を掴まれ落下せずに済んだ。
「アッ! 私は何をしようと……」
 美良は目の前を通り過ぎようとしている電車と駅員を交互に見ながら狼狽した。風圧で美良の長い髪が巻き上げられている。
「いや、良く有ること何です。 お客様?。 この駅では夕暮れ時に、ホームの端を見つめてはいけませんよ」
 駅員は微笑みながら会釈して美良の手を離し、客の誘導業務に戻るために歩いて行った。
 自分が危うく電車に飛び込みする寸前だった事に、美良はしばし愕然としてしまった。そして、駅員に改めてお礼を言おうとして振り返ると、ホームには誰も居なかった。そして黒い影も消えていた。


”幻覚……”
 あの村に行ってから幻想や幻聴が始まっている気がする。村との因果関係を確かめる必要性に美良は気が付いた。
”この事は早めに雅史に相談しよう……”
 美良は手元にあるスマートフォンで雅史にメールを打った。今有った事をメールに打とうとしたが止めにして、ただ”相談したい事がある”と書くのに留めた。心配性の雅史に負担をかけるのは気が引けたからだ。美良はメールを打ち終えた時に、ふと手を止めて思い出した事があった。
「そういえば、今日は英語の宿題を手伝うって、姫星と約束していたっけ……」
 妹の月野姫星(つきのきら)は高校生。好奇心旺盛な姫星には今の事は黙っている事にした。姉が駅で電車に轢かれる寸前だったなんて言うと、余計な心配かけてしまうに違いない。

 やがて普通電車がやってきて、美良の目の前に停車した。美良は電車に乗り込んで考え事を始めた。
”まず…… お風呂に入って気分を落ち着けようか…… アロマオイルが残ってるといいな……”
 鎮痛剤を取り出す時に、村で拾ってきたゴミが入っている事を思い出した。大学で捨てようとしていたが、うっかり入れたままにしていたのだ。
”家に帰ってから捨てようか…… 陶器は燃えないゴミだから明日出さないといけないのよね……”
 美良は電車の中でそんな事を考えていた。電車は美良を載せて夕焼けの中を走って行く。


 しかし、電車に乗った所を最後に、美良の足取りが途絶えてしまった。

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