フィニー

あれ、竜也さんお一人ですか?

どのくらいぼんやりとしていたのかわからない。タナシアが去ったのを見送った時と少しも変わらない姿勢のまま、竜也は誰も通らない長い廊下を見つめていた。その背中に声をかけたのはフィニーだった。

竜也

あぁ、はい

答える声にも覇気がない。いつまで考え込んでいるつもりだ、と何度も自身に言い聞かせてはみたが、何にも追われることがないせいかいつまでも次に進もうという気が起きない。

そもそも今までで自発的に何かを始めたことがあっただろうか? いつも周囲に追われ、騙され、唆されていただけじゃないか。

焦点の合わない達也の瞳をフィニーが心配そうに見つめている。全く知らない場所で急に人ではないものに囲まれているのだ。精神がおかしくなったと思っても仕方ないのかもしれない。だが、それは違う。元から竜也は少しおかしかったのだ。

フィニー

あの、大丈夫ですか?

竜也

ちょっと考え事をしていただけですよ

今にも泣き出しそうなフィニーに竜也はぎこちなく笑いを浮かべて答えた。

ほら、まただ。

こうして誰かに背中を押されるように自分の行動を決めてしまっている。

タナシアと話すのだって、ここにいるフィニーに頼まれたからじゃないか。俺は本当はどうしたいんだ? 生きたいのか、死にたいのか。それすらもわからないままだ。

フィニー

そうですか。あの、これちょっと作ってみたんですけど、よかったら

フィニーが持っていたトレイを竜也に差し出す。その上には真っ白な皿に乗せられたクッキーの山。死神、今は肉体を失った竜也も含めてこの世界では食事は不要だと聞いていた。それならこんなお菓子でさえも本当ならないはずの代物だ。

竜也

これは?

フィニー

何も食べないと変な気分になるようだったので。本物は食べられないのでこれは偽物ですけど、何もないよりはいいかな、って

一つを手にとってまじまじと見るが、懐かしい感覚がする。たった一日ここにいただけなのに、自分の日常が遠くなったように感じる。

そのまま口に運んでみる。

竜也

うまい

フィニー

そうですか? 初めて作ったので不安だったんですけど、お口に合ったなら嬉しいです

懐かしい、という感覚がした。普段何も考えずにただ口に食べ物を詰め込んでいたことが幸せだったと知る。ここにいる竜也はもう人ではない。それほど未練なんてないと思っていた自分の人生に少しだけ後ろ髪を引かれる。

竜也

でも、なんでクッキー?

フィニー

私はお仕事で人間界に行くことがありますので。こんなテーブルでお話ならクッキーが似合うかなって。あ、紅茶もありますよ、いかがですか?

竜也

いただきます

古城の中庭のようなこの裁きの間でメイド姿のフィニーに紅茶を淹れてもらっている。それだけ見れば中世貴族の一幕のようだ。実際のところ、竜也は死刑判決を待つばかりの哀れな囚人といったところが。

二つのカップを並べてフィニーは交互に少しずつ紅茶を注いでいく。食べたり飲んだりなんてしないはずなのに、フィニーの手つきは妙に堂に入っている。

竜也

なんだかこなれてますね

フィニー

はい。結構練習しましたから。本物、じゃないですけど実際に淹れたものを飲んでもらうのは初めてですけど

そう笑いながらフィニーは最後の一滴を落とした方のカップを竜也の前に差し出す。エプロンドレスのロングスカートを器用にまとめて、空いている二脚から一つを引いてそこに落ち着いた。

フィニー

私も一枚

子供っぽく山盛りになったクッキーから一枚をつまんで口に運んだ。サクッという乾いた音とともにフィニーの顔に喜びが広がっていく。

人ではなくとも甘いお菓子に心癒されるのは同じらしい。

竜也

それにしても練習って。タナシアにそうするように言われてるんですか?

フィニー

いえ、ほらメイドさんってとっても可愛いじゃないですか?

そう言いながらフィニーはエプロンドレスの肩に付いたフリルを引っ張る。確かに可愛いことは否定しない。竜也も好きか嫌いかと聞かれれば迷うことなく好きだ。とはいってもその可愛さというのは中身、もとい着ている人物の良し悪しによるところが大きいわけで。

目の前に座ったメイドが可愛いと思えるのはフィニー自身が魅力的であるに過ぎないとも言える。そんな竜也の考えに少しも気付かないままフィニーは言葉を続けた。

フィニー

人間界で初めてメイドさんを見たとき、私も着てみたいなぁ、と思いまして。それで自分用のメイド服を作って、紅茶を淹れたりお洗濯とかお掃除とかをやってみたり。裁きの間の間取りもそれぞれに決められるんですが、ここはほとんど私の趣味で作ってます

タナちゃんはあまり興味がなかったみたいなので、とフィニーは少しだらしなく笑みを零している。

フィニー

エーちゃん、シェイドのメイド服も私が作ったんです。エーちゃんって背も高くてすらりとしてるし、しっかりしてるからとってもお似合いですよね

竜也としては一目見たときから似合わないと思ってしまったのだが、なるほど半ば強引に着せられていたということだ。どちらかと言えば今朝に見たようなジャージを着て汗を流している方が彼女には似合っていると思う。

竜也の乾いた愛想笑いをフィニーは都合よく受け取ったようで、満面の笑顔で返事をしながら竜也に出したはずのクッキーをいそいそと自分の口に運んでいる。

竜也

なんだか楽しそうですね

フィニー

はい。私はあまり人に指示したりするのは得意じゃないみたいですから

そうだろうな、と思いながら竜也はまだ薄く湯気の立つ紅茶に口をつける。すっきりとしたほのかな苦味がぼんやりとしていた頭を刺激する。竜也はどちらかというとコーヒーの方が好きで紅茶はあまり飲まない方だったが、フィニーがデザインしたというこの空間にはやはりこの一杯が趣がある。

フィニー

本当はここの裁判官は私がやることになってたんです。でも私ってそういうの全然出来なくて。それでタナちゃんが代わりにやってくれることになって

竜也

へぇ、そうなんですか

あんなに面倒そうにしていたタナシアが、と思うと意外だ。とはいえちゃんと達也の資料を読んでいたり、陰で隠れて様子を覗いていたりするところを見れば、口振りよりは真面目なのかもしれない。

それに、と竜也は嬉しそうに紅茶を啜るフィニーを見つめる。確かにこんな娘が出てきて生死を決めると言われてもまったく実感が湧かなさそうだ。それに簡単に懐柔されて全て許してしまいそうな雰囲気もある。

竜也

確かにそれがいいかもしれませんね

フィニー

あ、なんで今笑ったんですか!?

堪えきれずに漏れた竜也の笑いにフィニーがむむ、と眉根を寄せる。それ以上は何も言わない辺り、自分でも自覚はあるのだろう。

フィニー

ですからやっぱりタナちゃんにも元に戻ってもらわないと

竜也

やっぱりそこに帰ってくるんですか

先ほど手痛く失敗した身としてはその話題は胃が重くなる。大してマイナスになっていないような気もするが、そもそも下がるほどの好意をタナシアが持ち合わせているかもわからない。

フィニー

以前は仕事嫌いってことはなかったんですよ。むしろ真面目で上級死神の試験は最年少で合格したくらい優秀なんですから! ……口が悪いのは昔からですけど

ぽりぽりとクッキー齧りながらフィニーは思い出すように空を見上げた。その先は竜也が来てから一度も変わることがない真っ黒な夜空が広がっている。

竜也

付き合い長いんですね

フィニー

まぁ、いわゆる幼馴染ってやつです。こちらの世界では珍しいですけど

幼馴染。現実に本当にいるものなんだな、と竜也は感心してしまう。あんなものは物語の中だけのものだろうなんて穿った見方しかしたことがなかった。

もちろん幼い頃からの友達、というのは世の中に溢れるほどいることを竜也は知っている。でもその二人がいつまでも変わらずいられるとは思えなかった。

急な引越しもあるだろう、学力が違えば学校も離れていくだろう、友達や恋人が出来れば知らずに会う時間も減っていくはずだ。

所詮同じ幻想だと竜也は信じたかったのかもしれない。自分が天使なんてものを夢見るのと同じように。幼馴染も永遠ではないと。

竜也

仲、良いんですね

搾り出した声に弾むような喜びが重なった。

フィニー

はい、とっても頼りになる妹みたいな感じです

フィニーさんが年上なのか、と漏れでそうになった嘆息を竜也は口を固く閉じて押し込めた。こんなことをいうとまた泣きそうな顔で抗議するに違いない。それはそれで見ていて可愛らしくもあるのだが。

こんなに人と面と向かって話したのはいつ以来だったか。いつもは本や携帯を見ながら適当にあしらう竜也にとっては珍しいことだった。楽しそうに笑うフィニーを見ながら、自分も楽しいと思っているのだろうか、と考える。

話し相手は鏡のようなもので自分の気持ちを知らず知らずの内に反映しているものだ。今フィニーのように満面に笑うことはなくても竜也は確実に今を楽しんでいる。

じゃあタナシアはどうだったのだろうか?

話したいことはあるのに、どう伝えていいかわからなくて黙り込んでしまった竜也と同じようにタナシアにも伝えたい言葉はあっただろうか。それは結局のところ竜也にはわかりようもない。いつになるかわからないが、タナシアが戻ってきた時に聞いてみるしかない。

タナシア

ずいぶんと楽しそうじゃない

その時は竜也が思っていたよりずいぶんと早く来た。

微笑むフィニーの真後ろからここを去ったときと少しも変わらないふてくされた表情のままタナシアが立っていた。

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