＃夢

　ふと考える。夢ってなんだろう？　見るもの？　それとも持つもの？

　中学校の騒がしい廊下。帰りのホームルームも終わり、嫌いな勉強を忘れられる貴重なひととき。これからはそれぞれの部活の時間だ。

　彼女のセミロングの髪が翻る。

　アインは学年十位に入るほど頭がいい。私なんかと違って。

　手をぱたぱたと振って階段を駆け下りる。

　私はそのまま彼女を追いかける。

　ミステリアスな雰囲気をまとって、昇降口を颯爽と出て行く。

　私はただ軽く手を振って見送っただけ。最近付き合い悪くない？

　私とトキノヤアインは幼稚園からの顔見知り。彼女とはそれだけの関係。顔を知っていて、同じ部活にいる、そんだけ。

　いきなり私の肩を叩くものだからびっくりした。振り向いた先に背中にバッグを担いだヤノ君が立っていた。ちなみに彼はクラスメートだ。クラスの中では割と話す方である。

　私のツッコミに対して即答。しかもきっぱりと言い切った上に胸を張って。

　あのな、と彼は私に耳打ちすると部活へと向かっていった。

　静かな夕暮れ時の公園。高台に位置し、展望台のついているこの公園はそれだけでも有名であったが、今は別のことでもその知名度を上げている。

　しばらく待つと聞き慣れない着信音がどこからともなく聞こえてくる。電源を切っておいたはずのけいたいからだ。ここまでは噂通り。私は電話を取る。非通知だ。

　テナー音域の優しげな声。それは受話器ごしから、そして背後から聞こえた。

　振り向いてお辞儀をする。

　噂で、そしてヤノ君から聞いた通りの男性がそこに立っていた。

　今日は全身黒ずくめ。でも決して派手ではない、どちらかというと地味な着こなし。今どきの若い青年っぽくはない自分風にアレンジしている感じだが、その中でも印象的だったのは夕日を照り返す左耳の小さくて丸いピアス。似合っていると言うより、そこだけが妙に目立ってしまって不釣り合いに感じる。まるでこれは彼のものではないのだとでも言っているかのような、自己主張しているような、そんな感じだ。

　そう言えば、アインのつけているピアスって……。

　一礼して、少し早足で出口に向かう。

　お分かりの通り、彼の質問には答えない。本当は訊きたいことがある。聞いて欲しいことがある。でも今日も明日も明後日も、その先さえも私にゆとりなんてない。これから習い事だ。

　公園を出るぎりぎりのところで、彼は声を掛けてくれた。立ち止まり、時計を見る。十分……そのくらいはなんとか余裕がありそうだ。今日は少しだけ早く部活も終わったことだし。

　私は顔を上げて彼のほうを見る。

　その返事として、彼は私に公園のベンチに座るよう指し示したのだった。

　既に陽は沈み、淡い街灯の光が公園を照らす。虫たちの合唱をＢＧＭに、私はポツリポツリと話し始めていた。

　泣き出しそうな私がいた。聞いて欲しいことを全部ぶちまけてみて、どんな質問がしたかったのかが少しだけ分かった。行きたい道を否定して、舗装された道を選ぼうとしている自分に戸惑っていたのだ。

　不意に歌が耳に入った。歌詞はない。少しして、彼が歌っていることに気が付いた。

　じっと私に見つめられていたことに気が付いた彼はにっこりと優しげに笑んだ。

　尾根さんが出てくる前にけいたにかかった着信音。幻想的で優しく包み込まれてしまう旋律。

　照れくさそうに笑って、彼は展望台に視線を向けた。

　月の船が視界の端っこに浮かんでいる。

　白い優しい光が地上を照らす。

　街を眺めていた彼の視線がこちらを向く。私はこくりと頷く。

　うつむいた私に、彼は続ける。

　あぁそっか。今まで目を瞑って歩いていただけなんだ。これからは目をしっかり開いて、回りをよく見て歩かなきゃ行けないんだ。ずっと閉じて歩いていたから、舗装された安全な道でないといけないように思ってしまったんだ。

　誰かが作ってくれるのを待っていたのかと思うとなんか恥ずかしい気持ちになった。

　彼の台詞にダブって別の言葉が聞こえた。空耳にしては脳裏に焼き付くような印象。今のは一体……？

　慌ててそう答えてしまったけれど、気になっていた。

　はっとして時計を見た彼は詫びる。

　しばしの沈黙。天上には星が輝き、眼下にも光が溢れている。天空の星もキレイだけど、地上の星もキレイだよ。

　気持ちが楽になったのが分かった。こんな美しい景色がここにあるのに、その横を通り過ぎていたなんて。私はどれだけのものを見ないで通り過ぎてきたのだろう。

　時計で確かめて苦笑いをする。それでもここにいた時間は私が感じていたよりもずっと短かった。

　ひょいっと私のほうに投げられた物体を受け取る。温かい。

　私が返そうとする寸前で、彼はもう一本の缶をこちらに見せてウインクした。

　両手で缶をしっかりと包み込む。今の時期は陽の出ているうちは暖かいと言うよりもむしろ暑いのだが、日が暮れてしまうと急に寒さがやってくる。とてもありがたかった。

　一礼して、駆け足で私は公園の出口へと向かった。

　公園を出て振り向いたが、既に尾根さんの姿はなかった。

　まだ静かな朝の昇降口。私は始業のチャイムが鳴る十分前には学校に着く。この時間でもまだ教室はがらんとしている。チャイムが鳴る頃が昇降口のラッシュを迎える。私はその埃っぽい集団に巻き込まれるのが嫌で、早めに教室に入るのだ。

　声にびっくりして（何せいつもここで声を掛けられないものだから）振り向くと部活のユニホーム姿のヤノ君が立っていた。

　こんな時間にヤノ君に会うなんて珍しいなぁと思って問いかける。

　タオルで汗を拭いて、上履きに履き替える。

　つま先で床をとんとんっと叩いて、自分の荷物を背負う。

　並んで階段を上る。教室は二階の中央にある。

　階段を上りきる。ここを右に曲がって三つ目の教室が自分たちのホームルーム。

　不意に声がする。声は教室のドアの側に立つアインのものだった。

　彼女の問いにヤノ君は意味ありげに答える。

　――アイン大きく出るなぁ。ヤノ君は校内ではもてる方なのに。

　驚きのあまり声を上げたのはアインではなく私。

　当のアインはかなり冷静に、でも表情は困惑しているかのように見えた。

　私のパニックを余所に二人の会話は続く。結局アインはその約束も了解したのだった。