病と貧困の蔓延する小村に生を受けたゲブラは死なない子どもだった。生まれつき、彼だけがそういったものと折り合っていく術を身につけていたからだ。その証拠に、彼の前後に誕生した赤児らはみな死んだ。
ゲブラの村にはなんにもない。食料も、特産物も、観るべき景色も、何ひとつ。在るのはうなだれて座り込む弱々しい大人の群ればかり。彼らは何処からか逃げ出し、流れ流れて、最終的にここに居着いた。この村以外、地上のどこにも居場所はない。だがゲブラは違う。何らやましいところのない彼はこれから居場所を選べる立場にあるのだ。
ゆえにゲブラはぶらりと旅に出た。頭を無にして、故郷からの道のりを記憶しないようにした。なぜなら、二度とふたたびこの道を辿りたくはなかったからだ。陰鬱な村にも、うなだれ、ただ生きているだけの大人たちにもうんざりだった。
小耳にはさんだ話だが、村の外には“ゴラク”や“ユメ”や“キボウ”といったさまざまなものが散らばっているのだそうだ。どれもがゲブラの身の周りにはなかったものだ。そのどれかひとつでもよいから手に入れてみたい。それがゲブラの唯一の願いだった。
初めての旅はきわめて順調だった。野盗に遭わず戦火にも巻き込まれず、腹が減れば村周辺でもよく見かけた鳥や魚に手を触れる。すると、途端にそいつらは羽やヒレをバタつかせて、全身真っ黒にただれて死んでしまうのだ。ゲブラはそれで食欲を満たす。ゲブラを憑き殺せなかった病たちはその身に宿り、彼自身を病魔へと変えていた。
旅を続けるうちに無知だったゲブラも少しずつ学んでいく。便利な共通語なるものをはじめとして、外界の人々はあれだけ虚弱だった村の衆よりもさらに弱いこと、なのでせまい空間で長時間いっしょに居るのはなるたけ避けること――などなど。病魔がこれから人間らしく生きていくためにはそれらの情報がもっとも重要なのだ。
生憎と“ユメ”や“キボウ”は未だ見つからないが、笑顔は作れるようになった。訓練のたまものだった。旅の商人と仲よしになって、“カネ”の価値も教えてもらった。それさえあればなんでも買えるらしい。ゲブラの特異体質を知った商人は彼を都に誘った。そこへ行けば風変わりなネタやモノはたいてい“カネ”へと変わる、まるで魔法のような場所なのだとか。上手くいけばオマエ自身があこがれのひとつである“ゴラク”になれるぜ。何ならわしがプロデュースしてやるよ。そう言って商人は笑った。ゲブラ同様、訓練によって磨かれたうさんくさい笑顔だった。
商人につれられ、このあたりでは最大の都に到着した。キラキラと絶えずどこかが煌めき、人々の欲望が渦巻く幻惑の園。人一倍世間知らずなゲブラはすぐさま魅了された。
流民たちによる大道芸が盛んな地区につれていかれ、そこを仕切る興業主の世話になることが決まった。特製の巨大な檻の中で、逃げようと必死にあがく羽を切られた鳥やおもりを付けた動物たちを捕まえては絶命させるという、残酷きわまりない見せ物が彼の舞台として用意された。
ショウはたちまち大評判となり、ゲブラは一気にスターの座へとのし上がった。〈死なずなゲブラ〉はいつの間にか〈死なせのゲブラ〉と呼ばれるようになっていた。死の黒に染まり、二度とは舞い上がれない空を見つめながら逝く鳥を見ても、もはや何も感じない。観せるためだけに殺されていった動物たちの死体の山が日々築かれていく。“カネ”や“メイセイ”と引き換えに失ったものは“心”だったのかもしれない。
その日は王家主催の大々的な祭が開かれ、ふだんならば見向きもしない下民どもの地区にもたくさんの貴族たちが訪れていた。じつは彼らは悪趣味と名高い大道芸の数々に興味津々だったようだ。これはお楽しみいただかねばなるまいと、興業主ははりきってショウのプランを組み立てる。トリはやはり〈死なせのゲブラ〉で、かませ犬役としてあてがうのは――よし、あいつに最期の一花を咲かせてもらおうじゃないか。お貴族様がたはきっと大満足だ。
檻がうやうやしく下りてくる。ここまでは通常通りだったが、そこからは何だか勝手がちがった。悲痛ないななきも興奮した鼻息も聞こえてこない。いぶかしく思うゲブラの前に引っ立てられてきたのは顔見知りの南方人の男だった。みごとに肥えた巨漢で、用意した短剣で急所以外の場所を刺させてはその頑強さを見せつける肉体芸を売りにしていた。通称〈死なずな巨人〉。
だがゲブラは知っていた。地区のはずれのもっとも粗末な天幕に暮らす男は花売りをやっている娘とふたり暮らしで、流れてきた当初から他に売れるものがなかったために始めたこの芸のせいで体はもはやボロボロ。最近では傷の治りもとみに遅く、実入りも激減している。次のショウを終えたら別天地を求めて親子で旅立つつもりなのだと。目の下に真っ黒なクマをこさえた男がそんな話をしているのを、通りすがりに耳にしていた。
――彼らの事情など知らなければよかった。そうは思っても後の祭り。興業主のたくみな口上に乗せられて、会場の誰もが〈死なずな巨人〉と〈死なせのゲブラ〉の対決を心待ちにしている。ゲブラが下手に逃げ腰になろうものなら、このすさまじい熱気はすぐさま暴動へと変化しかねない。いよいよ覚悟を決めねばならないようだ。
男の背後にいる娘と目が合う。涙で彩られた真っ黒な瞳は一心にゲブラの慈悲を乞うている。無理もない。初めて間近で見る父親のほうは体格こそ立派であっても至るところが傷だらけで、中には化膿しかかっている箇所さえあった。目の下のクマは濃く、顔色は青紫に近い。要するに、無慈悲な興業主は観客に飽きられて久しい壊れかけの玩具をあてがってきたわけだ。
ゲブラは束の間迷ったものの、群衆の脅迫じみた声援に押されるようにして第一歩を踏み出す。巨人と呼ばれた男はファイティングポーズを取りながら一歩下がる。包帯が厚く巻かれたこぶしは細かく震えていた。現在のスターであるゲブラに万が一でも傷がつかないよう、こぶしに卑劣な細工がなされているらしい。ゲブラが迫る。男が逃げる。ゲブラが迫り男が逃げる。このくり返しにブーイングの嵐が巻き起こり、興業主の派手な舌打ちが耳を打つ。
あせったゲブラは思わず腕を前に出し、たるんだ腹部の化膿しかかった傷に触れていた。油断していたせいですべての力が手のひらに集中するのを感じた。
途端に傷から白煙があがり、男の口から断末魔の苦鳴がもれる。あわてて手を離してももはや手おくれ。転倒した男は血の泡を吹きながら激しくのたうち回っていたが、じょじょに苦鳴が弱まっていき、群衆が息を呑んで見守る中、顔をパンパンに腫らして息絶えた――。
「勝者! 死なせのゲブラ!!」
場がワッと沸き立つ。光の洪水にまき散らされた大量のヒラヒラは紙吹雪か賭け札か。男のむごたらしい亡骸は手早く運び出され、呆然となるゲブラの前まで引きずり出されてきたのは男の娘だった。父親に代わり、勝者に敗者からの祝福を与えよ――と。どこまで屈辱するつもりなのか。しかし抜け殻のようになった娘は唯々諾々と従う。頭を抑えられた状態でゲブラの足の甲に接吻し、次は無理やり立たされて唇に唇を押し付けられる。その黒い瞳からは一切の感情が抜け落ちていた。
場がふたたび沸き立ち、娘は用無しとばかりに叩き出された。ふらりふらりと去っていく幽鬼に似た後ろすがた。足どりがかなり危うい。足の甲にまで垂れたゲブラの死の汗と毒の唾液を体内に入れてしまったのだ。とうぜん無事では済むまい。明日を待たずして、彼女も父親と同じ道を歩むことになるだろう。
まだまだ続く祭りの喧騒に紛れ、その夜、ゲブラは都を後にした。
孤独な道中で思い浮かぶのは、空を夢見ながら死んでいった鳥――澄んだ水にふたたび潜りたいと願いながら動きを止めた魚――そして――どうか許して下さい見逃して下さいと言いたげな情けない双眸でこちらを見つめている男の顔。そんなものばかりだった。
長い長い旅路の果てにゲブラは、“ユメ”の代わりに“人殺しの悪夢”を、“キボウ”の代わりに“二度とは晴れない絶望”を手に入れたのだ。
頭を垂れてほぼ前を見ていないにもかかわらず、足は自然と故郷へ向かっていた。まるで初めからそう約束されていたかのように。そうか、とゲブラはようやく気づく。親や他の大人たちと今の自分はまったく同じなのだと。彼らも病魔として世界中に絶望をばら撒き、本人たちもまた、絶望と失意をたずさえてあの地を目指したに違いない。あそこはそういう業を背負った者たちのための園であり、永遠の檻なのだ。
皮が破け、ついには血の流れ出した足を引きずり引きずり、ゲブラは還る。暮れなずむ帰路を辿って――。
耳元でかすかな羽ばたきが聞こえたような気がした。