梅雨の豪雨が直下に落ち続ける、あまりにも騒々しいその轟音で転寝から覚めた。蒸し暑さに喉が渇いている。重い身体をようよう起こして台所へ向かって足を運び、縁側を通りかかった時、ひたすら雨粒に叩かれる庭の片隅にある柳の下に、白い影がひらりと舞った。
「タオルでも掛かったままだったか?」
雨に滲む景色に目を凝らす。ふと、焦点が合ったかのように、少女の姿が現れた。
窓ガラスに、精巧な絵を描いていたのか?そんな、とんでもない考えが浮かぶほど、その少女は現実離れしている存在だった。真っ白な肌も、肌の色と同じく白く光るような薄布のワンピースも、肌や服と対照的に黒く艶やかな長髪も、彼女が楽しげに弾み踊る度に軽やかに揺れる。まるで、その少女には、降り注ぐ雨粒など一粒も当たっていないかのように。その姿の向こう側にある筈の柳の枝を覆う、細かな葉の枝垂れている様も、幹の瘤でさえ、少女の身体越しに透けて見える。ほら、あれ程満面の笑みを浮かべてクルクルと回っているのに、息遣いすら聞こえないじゃないか……。
何秒、観察していたのか。ようやく少女の顔にまで俺の視線が至り、不意に視線が交錯した。そのまま、俺の存在に初めて気付いた少女に、今度は俺が観察される。俺と視線を合わせたまま、少女が動きを止める。その瞬間、雨音が、轟音が、世界に戻って来た。何も聞こえなかったのは、自分の持つ神経を全て視力に集中していたせいだ。
やはり、少女には雨が存在していなかった。ワンピースは柔らかく揺れ、髪も肌も艶はあるがふわりと乾いた質感である事が見てとれた。先程まで大きく開いて笑っていた朱色の口許は未だ口角の上がったまま、黒目がちの瞳が俺をジッと見ている。その顔が、コトリ、と傾いた。何か訊ねられたような気がして、こちらも首を傾げる。少女の唇が、ゆっくりと動く。
「遊ぼうよ。一緒に」
リン、と、鈴の鳴るような、はっきりとした美しい声。非現実的な者から声を掛けられた。明るく弾む、如何にも良い遊び相手を見付けた、というように。自分の脳が判断をし損なって混乱する。返事を返す?今更気付かなかったフリをして逃げ出す?そもそも、彼女は……。
「どうしたの?」
彼女は、反対側へ首を傾け、更に問い掛ける。悪意など全く感じられない、半透明な存在。僅かに、でも、確かに恐怖を感じるのは、「幽霊」という存在が如何に害悪であるのかを、散々読み、聞いたからこその憶測から来るものか。解らない物が怖いという、それだけの事か。
「どう、しようかな、とね」
そう、解らない。ならば、「彼女」が「何か」を、確かめなくては。彼女と、遊ぶ為に。
「どうしようかな、って?」
彼女は、益々首を傾げる。そんなに角度を付ければ、降り頻る大粒の雨が耳に入ってしまう……いや、彼女には、きっと、そんな事はあり得ないのだろう。
「俺は、君と遊ぶ前に、そこに着くまでに、散々濡れてしまう。君と遊んだ後は、もう全身が濡れ鼠になってしまうだろうから」
だから、割とどうでもいいところから、懸念を潰そうとする。この問いに、彼女がどう答えるか。それで、彼女を怖れる自分を、少しは納得させられるかもたしれない。
彼女は、俺の拙い言い訳を耳にして、朱い唇を尖らせた。
「遊んでよ。今から」
不満。今から、直ぐに遊ばなければいけないらしい。何故。結局、何一つ納得する材料は得られず、俺は戸惑いながら縁側に突っ立って、彼女とただ見つめ合う。本当に、見れば見るほど、美しい目鼻立ちで……。
「ねえ」
急に彼女が顔を顰めて声を上げる。不機嫌に焦れている。今までの幻想的ながらも和やかだった空気が、その一声で、瞬く間に冷える。
「早く。雨が、やんじゃう」
ただ美しい顔が、歪む。何故?
「まだ、止まないよ。今日は一日雨だろう」
今朝の天気予報を受け売りするも、彼女は歪んだ表情を崩さない。言葉を交わし始めてから初めて、華奢な体が大きく揺れる。地団駄を踏んでいる。足元に溜まった水は、跳ねもしないのに。そういえば、靴も履いていないんだな。真っ白な脚を、足の甲を眺めて――
「早く!」
叫び声すらも、響く鐘の音のような美しさ。俺の迷走しようとした思考を一瞬で引き戻すには充分なほどに、凛とした強い声。
……そう、俺は、彼女に、『恐怖していた』。
「タオルを、取ってくるよ」
また、拙い言い訳をどうにか捻り出すと、後は踵を返して洗面所へ走る。
「待って!」
美しい声が呼び止めようとしたのが聞こえても、構わずに。狭い家の中、直ぐに洗面所に着いて、出来るだけ広いタオルを手に取った時、外が、静かになっている事に気が付いた。
恐る恐る、洗面所の磨りガラスの窓を少しずらして外の様子を窺う。今までの土砂降りが嘘だったかの様に、黒く重い雨雲の隙間から日差しが出ているのが見える。
なんとなく、タオルを握りしめたまま、廊下を静かに歩き、縁側を覗く。
柳の木の下には、枝から落ちる雫を受けた水溜りが、波紋を広げるばかりだった。
美しいばかりだった半透明など、それこそ幻想であったかのように、欠片すら残さず消えていた。

雨に立つ陽炎

facebook twitter
pagetop