私は普段からカウンセリングを受けている。
 しかしその日のカウンセリングは、予定にないものだった。
「死にたいんです」
 気がつけば、私はカウンセラーにそう言っていた。なぜ死にたいと思っていたのか、はっきりとは覚えていない。今思えば、まるで別人、もしくは何かにとり憑かれたようだった。
 今の私には、死にたいという感情はない。その代わり、何かを感じる心が消えてしまったように思える。
何かに期待することなく、何かに喜びを感じることなく、また何かに苛立つことも、失望することもない。感覚が「無」なのだ。ただ頭は働くので、人からの「思い」というものは理解できる。

 私は今年の六月に上京した。専門学校へ通い、作家になるためだ。
 寮に住んでいるのだが、一人で暮らしているのとさして変わらないため、両親は私を心配してくれた。父はわざわざ実家から片道二時間かけ、私に会いに来てくれた。また母は、頻繁に電話をかけてくれた。
 心配してくれていたことはよくわかる。しかし、私は両親の「思い」のようなものを感じることができなかった。頭では心配してくれているという事実を理解できる。ただそれだけだった。
 私は自分の心も、人の心もわからなくなっていた。

 私は小学校低学年の頃に、兄を自殺で亡くした。私は三人兄弟の末っ子で、亡くなった兄は二番目の、九歳離れた兄だった。ちなみに、一番目の兄とは十二歳離れている。
 あの頃、家族は崩壊寸前だったと私は思っている。兄が亡くなる前から、不穏な空気を感じていた。家族全員が何かで疲弊しているようで、大きな喧嘩こそなかったが、家族のやりとりはギクシャクしていた。
 また兄が亡くなってからも、家は悲惨だった。幼かった私にとって、兄の死は非日常で、実感の湧くものではなかったが、他の家族にとってそうでなかった。
 兄の死が訪れても、現実は止まらない。父には仕事、母には舵と、それぞれにそれぞれの現実がやってくる。現実は戻ってきても、そこに日常が戻ってくることはなかった。
 特にわかりやすかったのは、会話がなくなったことだ。だから私は、その時の空気にもよったが、できるだけ学校の話をしていた。もしくは誰かの言葉を誰も拾わなかった時、よく拾うようにしていた。
 元に戻って欲しいというわけではなかったが、少しでも家族が良くなればと、当時の私は必死だった。
 これをやり始めた頃だろう。私は自分の気持ちを抑えるようになった。
 兄の死をきっかけに、私は今まで知らなかった家族のことを知った。両親の過去や祖父母の過去、一番目の兄の苦悩など、全部ではないが多くのことを知った。それから、家族みんなが昇華しきれていない、不満を抱いていることに気づいた。
 当時の、小学生の頃の私は、甘えたがりで我がままだった。しかし自分の持つ不満より。他の家族が持つ不満の方が、根深く暗いものだと感じたとき、私は自分の不満を抑えるようになった。
 他の家族の苦しみに比べれば、自分のものなんて……というように。

 この辺りから、私は自分で自分を否定する癖がついた。当時は、意識するようにやっていたが、十九歳になった今では、当たり前のようにやってしまっている。
 そろそろ止めなくては……と思っているのだが、馴染みすぎて止め方が分からない。
 今では批判的に私を見るもう一人の私がいて、何かをやる事に、何かが終わる事に、一人反省会を頭の中で始める。一度始まれば、もう一人の私の気が済むまで終わらない。
 そんなことをやっていたせいだろう。気がつけば自分に自信なんてなかった。何かに満足する自分もいない。
 満たされない。空っぽ。そんな感覚がいつまでも付きまとう。でも、これを誰かのせいにできるわけでもない。元を辿れば、私自身がやり始めたことなのだから。
 相手のことを考えたり、自己否定をやっているうちに、自分のことがわからなくなった。何が好きで何を楽しいと思うのか。何が悲しくて何が辛いのか。何のために生きているのか。きっと答えなどないし、自分で見つけるものだと思っている。頭では理解できても、行動に移せない。
 何のために生きているのか。これは昔から考えていたことだ。何かの本を読んだのか、それとも自分で感じたのか、兄の死があった頃、私には一つの考えがあった。
 生まれたからには意味がある。辛いは試練で、乗り越えた先には良いことが待っている。
 今思い返せば、我ながらよく小学生の頃にそんなことを考えられていたと感心する。今はその考えを私は持てていない。その考えを持てるほどの気力、体力、心が保たなかった。

 自分がやってきたことに耐えきれなくなった私は、冒頭のように、死にたいと思うようになったのだろう。
 ただ、幸いなことに、私が行動へと移せなかったのは、兄の死があったからだ。残された家族の姿を私は見ていたからだ。
 家族からも、死ぬことは止めてくれ。と言われている。これは私を生かすための呪文だ。心のどこかで死にたいと思っている私を止めるためのものだ。
 今はただ、家族がそう望むから私は生きている。いつの日か、時間をかけて、自分から生きていきたいと思えるようになりたい。

 人の心や自分の心を感じないのは、私が殻を被っているからだと思ってしまう。
 それは生まれる前の卵の中で眠る雛鳥のようだ。見ている夢は悪夢。自分の過去にうなされている。
 本当は、生まれるべきなのかもしれない。でも、外の世界は多くの刺激に溢れている。私を幸せにする良い刺激と、私を傷つける悪い刺激と。
 私はまだ、生まれる勇気を持っていない。
 あと少しだけ、この殻の中で眠っていたい。

私の話

facebook twitter
pagetop