今夜の車内はいつもより賑やかだった。聞き慣れた運転手の低い声に混じり、今日は一際甲高い声が響いている。
助手席に座った、些か露出の多い服を着たその女性は、彼と同い年であり、都内のファッションショップで働いているようだ。根本が黒くなった金髪をくるくると巻き、ミラーに映る濃い目の化粧が夜の帳の中でも目立つ。
どうやら彼は、この女性を車の中へ誘うことまでは成功したらしい。たしかこの後は徹底的に下調べした、小洒落たバーまで向かうはずである。食事からここまでのステップを踏む段階で、彼の恋はいつも終わっていた。
車内は彼と女性のお喋りで盛り上がっていたが、彼の声の細やかな震えから私にはその緊張が伝わっていた。二人の距離がどこまで近づいていたかはわからないが、雰囲気から察するにおそらく想いが通じあっているものだと思ってよかった。女性の方もきっと最初から、満更でもないつもりでいたのだろう。
いつもより少しだけ重くなった車体をネオンの森に滑らせて、私は目当てのバーが備え付けられたビルの駐車場に停まった。車を出た二人の背中を見送り、私は人波を眺めていた。
いよいよ彼も不遇の時を終えて、ハンドルに涙をこぼす日々に別れを告げるのだ。いつまで続くのかはわからないが……それでも今は、彼を恋人として受け入れてくれる人間が現れたことを素直に喜んでいたい。
不安材料が残るとすれば、ああ見えて意外と傷つきやすい彼が、今まで私に吐いてきたような弱音を、彼女が受け止めてくれるかどうかであった。それはいつも私の仕事であったけれど、これからはそんなこともなくなるかもしれないのだ。彼もこれまでとはまた違う種類の弱音を吐きたくなるかもしれないが、その相手はただの車ではなく、心から信頼出来る人間のほうが、彼のためにも良いに決っているのだから。
彼は酒を呑んでくるだろうか。だとすると、車は代行になるのか。それとも自分の手で、彼女を送っていくのか。あるいは、二人で一緒にどこかで眠るのか。
そういえば以前、駐車場で隣り合わせた車から、自分の中でカップルが『そういった行為』に及んで大変だったと聞いたことがある。拒否権などないし、拒んだところでどうなるものでもないが、私的にも御免被りたいところであった。それが単に不潔だとか危険だとか、私の本来の用途ではないからだといったようなことだからなのか、それともまた別の理由があったのか、自分でもわかりかねるところだった。
一時間ほどしただろうか、ネオンが灯る街から少しずつ人の影が減ってきた頃、ビルの階段を降りてきた一人の姿に目を向けた。
彼である。先ほどまでの女性は、隣にいなかった。
一人でバーから出てきた彼はそのまま運転席に身体を滑りこませると、何も言わずにエンジンをかけた。
さっきまでの女性は?
まあ、いいじゃないか。それより、行きたいところがあるんだ。発車してくれ
わかりました。
街を抜け、長く続く車道を走った。彼は珍しく無言であった。
もしかして、いつものようにフラれてしまったのかもしれないと思ったのだが、その割には失恋後のお決まりであった涙を流さず、それどころか彼は無表情を保ったままで、そこには怒りも悲しみも感じられずにいた。
私には人間の感情の繊細な機微を汲み取ることができない。彼が今どのような気持ちでハンドルを握っているのか、皆目、検討がつかない。そもそも、あのバーで何が起こったのかもわからないのだ。理由を訊ねることもできたが、彼の珍しい姿に驚いたまま、彼の向かうままにタイヤを滑らせるだけであった。
カーナビをつけて、彼が目指したその方向は、いつもの首都高とは違う、まだ私が踏み入れたことのない場所だった。周囲からビルの姿が少しずつ減っていき、代わりに木々が増えるようになった。次第に人気の少ない場所へと近づいていく。
まさか、フラれたショックで自殺でも図るつもりなのか? と考えたが、彼の立ち直りの早い性格を考えるとその線は薄そうだ。
やがて、私は丘のような場所を走っていた。木々に囲まれながら坂を昇り、丘の上へ、上へ、向かっていく。
狭い坂を登りきり、彼はようやく私を停車させた。そこは丘の最上部の見晴らし台のような場所だった。彼は私から降りると、冷たい空気に晒されながら煙草に火をつける。
失礼ですが、ここに何の用事が?
いいから、これを見てみろよ。お前に見れるのかどうかわからないけどさ。
私は映像感知センサーを駆使して、彼の指した方向を認識する。
そこから見下ろしたのは、一面に広がる綺麗な夜景だった。先程まで私達がいた街並みが広がり、イルミネーションのように輝いていた。
また、街の美しさもさることながら、少し目線を上げれば満天の星空が夜の世界に広がっている。天気予報では雲ひとつ無い快晴になると告げていた通り、人工的な美しさを自然の壮大な美しさが覆っていた。
これはきっと、美しい夜景……なのでしょうね。
なのでしょうねってなんだよ。お世辞でももっと感動してくれよ。
それで、なぜ今このタイミングでこの夜景を観に来たんですか? それも、おひとりで。
別に。なんか見たくなったんだよ。それにひとりじゃなくて、お前もいるだろ。
彼は満足気な顔で眼下の光景を見つめていた。
この場所は穴場でさ、昔一度だけ友達と来たことがあるんだけど、感動してなあ。
もしも俺に彼女が出来たらいつか絶対ここに連れてきて、この夜景を見せてみたいと思ったんだ。随分クサいと思われるかもしれないけどな。
いえ、いいことだと思います、多分。ですが、なぜ今私とこれを観に来たのかがわからないんですよ。
だから、なんとなくだよ、なんとなく。自分でもよくわかってないんだ。
煙草の煙が星空へと昇っていく。済んだ空気が二人の間に流れた。
あの女性はどうなったんですか? やはり、またダメだったのでしょうか。
ああ、うん。ダメになった。ううん、ダメにしたというか……その、なんだ。
フラれたんですか?
いや、フッたんだ。
私はわずかに驚いた。思わずクラクションを鳴らしてしまうところだった。少し鳴ったかもしれない。
突っ込んだことを訊いてしまいますが、それはまたどうして?
その、悪口を言われてな。カッとなって言い争いになってさ。お前みたいな女、こっちから願い下げだって言ってやった。
珍しい、と私は思った。彼は自分の悪口に、結構なほど寛容な性格だったからだ。もちろん傷付きはしているのだが、基本的にはその程度で簡単に怒りを露わにするような人間ではない。だとすると、相当酷いことを言われたのだろうか。
貴方を怒らせるようなことを言うなんて、余程のことだったのでしょう。
うん、まあ。俺の悪口はいくらでも言われたっていいんだけどさ。お前の悪口を言われちゃって。それでちょっとな。
彼の言葉を認識することに、一瞬の遅れが生じた。
私の悪口?
何を言われたのかわかりませんが、なぜそれで貴方が怒るんですか?
彼は携帯灰皿で煙草を乱暴にもみ消した。ここでようやく、彼は感情らしい感情を示してみせた。
だってさ、ボディの色がダサいとかだったら選んだ俺のセンスが悪いから別にいいよ。でもお前のしゃべり方が、可愛くないとか、愛想がないとか、つまらないとか言うんだぞ。
私には彼がなぜ苛立ちを見せるのかわからなかった。
まあ……最近はまた人工知能の音声認識システムも進歩して、愛嬌のあるしゃべり方や、もっと人間らしい会話のできるような車種も増えてきたので。私のような旧式の、堅苦しい話し方では、特に一部女性層には好まれにくいという部分があります。
どこに愛想がないもんか。お前とこうして会話することが、どれだけ楽しいと思っているんだ。俺はお前と話すことが好きなんだぞ。
それは車である私にとって予想外の言葉、というよりは、相手の中にあった予想外の認識だった。
私との会話が好き、ですか。
そうだ。いつも俺を慰めてくれてる……気がするし、ジョークだって冴えてる……気がするし、とにかく、お前をバカにされるのはガマンできなかったんだ。
それで、彼女と喧嘩して別れてきたわけですか。
そうだ。でも、さすがに大人気なかったかな。
現場を想像してみた。女性はきっと、大層驚いたことだろう。たかだか車のシステムに、つまらないと軽口を叩いてみただけだ。それを想いが通じあっていたはずの男性に、本気で怒られてしまうのだから、理解に苦しんだことだろう。
私だって理解できていないのだ。見た目のセンスや実用性に向けられた言葉ならともかく、私の人格に由来することで、真剣に怒る人間の姿など、想定外もいいところである。
人間ではない。感情も尊厳も持っていない、ただの鉄の塊なのだから。
いえ……なんというか、いるのですね。貴方のような人が。
バカバカしいと思うだろう。自分でもどうかしていたと思うよ。
思います……が、悪い気はしません。
それは、お前の気持ちか?
私は答えなかった。答えられなかったのか、答えたくなかったのかはわからなかった。
んで、なんかどうしようもなくこの景色を、お前と見たくなってしまったわけだ。理由はもう聞くな。考えたってわからないんだから。
そうですね。私も理解を諦めました。
いいね。考えるのはやめとけ。それにしても男、それも車と夜景を見に来るなんて、女日照りとはいえ俺もヤキが回ったもんだなあ。
その割には満足そうな顔を浮かべている。満足しているのかどうかは車の私にはわからない。
それから私達は、彼が煙草を三本吸い終わるまで、見晴らし台からの景色を眺め続けた。
私には、自分の感性で美醜を判断する機能が備わっていない。あくまで一般的な評価基準を学習して、これはきっと美しいのだろうと判断するだけであり、彼が愛する目の前の景色も、これはおそらく美しいのだと考えるだけだ。
それでも私は彼と、一人と一台で、この景色を眺め続けていたいと思った。それはやはり人工知能がプログラムに沿って判断したことだったのだろうか。
冷えてきたな。そろそろ帰るか。
彼はまた運転席に身を沈めてエンジンをかけると、先程の坂をゆっくりと降り始めた。
いつかきっと彼はまた、今度は愛しい人を私に載せて、この場所へと訪れるのだろう。それがいつになるのかわからないが、私はこの場所を覚えていようと思った。彼が私を連れて行きたかった場所を。叶うことならば私に備えついた学習機能とは違う部分で。
……あれ、違う道に出ちゃったぞ。カーナビの指示に従ったはずなんだけど。
さあ。衛星の調子でも悪いんじゃないですか。
持ち主を故意に迷わせるなど、言語道断の話かもしれない。それでも私は彼と一緒に、少しでも長くこの星空の下を走っていたかった。