彼が『それ』を靴箱の奥から引っ張りだしてきたということは、今夜が彼にとって正念場になるということだった。なお、私が彼の元に訪れてから通算十回目の正念場である。
 先程チェックした天気予報によると今夜は雲ひとつ無い快晴らしい。きっと、満天の星空を拝める夜になるだろう。彼からすれば絶好の勝負日和となりそうだ。

 季節が秋に迫って空気が少しずつ冷え始めた土曜の昼。人気のない駐車場。彼はを塗りつけたスポンジで私の身体をこすり始めた。鼻歌交じりではあるけれど、しかし真剣に、私の身体の曲線を丁寧に磨き上げていく。
 私の自慢はこのボディラインであり、彼もひと目でそこに惚れたようだ。彼の少し固い手によって、私の身体に手入れがなされていく。彼は少し下品な笑顔で、喜びを隠しきれないといった様子だった。

今夜もデートですか?



 私は彼に訊ねた。

おお、わかるか?


 スポンジを懸命に動かしながら彼が答える。私のトップカウルが白く染まっていった。

そのカーワックスを私に使うということは、また女性を口説きに行くということです。毎度のことですよ。

今夜はな、今夜こそは違うんだよ。俺は今夜絶対、あの娘をモノにしてみせる!

その言葉を聞くのは十回目です。二桁到達おめでとうございます。

めでたくねえよ。でも今日こそは本当の本当に、マジなんだ。俺はもう、あの娘のことしか頭にないんだよ。



 彼の目が急に、真剣な光を灯し始めた。彼が本気であることは私も知っている。彼には誰かへの好意を示すとき、本気でないということがないからだ。

健闘を祈っています。今夜こそは、貴方が泣きながらハンドルを握って、首都高を延々と走り続けることがありませんように。私のタイヤも随分すり減ってきました。

いつも申し訳ないと思っているよ。でも大丈夫。今夜こそはお前をもっとロマンチックな場所へ連れていってやるから。


 彼は笑いながら私の身体を念入りに磨き続けた。ボンネットからフロントフェンダーに沿っては、特に力の入れどころだという。
 彼は二種類のワックスを所持していた。ひとつはホームセンターで買ってきた一般的なメーカーのもの。もうひとつはインターネットで取り寄せた海外製の高級品である。彼が今宵こそ勝負、と決めた日には靴箱の奥から願掛けも込めてその高級品を取り出して、私の身体を磨いてくるのだ。


 すでに気付いている人もいるかもしれないが、私は車である。


 二年前、普通免許を取得した翌日に、それほど所得が多いわけでもない彼は、六十回のローンで私を購入した。車、それも新車を持つことは男のステータスだという古い考えの持ち主であった。先述のように空気抵抗の少ないこのなめらかなボディラインと、情熱的な赤のカラーが彼に見初められたのだ。

 数年前から車に人工知能を付けることが一般化し、その技術は年を追うごとにめざましい進歩を遂げた。記憶、判断、確認といった作業の大部分を車が自律的に行うようになり、音声機能も最新型にもなれば運転手との日常会話は当然の事、少しばかり突っ込んだような会話までできるようになった。そこまで人間じみてしまえば当たり前の現象というべきか、中には車に対し所有物以上の感情を抱く者まで現れることとなる。
 車に搭載される人格はやがて性別を選べるようになり、彼は男性、つまり私を選んだ。その理由は後で知ることとなる。

 私を買った彼は十人並のルックスを持ち、すぐ調子に乗ることも多いうえ自惚れやすいが、人当たりも良く誠実さを備えている人物であった。雑な部分も多いが運転が荒いわけではないので、私も安心してハンドルを任せることが出来る。

 ただ、他人より少しばかり異性に夢中になることが多い人間だった。それなのに彼は運に見放されているのか、要領が悪いのか、もっと根本的な理由が他にあるのか、少なくとも私の見てきた限りでは、その想いが成就したことはなかった。その度に新しい誰かを好きになり、アタックしては敗れるということを繰り返しているのだ。

それで今夜も、いつものレストランですか?

まあな。



 彼は自信有り気に答えた。
 女性を口説く上で、彼の中の『鉄板』のデートコースといえば、まずは駅で待ち合わせてレストランへと向かい、そこで食事を取りながら相手に告白。成功したら今度は駅の近くに停めた私に彼女を載せておすすめのバーへ。そこから先は雰囲気次第……といったプランであった。
 だが、毎度そのプランが上手くいかない。いったい何が『鉄板』なのか。
 先々月、九回目の失恋をしたばかりである。いい加減プランのほうにも問題があるのではないかという気がしなくもないが、どうにも彼はこのコースに強いこだわりを持っていて、変更する気は一切無いようだった。

今日のデートはな、会話の内容を徹底的に研究したんだ。まず、相手の趣味や好きな物を完全に把握した。そこからどう話を広げるかまで想定して……。



 今宵の計画を彼は熱心に語り出したが、その聞き手である私は所詮、車である。人間同士の会話のことなど、計算できるほど賢くないのだ。
 彼が意中の女性と、想いを伝えると決めたデートに向かうときは、あの高級品を取り出して、少しでも私に輝きを与えようとする。彼にとって私は女性の心を掴むためのアイテムだったのだ。彼が相手にされない女性達が化粧を施すように、彼は私を美しく保とうとする。私は彼の顔であり、ファッションであった。

 車の人格に男性である私を選んだ理由は、もし女性だと女性を口説き落とすのに落ち着かないからだという。私は実に不純な動機で、彼の手元に置かれていた。
 だが、フラれる。するとその度に傷心した彼は、助手席を暖める相手もいないまま、夜の首都高を気が済むまで延々と、安全速度で走り続けるのだ。私はまたかといった心情で、夜の闇を縫いながら彼の気晴らしに付き合わされることになる。彼は精神をすり減らし、私はタイヤをすり減らした。

 いつだったか、泣き疲れてハンドルに伏していた彼がこんなことを呟いたことがあった。

俺ってどうしてモテないんだろうなあ。



 その夜もいつものように負け戦だった。夜通し走り通した私達は朝陽も昇りかけたパーキングエリアに停まり、冷えた空気の中でただ胸の傷が癒えるのを待っていた。

見た目は……良いとまでは言わないけれど、そこまで極端に悪くはないよな。服装だって気を使ってるし。

どうでしょうね。私は車なので人間の基準を判断できませんが。



 私は明確な返答を避けた。
 とは言いつつも車である私にだって、人間の文化や生活を学習していれば、ある程度の美醜を見定める基準は培われる。それを踏まえた上でも、彼のルックスを評価するのは難しいのだが。


おしゃべりが下手なのではないですか?

お前、さらっとキツいこというな。自信はないけどさ。



 彼のおしゃべりが下手などと、私は認識したことは一度もなかった。彼は運転中にもよく私に話しかけてくる。私はそれを対応しづらいなどと感じていなかった。あくまで会話はプログラムによって行われているだけであって、私にそう認識する機能があるかどうかはわからないが。

でも、そういうのも上手い奴もいるんだろうなあ。俺ってなんだかんだでよく喋る割に、何を話してもテンションだけの人間だからな。中身がないのかもしれない。もっと女の子がグッと掴めるようなことが言えればな。お前、ちょっと練習台になってくれないか?

私の心をグッと掴んでどうするんですか。掴むのはハンドルだけにしてください。



 彼は自惚れやすい性格から多少、自信過剰に陥る面も多かったが、その反動で恋に敗れると、極端に自虐的になった。その度に私に弱音と愚痴を吐くのだが、それでも自分をふった女性の悪口をいうことは、わずか足りともけしてなかった。それは彼の惚れやすい気の緩さを憎めないものにするだけの誠実さの証であったし、私は彼のそんな人間性に惹かれている部分があった。

 そう、彼は悪い人間ではない。欠点は人並みにあるが看過できないものではないし、私は彼が普段どのようにして意中の女性を口説いているのかまではわからないのだけれど、少なくとも人格面に於いては標準的な他者にとって徹底的に否定されるものではないとは思っている。いや、否定はされていないのかもしれないが、受け入れ方の違いもある。

 車でしかない私には人間の女性の気持ちが理解できない。単にめぐり合わせの悪さといったようなものもあるのかもしれない。車が恋愛論を唱えるのも滑稽な話だが、一概に言えない要素が複雑に絡み合っているのだから。もしかすると私が彼に対して、思い入れだけでその人間性への評価を好意的に見積もっているだけだということもあるのだ。

 ただ、何を言ってもたかだか車の言うことである。人間を判断する事自体、本来はおこがましい話である。


そもそもどうして、何度も失敗しているにも関わらず、そんなに女性を何度も好きになるのですか。男性本来の性なのか、それとも貴方個人の資質の関係ですか。



 率直な質問をぶつけてみる。彼は少しだけ考える素振りを見せたが、明確な回答は導き出せないようで、渋い顔をしてみせた。

理由なんか説明できないぞ。
なんというか……気がつくと好きなんだから仕方ないんだ。そんで好きになるともう周りが見えなくなるというか、ブレーキが効かなくなるんだよな。

私のブレーキは毎回きちんと踏めるのに、おかしな話ですね。

恋は盲目っていうのかな。視界が曇っちゃうんだよ。

ワイパーが必要ですか?

俺は自分が思っている以上に、安っぽい人間なのかもしれないなあ。だから簡単に心を奪われる。でも、逆に意中の相手の心はモノに出来ない。

私の人格がもし女性の設定だったら、あなたに少しでも女性の心というものを教えることができたのでしょうか?

車に心を教えてもらうようになると、男以前に人間としてちょっとキツいな……。

そうです。私には心や感情といったものはありません。ですので、そういう話題は私ではなく、ご友人か親しい誰かに口にしたほう効率的なのではないでしょうか。私見ですが、ご友人は多いほうだと見受けられますが。

ん……それはいたって正論なんだけどさあ。



 彼は伏せていた顔をあげて、ハンドルを人差し指でトントンと軽く叩いた。目は真っ赤になっていたが、涙はすっかり流しきってしまったようだ。

フラれて車に泣き言だなんて、寂しいやつだと思われているのかもな。
でも、お前に話をしていると安心するんだよ。
なんだかんだで、俺がフラれるところ、一番見てるやつだからかもしれないな。



 彼のそんな言葉を聞いても、私には彼を納得させたり慰めたりするようなことは言えないのだ。人の感情や心情の繊細な機微を汲み取る、という機能までは備わっていないのだから。仲のいい友達にでも付き合ってもらえれば、私のような存在に接して夜通し泣き腫らすより、はるかに収穫があろうものだ。
 ――しかし、私が彼のためにそうできるようになりたいと感じているのは、備え持った学習能力のうちなので、きっと何も不思議な事ではないはずである。

私に弱音を吐いたり、走らせて気が済むのであれば、機能の有効活用になるので、それでいいのではないでしょうか。

お前にあまり負担もかけられないしなあ。

それが私の仕事です。それとも、ガソリン代の問題ですか?

いや、そうじゃなくてさ。



 彼は私への気遣いをそういう意図で口にしたわけではないことは理解できている。しかし先程の言葉と矛盾するのではないかと思うが、あくまで単なる車という存在として、彼の言葉の表面上以外の部分を理解できていてはいけないのではないかという懸念もあるのだ。



 そんな夜をいくつか乗り越えて、彼は今また、こうして私の身体を磨いている。高級なワックスはすっかり乾き、仕上げの拭き取り作業へ至った。彼は週に一度、私の身体をワックスで磨いてくれた。
 私にまた、私の知らない女性への想いを託しているのか、愛おしそうにボディを磨く彼の姿が、フロントガラスにうっすらと映る。

 ふと、彼の想いがいつか実を結び、この助手席を温める相手が現れ、二人が肌を晒し、身体を重ねる時が訪れたとして、彼の少し固い手は先程までの私にそうしたように、相手の肌を撫でて、磨き、洗うようになるのだろうかと思った。今まで私にだけ向けられてきたその作業を、私ではない誰かと向き合って笑い合いながら、愛おしそうにその指を、身体の上に滑らせていくのだろうか、と。

よし、今日のお前はまた一段とピカピカだぞ。どの車よりも綺麗で、かっこいい。

ありがとうございます。今日こそうまくいくといいですね。



 洗車の作業を終えて汚れたシャツを纏いながら、彼は照れくさそうに笑った。何度異性に心を奪われても、それが初めての恋であるかのように彼はこうして恥ずかしがり、懸命になった。
 輝きを増した私のボディを満足気に眺める彼を見て、せめてその顔がもう曇らぬよう、今夜の女性が彼を受け入れてくれることを願わずにいられなかった。そのような想いもただの車にしては少し、でしゃばりすぎているような気もしていたが。


―後編へ続く―

And I Love Car(前編)

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