いっちばーん!

緑色に染まった桜の木の下を駆け抜けて。滑る階段をしっかりと掴んで。多目的棟の三階に駆け上がった。先生もめったに通らない廊下は走り放題。スカートがめくれあがっても、見ている男子は一人もいない。まだ肌寒い空気を振り切るように朝日が降り注ぐ窓をどんどんと追い越して音楽室のドアを勢いよく開けた。

薄入天(うすいりあめ)、十三歳。今日も部活に一番乗り!

小晴

おはよう、雨ちゃん

小晴……なんでいるの!? 私、昨日よりさらに十分も早く来たのに! いったいいつからここにいるの!? もしかして住んでるの?

小晴

今日はなんとなく早く目が覚めちゃって

ぽけーっと半分閉じた目を擦りながら、宮出小晴(みやでこはる)は小さなあくびで答える。

今日も一番乗りは嘘。私は毎日二番乗り。合唱部の部室のドアを開けると必ずそこには小晴がいる。一年経っても変わらない。

艶のある真っ直ぐな黒髪を頬の高さで二本に束ねて、胸元でふらふらする動きに合わせて揺らしている。癖っ毛がまとまらないのが嫌で乱暴にポニーテールにしている私にはちょっと羨ましい。なんとなく飾り気がなくてダサいと思っているこの制服だって、小晴が着れば有名なデザイナーが考えた高級制服に見えてくる。

私より五センチも背が低いはずなのに、中学生にしてはちょっと成長が早すぎる胸元のボリュームもまだ成長中の私としては羨ましい限りだ。

薄いカーテンから差し込む朝日が小晴を柔らかく照らしている。一年通して毎日見ても飽きないような神々しくて絵画みたいなその風景。クラスも一緒で部活も一緒で仲良しだけどどこか私の遠くにいる。

そんな小晴に追いつきたくて一番乗りを目指してみるけど、何故か小晴はいつも私より先にいる。

今日は何時に来たの?

小晴

う~ん、ついさっきだよ

昨日もそう言ってたじゃない

何度聞いてもこの調子。時間をかけなきゃ私じゃ小晴に追いつけない。勉強も部活も完璧で、一年生からコンクールに出させてもらってるんだから。それを超えるにはもっともっと練習しなきゃ。

小晴

それじゃ、自主練始めようか~

うん、ちょっと気になるところがあるから教えて

小晴

いいよ~

のんびり立ち上がるのが待てなくて、私は小晴の隣に走っていってカバンを置いた。片手を握って引っ張り上げて、そのまま壇上へ連れて行く。

合唱部の朝練は自由参加だから、部員の半分くらいしか来ないしその人たちだって毎日来るとは限らない。いつもいるのは私と小晴だけ。小晴より先に着きたくて、一年生のときからだんだんと朝が早くなる。それでも変わらず小晴は私より先に音楽室にいて、寝惚け眼で私を迎えてくれるのだ。

小晴

天ちゃんは元気だねぇ

早起きなのか寝惚けてるのか、はっきりしなさいよ

最初は朝に弱いだけかと思っていたけど、小晴は毎日こんな調子だ。私がついてなくちゃそのまま一日動かないのかもしれない。それなのにいざとなると何でも出来ちゃう小晴が羨ましくて、ちょっとズルいと思ってしまう。

憧れ、ライバル、大親友。

私にとっての小晴は一言じゃ言い表せないくらい色んな存在で、そばにいると目が離せなくなる。

小晴にとっての私はいったいどんな存在なんだろう?

隣をチラリと盗み見る。相変わらず半分閉じた虚ろな瞳で前か右か左か下か上をぼんやり見つめている。とても頼りなく見えるのに、どうしてこんなにも目を奪われるんだろう。私の視線にまったく気付いていないみたいで、小晴は二回深呼吸をしてからさらに大きく息を吸い込んだ。長いまつげが閉じた瞳を覆うように整然と並んでいるのが見える。
代わりに開かれた口からは小晴の小さな体からは想像もできないほどの声量で音が発せられる。

小晴

アメンボ赤いなあいうえお

二人きりの閉めきった音楽室に小晴の声が反響した。

それって演劇部のやつ?

合唱部の発声練習は音階を少しずつ上げて順番に発声する。ちょっとした小晴の冗談なのかもしれないけど、本気かもしれないから性質が悪い。

えへへ、とはにかむように笑った小晴に私は溜息を一つ。

小晴

うん。でもいつも聞いてたら面白そうだなぁ、って

はいはい、付き合うわよ

思いつきでこんなことを言い出したりして、時々私を困らせるのだ。その言葉にどれほどの意味があるのかはわからないけど、何故だか私には無視できない。

ふんわりとたんぽぽの綿毛みたいに微笑む小晴に私はついつい歩調を合わせてしまう。このままじゃ一生追いつけないのに。わかっていても小晴がどこかに行ってしまうそうで、繋いだ手を離したくないと思ってしまうのだ。

小晴

天ちゃんは優しいね。だから好き

ドクンと心臓が大きく動いた。小晴の好きにはどのくらいの意味が込められているんだろうなんて無意味なことを考えてしまう。

わけわかんないこと言わないの

朝日よりも赤くなった顔を小晴に見られないように手で覆った。小晴は特別気にする風でもなく、私を不思議そうに眺めている。これじゃ私だけが変みたいじゃない。

じゃあ、始めるわよ

小晴

うん

私のアルトボイスを包むように小晴の綺麗な混じり気のないソプラノボイスが重なった。

con spiritoⅠ

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