ひそひそと囁く声だけが
闇の中に響いていた。
ひそひそと囁く声だけが
闇の中に響いていた。
長かった……。
これで、五〇〇年はたったのか?
六一三年
もう、そんなになるのね
“もう”というべきか、“まだ”というべきか
いずれにしても、変化の兆しが現れている
良い方に変わる兆し? それとも……
わからない……まだ何もわからない……ただ、風がうごめいている気配だけが、ずっと聴こえる……
風が……吹けばいいけどな……
…………
うわー。時間がない時間がないーじーかーんーがなーいーー
クルーゼ、まだ学校行くのに慣れてないんですか?
そんなことないっ。
もう慣れたよ、お兄ちゃん
それだったらもう少し、余裕を持って
出ていってほしいんですが……
ボーンボーンボーン
柱時計が刻を知らせる。
もう出かけないと!
いってきまーす!
あ、クルーゼ、お弁当忘れているって
あ、忘れてた!今日は午後の授業があるんだっけ
ありがとう、お兄ちゃん
ガチャ
兄
気をつけていってらっしゃい
パタパタパタ………
どうしてうちん家は、
あんな山の中にあるのかなあ…
毎日毎日、学校まで遠くて
しょうがないよー
クルーゼはぶつぶついいながら、
走り続け――
街の中の狭い路地を曲がり、
近道の階段を駆け上がる。
おはよう。今日はずいぶん早いね
石畳に水を撒く手を休めて、話しかけてくる。
おはよう、おばさん。
今日はたまたま早く起こされたんだ
はははは。
この時間だったら、
走らなくても間に合うんじゃないか
そうか!
つい、いつもの習慣で走っちゃった!
大きく深呼吸して息を整える。
歩いていっても、
余裕でHRよりも早く着くかな
クルーゼは朝の街の風景を楽しみながら、
歩いていくことにした。
街の至る所に、朝とれたばかりの野菜や
朝食用のパンを売る露天が店を構えている。
これから働きに出る人が
パンをほおばりながら、紅茶を手にして
通り過ぎる。
あー紅茶とパンーいい匂いー
クルーゼは鼻をひくひくさせて、
香りを胸一杯に吸い込んだ。
その瞬間、
おっはよー
委員長、今日はやけに早いねぇ?
委員長? そんな呼び方するのは……
体勢を立て直して、声がする方へ振り向いた。
どうしたの、そんなによろめいちゃって
級友のカイだった。
ちょっと、カイ!
骨が折れたらどうすんのよ!
危ないじゃない!
…………………委員長
そんな虚弱なこといって――
女の子みたいだね
普通の女の子です
いい天気だねぇ
一方的に、話題を変えるんじゃない!
会話というのは、ちゃんと噛み合う会話を
穏やかにするから楽しいんじゃないの!
クルーゼとしては真剣にそう思っている。
けれども、カイは
クルーゼの訴えを全く無視して、話を続けた。
ねえ、委員長ー。
時間も早いし、せっかくだから遠回りしていこうよ
あ ほ ら し い
一瞬そう思ったけれど、カイはクラスの中でも
こんな調子なのだった。
クルーゼの常識からすると、
はっきりいって突拍子もない。
どう?
にこにこ笑っているのを見ていると、
また怒鳴るのも馬鹿らしくなって、
クルーゼはあきらめのため息をついた。
まあ……たまにはいっか
そうこなくっちゃ
カイが満面の笑みを浮かべていうので、
クルーゼも苦笑いを返す。
正直いうと、
予想がつかない行動をするカイのことが、
クルーゼはちょっと苦手だった。
けれども。
違うというなら、
クルーゼだってそもそも今日は何故か、
いつもより早く街に着いたりしている。
そういう日があってもいいか
そんなことを考えながら、
一瞬、雪をいただく高い峰に目を向けた。
連なる山々はこの晴天にくっきりと姿を現し、
空と青い大地に境界を築いている。
委員長ー? 行くよー
あ……うん
クルーゼは視界を街中に戻すと、
少し先に進んでいたカイを追いかけた。
2人は通学路を外れて、狭い路地を歩き始めた。
まあ、いつもいつも同じ道ばかり
通ってても、飽きちゃうもんね
委員長、
いつもいつもいつもいつもいつもいつも
同じ道を通ってきてるじゃん
そうだっけ?
今月も先月も別の道通ってるの
見たことない
それは……
見たことない
うう……
うちは遠いから、遅刻しないようにって思うと
いつもの道の方が確実だし……
上ノ森(カミノモリ)から学校まで、
結構あるもんな
そうそう。多分、私、
学校の中でいちばん遠くから通ってると思う
確かにそれはそうだと思うけど……。
でも
カイは呆れたような声でつけたした。
委員長の場合、
帰りも寄り道しての見たことがないけどな
………………まだいうか……
路地の角をまた一つ曲がる。
見慣れぬ道行きだから、あと何回角を曲がれば学校に着くのか、クルーゼにはよくわからない。
あれっ?
近づいてくる軽い足音に気づいて、クルーゼはわずかに振り向いた。
委員長、どうかした?
その問いに答えるまでもなく、視線の先に
小さな少年が駆けてくるのが目に入る。
街の少年
クルーゼお姉ちゃん、おはよー。
今日はすごく早いね
背中に天使の羽がついたリュックを背負う少年は、
クルーゼに笑いかけると、
そのまま一緒に歩き始めた。
おはよう。ハル君
みんなにいわれてやんの
うるさいっ
ついでに変なのも連れているんだね
そうそう。変なのがねー。
偶然そこで会ったんだけど、放置しておくのも
街の人に迷惑だと思って、
一緒に連れていった方がいいかなーって
ああ、なるほどね
“ああ、なるほどね”じゃないだろ……
教室では、天真爛漫を売りにして、
傍若無人の限りを尽くしているように見える
カイだったが、
さすがに本物のこどもにはかなわないと見えて
どことなく脱力しているように見える。
そういえば、ハル君も
朝会うのは珍しいね。
たいてい帰りに顔を合わせるよねえ?
そーだねー。
でもお姉ちゃん、僕が挨拶しても
あっというまに帰っちゃうじゃん
そうかなぁ
そーだよー
クルーゼとハルは、世間話で盛り上がっている。
俺のことは無視かよ……
二人の後ろについて歩きながら、カイは一人呟いた。
お姉ちゃん、僕ね、この間、
こども合唱団に入ったんだ。
それでこれから、朝の練習なの
へぇー。楽しそうだね
うん。楽しいよ。
じゃあ、僕、こっちに行くから
うん。気をつけていってらっしゃい
少年は細い坂道を駆け上がっていった。
委員長
何?
非常にいいにくいんだけど……
うん?
……ハルと話していたら、遅くなった。
ちょっと、やばげです
え?
その時、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
本当だ!!
二人は慌てて駆け出した。
学級担任のヴィルムが、教室の中へと姿を消すのを目にして
クルーゼとカイは慌てて、
後の扉から教室に駆け込んだ。
あらあら。どうしたの。
二人して仲良くぎりぎりなんて
まあ……何かいろいろとあって……
委員長が珍しく、早い時間に歩いている
もんだから、ちょっと声をかけたら、
何だかんだと手間取って
ちょっと、カイ!
人のせいにするつもり?!
クルーゼが叫ぶと、咳払いが聞こえた。
あー……どちらのせいでも私は構わないので
点呼を始めてもよろしいかな?
あ……
あ……
では、点呼を始めます
アーガッソー
ドゥエットー、ガウェインー…………
それはまた、何度も繰り返されてきた光景。
聞き慣れた言葉。
ほんの少し、早起きしたぐらいでは
わずかにも揺るがない日常。
クルーゼはどこかほっとしながら、教科書を開いた。
学校の授業って
どうしてこう、かったるいんだろう……
― 2時間経過 ―
午前中の授業ってあっという間ねぇ
本当。でも、お腹は普通に空いたー
そうね。お昼どこで食べる?
クルーゼは首を傾げて考えると、遠慮がちに答えた。
う~ん……私、
一度、食堂に行ってみたいんだけど……
そういえば、そんなものもあったわね
二人は学校食堂に行くことにした。
一階まで降りて、廊下を少しばかり歩くと
廊下の途中に扉が開け放たれている。
出た先には、正門とは別の、街中に抜ける門があって、
三方を校舎に囲まれた中庭になっていた。
学校食堂――学食といっても、街の食堂も兼ねて
いるため、ちらほらと私服姿の人も混じっている。
ラッキー。今日は空いてる
フォルテはそういって席を一つ陣取ると
クルーゼに手招きした。
混んでるときは、席がいっぱいなのよね
そうなんだ
教室を出た方が気分が変わっていいけど
席取りするのが面倒くさいのよ
ねぇねぇ、フォルテ
何?
最近街では、何が流行ってるの?
何か面白い噂とかない?
流行ってるもの?
……流行ってるものねぇ……
うん
新茶の季節よね
うんうん。いい季節だよね
小物屋さんでは
二~三日中に初夏の色ものが入るって噂
へえ~。
初夏の染めの色ってさわやかだよね
そうね。でも……
クルーゼがこういうことに興味があるなんて!
何よ…
驚き。びっくり。
朝は決まった道を走り抜けるだけ。
帰りもまっすぐ街を通り抜けるだけと
もっぱらの噂のクルーゼが!!
フォルテ~
明日は雨ね
フォルテはクルーゼをからかう絶好のネタだと
ばかりに楽しそうに続ける。
一方。
ひどい……
口ではどうしても勝てそうにないクルーゼは
本当にこれが
友達に対する仕打ちなんだろうか……
そう心に呟きながら、恨みがましそうな目を
フォルテに向けることしかできなかった。
二人でしゃべりまくりながらの楽しい昼食は
あっという間に過ぎていった。
本鈴が鳴ると、すぐに先生が教室に入ってきた。
あ~あ。今日からずっと、午後も授業
なのね…
フォルテは盛大に溜息をつく。
ここしばらくは、農作物の植え付けのために、
学校は午前中しかなかったけれど、
今日からまた通常通り、終日授業があるのだ。
この間は、お弁当が食べれるって
喜んでいたくせに
それとこれとは別なのよ
ご飯を食べた後って、眠たくなるよなー
カイ!
だからって本当に眠らないように!
そんなコトいわれても…眠たいものは眠い…
私も…
ちょっと、フォルテまで!
うつらうつらし始めたフォルテを起こそうとして、
ふと、その隣に目をやると、
クラスメイトは教科書を盾にして
すでに完全に臨戦態勢に入っていた。
……………………
そっと辺りを見回すと、
まるで眠りの精が訪れたかのように
級友の大半が意識を失っていた。
ひええぇえ~……
クルーゼはおそるおそる授業を続けている
先生の方へ目をやった。
数学教科担当の先生は、
気づいているのかいないのか
ただ黙々と数式を黒板に書きつづっている。
クルーゼは何もいわずに
その数式をノートにひたすら写しつづけた。
やっと終わった……
ふぁーあ……。よく寝たな
……ん~……あら?
先生はどこに行ったのかしら?
もう帰ったよ……
あらまぁ。じゃあもう放課後なの?
その通り
なるほど
何が“なるほど”なのか……
カイー! 帰ろうぜー
おうっ
委員長、お先ー!
つ、疲れた……なんだか無性に疲れた…
大げさねえ~。
とはいえ、授業が目一杯入ってると疲れるけどね
うん。あたしかえる……じゃあね、フォルテ
うん。じゃあまた、明日~
ただいまー
コトコトとポトフが煮える音が、
ダイニングキッチンを賑わせていた。
その一方で、
タンタンと小気味いい野菜を切る音が
途切れることはない。
夕食の準備は、そろそろ佳境に入るところだった。
そういえば、クルーゼ
何ー?
ちょっとした頼みがあるんだけど、
いいかな?
うん。いいよー。
なになに?
学校に図書室があるだろ?
うん
そこで街の史記に関する本を
何か借りてきてくれないか
わかった。街の史記に関する本ね
急いでいるわけじゃないから、
いつでもいいんだけど……
うん。じゃ、手の空いた時に行ってみるね
よろしく
あ……
帰ってきたようだね
静かな家の中に、低い壮年の男の声が響いた。
ただいま
お帰りなさい、父さん
クルーゼの父
ああ。ただいま
■哀しみ
………………
何か問題でもあったのか?
あ、ううん。そんなことないけど……
クルーゼがいい淀んでいると、
玄関先から人の声が追いかけてきた。
失礼、議会長。ちょっといいですか。
この間の祭りの件ですが……
祭り?
ああ。それはここではちょっと……
クルーゼの父と村人はクルーゼたちを一瞥した。
なんだろう?
クルーゼ。悪いが、ちょっとそこまで出てくる。
先に休んでなさい
あ…はい……
………………
しょうがないな、父さんも。
このところ本当に仕事の虫なんだから
……うん。
クルーゼ、夕飯にしよう
そうだね
いつもの静かな夜
――ゆっくりとした時間が流れていた。
クルーゼは兄と二人きりで夕食をすませ、
何事もない会話を二言三言交わしているうちに
次第に瞼を開けていられなくなった。
なんか今日すごい眠い…。
久しぶりに一日中勉強して疲れたんじゃないか?
うん…そうかも。
もう寝るね。
うん。おやすみ、クルーゼ
おやすみなさい、お兄ちゃん。
一日の疲れがどっと出て、もう起きてられないと
思うと、他のことは何もかも忘れて、
早々にベッドに潜り込んだ。
― 一日目終了 ―