夏休みの昼下がり。とある公園にて特にやることのないひとりの少年が暇を持て余してベンチに寝転んでいた。

 そんな少年がスマートフォンを片手に遊んでいるアプリは囲碁クエストという。囲碁を知っている者なら有名なアプリで、時にはプロも参加するという。

魔裟斗

ううぅぅぅ……

 しかし可哀想なことにこの少年、魔裟斗はまったくの囲碁初心者。それも碁石さえも触ったこともない。そんな彼がなぜ囲碁クエストをしているのか。理由は簡単だ。彼女に強要されたからである。

 初心者でも楽しめますとあったので実際にやってみたものの、勝率が低い。なぜか。上記のとおり魔裟斗は今まで囲碁をしたことがない。定石、手筋、先読み――などの概念はまったくの皆無。碁石を繋げていけば勝てるとネットでアドバイスされたので実践するも、同じく初心者にしか勝てない。実に理不尽だ。

魔裟斗

ああああ!
なんで勝てないんだよおお

 また同じ相手に負けた。魔裟斗は公衆の面前であるのにも関わらず、ドカドカとバタ足してベンチを蹴る。

 するとそんな魔裟斗の奇声に、近くを通りかかった幼女が母を見上げ、指を差してこう言った。

幼女

ママー。あのお兄ちゃん……

幼女の母

見ちゃいけません!!

 案の定、幼女は魔裟斗の醜態の理由を聞き出す前に母親に抱えられ、遠くへ連行された。当然である。しかし魔裟斗はまったく気にならない。まるで羞恥心が欠落しているようだ。

 気付けば周りの公園利用者も魔裟斗がぶっちぎりでヤバイ少年だと勘違いし、絡まれない内に早々に逃げていく。と、そんな悶絶する魔裟斗の頭上に影が落ちた。

優巳

また負けたんだ。魔裟斗

 この少女は魔裟斗の彼女、優巳だ。眉目秀麗にしてクラスの華。そんな少女がなぜ魔裟斗と付き合うことになったのか。それはとある理由と、利害の一致があった。

 魔裟斗はスマートフォンを降ろして上を見る。そこにいるのが優巳だと認識する。すると優巳は、呆けた顔をしている魔裟斗に周囲にギャラリーがいれば一瞬で凍り付くような一言を言い放つ。

優巳

気持ち悪い!

魔裟斗

……あ?

 さすがの魔裟斗も癪に障ったのか。ゆっくりとベンチから起き上がる。まさに一触即発の空気。わずかにでも動けば危険な爆弾のよう!

しかし、

魔裟斗

ああありがとうございまああす!!

 こいつは、ドがつくほどのMだった。

 クラスで1、2位を争うドMっぷりにクラスメイトはドン引き。白昼堂々趣味を語る彼には批判の嵐。ついには女子が泣く始末。顔は良いのに趣味が残念。これぞ残念系男子の典型的な象徴なのだ。

優巳

ねえ魔裟斗。私言ったよね? 次それで負けたらお仕置きするって。なにがいいかな

 一方で彼女の性格にも問題があった。彼女はクラスでは清楚でおしとやかなイメージがあるが、本性はドSだったのだ。

魔裟斗

はいっ! ありがとうございます!

 ドSとドM。それはまるで磁石のように引き合わさった。互いに本性を知った時、クラスメイトには秘密の交際が始まった。

 優巳の責めは強烈なもので、過去、彼女を女王様と慕う男(曰はく、汚い豚野郎)はあまりの仕打ちに耐えられず逃げたという。しかし魔裟斗は一度も逃げたことがない。真正のドMを語る魔裟斗に退路は用意されていないのだ。

 なにより魔裟斗は優巳の責めを苦と思っていない。本物のご褒美として認識していた。

優巳

負けて喜んでるんじゃないわよ! このゴミ虫野郎!

魔裟斗

ゾクゾクするぅ!

 魔裟斗は優巳の罵倒に恍惚とした表情をさせて笑みを浮かべた。もし彼が犬であれば全力全開で尻尾をぶん回していただろう。

優巳

やっぱたまらないわこの男。楽しくてゾクゾクする……

優巳

ハァ……もういいわ

魔裟斗

え、もうないの!?

優巳

もうないわよ! この駄犬!

魔裟斗

ありがとうございますっ!
ありがとうございますっ!

 優巳は言いながら持っていた団扇で魔裟斗の頬を往復ビンタする。スパンスパンと炸裂する硬いプラスチックフレームが、魔裟斗の心を猛烈に燃え上がらせた。

 一通り叩き終えた優巳は、魔裟斗を汚らしいゴミを見下ろす目をしながら、これからどう調理してやろうかと考えていたが、ふと魔裟斗が震える手で握っていたスマートフォンの囲碁クエストを見て思い出す。そういえば彼に渡すものがあったのだ。

優巳

はい。これあげる

魔裟斗

なにこれ

 優巳は取り出したチラシを渡す。受け取った魔裟斗がそれを開くと、囲碁サロンの広告があった。場所は割と近く学割も利く。初心者歓迎とあるし、格安で通えるという意味だ。

優巳

あんたが負け続けってのも癪だし。とりあえずそこで修行して来なさいよ。初心者大歓迎って書いてあるし。囲碁教室もやってて、初回無料なんだって

 なにをいけしゃあしゃあと言っているのか。このアプリしかやってはいけないと言ったのは優巳だ。加えて放置プレイも与えられていたのでなんとか続けられたものの、それがなければ一日で消していただろう。

魔裟斗

えー。俺、教室っていのはなぁ

優巳

いいから行ってきなさい!

魔裟斗

はい!

 しかし確かに負け続きというのも気分が悪い。どうせなら勝ちにいきたいものである。――優巳からのご褒美は回数をこなすというシステムに切り替えてもらうにして。

 そんなこんなで魔裟斗はチラシの場所にある囲碁サロンの前に来ていた。

 国道沿いにあるマンションの一階に位置するその店は外から見てもとても明るい。店内からは活気あふれる声が聞こえた。老若男女関係なく、アットホームな雰囲気がうかがえる。とても良い場所だとわかった。

魔裟斗

まあ、負け続けってのも嫌だし。ちょっと本気でやってみますか!

 魔裟斗はドアを開くとともに大きな声を放つ。これが第一歩となるのだ。気合を入れた。

魔裟斗

こんちわーっす!

 ――こうして魔裟斗が囲碁の魅力を知る切っ掛けのための一歩を踏み出した。記念すべき一歩である。

 しかし魔裟斗はまだ知らない。本当の戦いは、まだこれから始まるのだと――!!

真正のドMに退路は用意されていないのだ!

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