高橋美樹、35歳、婚活中。
壮絶な婚活の末、アプリでマッチングした男性と高崎に同棲している。

高崎。

関東在住でないといまいち分かりにくいと思うが、静岡から群馬を結ぶ湘南新宿ラインの、群馬側の終点駅である。
高橋が務める渋谷のオフィスは8:30が始業。
間に合わせるためには、6:13高崎駅発に乗らなくてはならない。

高崎の冬の朝は寒い。
マフラー、ダウンコートに、腰とお腹にはカイロを貼って、足はブランケットを巻き付ける。
通勤片道2時間半は正直なところ辛い。
でも、アプリでマッチングした彼は「結婚したら、東京に転職する」と言っている。
そうしたら世帯年収1200万くらいのパワーカップルとして都内に家を買う。
それまでの辛抱だ。

駅で買った缶のお汁粉を頬に当てる。
高崎の天気は関東といえどもどちらかというと新潟方面に近い気がする。
通勤は行きと帰りで合わせて5時間かかる。
残業なしで働いても13時間。残業したら16時間なんてこともざらだ。

浮腫んだ足を揉みながら、イヤホンをつけてなんとか1人の世界をつくる。
最初はこの往復の5時間で英語でも勉強しようと思っていた。
でも、通勤時間に眠らないととても体力がもたない。
まだ日の登らない高崎駅で篠原は目を閉じた。

目を覚ますとまだ大宮だった。
「湘南新宿ライン国府津行きは横浜駅での架線トラブルにより遅れが発生しております」
高橋はため息をつく。
湘南新宿ラインはよく遅延する。
静岡から群馬の長い路線のため、どうしてもどこかでトラブルが発生しやすいのだ。
十分に間に合う電車に乗ったにもかかわらず、今月3回目の遅刻になった。

一刻も早く結婚したい。東京に住みたい。
気持ちだけが焦っている。

***

渋谷のオフィス。
もう1人の主人公、篠原 弥生がメールを開くと高橋から遅刻連絡が入っていた。

篠原も35歳独身。ただし結婚は全く考えておらず、今は推し活に夢中になっている。
席には推しのぬいぐるみがずらりと並べられ、アクキーなども含めるとちょっとした祭壇のようだ。
いま篠原が推しているのはゴシックな世界観で男性アイドルが活躍するスマホゲームのキャラクターだった。

「また高橋さん遅刻らしいですよ」
後輩の20代の社員が2人、篠原の前の席でコソコソと話している。
「まぁ…高崎からだとしょうがないですよね」
「高橋さんっていうか…もはや高崎さんって感じ…」
クスクスと笑う2人を見て、篠原はすこし嫌な気持ちになる。
推しの描かれたマグカップを持って席を立つ。こういう時はコーヒーでも入れてこよう。
そんな篠原を見て、後輩たちはまたコソコソと話す。
「篠原さんも、また祭壇が豪華になってますよね」
「一昨日生誕祭をやったって、SNSで書いてましたよ。ぬいぐるみとホールケーキと写真撮ってました。」
「へぇ…この間篠原さんとランチ行ったけど、ずーっとコラボカフェと聖地巡礼の話してたよ」
「なんか人生楽しそうですよね…」

篠原のところまで聞こえているが、聞こえていないふりをする。
仕事なんてどうでも良いのだ。推しとの時間を一分一秒でも長くしたい。
二次創作、コスプレ、聖地巡礼、推しを感じるためになんでもやった。
オフィスの目の前の家を借りて、通勤時間を最小化したのは、推し活の時間を最大化するためだった。

そうこうしているうちに高橋が出勤した。
茶色のロングの髪はしっかり巻いてあり、きっちりメイクをしているが、
ブランケットや厚手のマフラーなどの防寒用具がぎっしりと入ったトートバックが似つかわしくない雰囲気となっている。

篠原はチラリと高橋を見て思った。
高崎を6時に出てるってことは、あのヘアセットとメイクをするために5時くらいに起きてそう…
彼氏に隙を見せたくないんでしょうね…
ただ…
元々色白な人だけど、今日は一段と顔色が悪い…ような…

席に戻ろうとした篠原に抱きつくように高橋が倒れてきた。
真っ青な顔だが、あきらかに体温が熱かった。
「ちょ、あの、高橋さん?」
「あ、ごめなさ…立ちくらみが…」
そのまま高橋は、篠原に向かって、嘔吐した。
「ハァァァァ!?」
叫ぶ篠原の横で、高橋は完全に動けなくなった。

***

渋谷のオフィスは小さく、医務室も更衣室もない。
汚された服を着替えるために篠原は家に帰ることにしたのだが、体調の悪い高橋を放っておくこともできず、篠原の家に連れて行くことになった。
本当は推しの祭壇のある家に誰も入れたくはなかったのだが、そうも言えなくなってしまったのだ。
高橋はずっと呻きながら泣いている。
「うぅー…うぅー…ひぅー…」
「救急車、呼びます…?」
篠原が声を掛けるが、それはやめてと高橋が首を振る。
体温は39度を超えていた。
「でも、高橋さん…家は高崎でしょ?帰れないんじゃないですか。」
「彼に……迎えに…」
苦しそうに呻きながらスマホを取り出し、彼氏に電話をかける。

「……あ、あの、エイジさん…、会社で体調を崩してしまいまして……あの、車で迎えに来ていただくことは……できないでしょうか?」
ボソボソと話す高橋の様子に篠原は強烈な違和感を覚えていた。
(結婚を前提に付き合っているのに、こんな敬語で話すもん?)
「あ…いえ、今は同僚の方の家に……はい。イヤっ違います、女性のかたで……」
(明らかに体調悪い声してるのに、男の家にいるって疑ってるの…?馬鹿なんじゃないこの男。大体男の家にいるのにわざわざ電話するわけがないじゃない)
「え…でもあの……車は持ってるって……ああ、おかあさまが使われて…?…はい…ああ…ごめんなさい、……え?
来られない…んですね…、仕方ないですよね…あれ、でも今日ってお仕事は非番じゃ……あ、ごめんなさい。違うんです…でも電車で帰るのは…」
高橋の様子に篠原は強烈な気持ち悪さを感じた。
「それって、モラハラじゃないの?」
はっきり口に出して言ってしまった。
電話越しから「はぁ?」と低い声が聞こえる。
高橋の彼氏にうっかり聞こえてしまったらしい。
高橋が慌てて「違うの!今のは同僚の方が…」と取り繕おうとするが篠原は止まらなかった。高橋からスマホを奪う。
「結婚前提に付き合ってる女が熱出してるって時に、仕事が休みのくせに迎えにも来ないってどういうことなんですかねぇ?」
それを聞いて高橋の彼氏が笑う。
「結婚前提……?それって美樹が言ってんのか?」
「知りませんけど、そうじゃなきゃ高崎なんかに一緒に住んだりしないでしょ」
「一緒に住んでるわけじゃないだろ。今俺は平行が3人いるってのは美樹にも言ってあるよな。俺にとってメリットのあるやつと一番一緒に居てやるって、そう言っただろーが。」
高橋の彼氏の声は大きくスマホからはっきりと周囲に聞こえるため、高橋にもその声は届いていた。
青い顔がますます青くなり、歯を食いしばって何かに耐えている。
「はっきり言うとなあ、今日は美樹は仕事って言ってたから、別のところに行くことになってるんだ。今更迎えになんて行けねえよ」
「クソ野郎が!」
篠原はそう吐き捨てて通話を切った。
高橋は床に突っ伏して泣いていた。
「高橋さん…こんなのと結婚するために、今まで5時間通勤がんばってたの?」
「し…篠原さんには…わからないですよ。」
「わかんないですよ。私そもそも結婚願望ないし、子どももいらないし。」
「35歳で幸せな結婚したいって思うことがそんなに悪いんですか」
「いや、別に悪くはないけど…でも全然幸せな結婚に近づいてないじゃないですか。さっきの男なんて明らかにヤリモクのモラ男でしょ。」
「2人の時は優しいんです…癒されるんです…幸せだったんです…」
「あー…そう…」
篠原は頭の後ろをかいた。
正直もう面倒臭い、が、ここで高橋をあの男の元に戻したら、一生夢見が悪い気がする。

「よくわかんないですけど、じゃあ、一旦うちに住んでみます?」
「…え?」
「あー高崎に帰るのやめてみません?うち、意外と広いし、もう1人くらい住めるんで。」

ああ、そうだ。この結婚至上主義みたいな人に推し活を布教するのもいいかもしれない。
3次元のクソ男よりも2次元の宝ってわからせてあげたい。
篠原が目を細めて高橋を見つめる。

高橋は混乱していた。
確かに、彼からモラハラを感じることがなかったわけじゃない。
でも2人でいる時は本当に優しくて、マッチングアプリで平行しているとは聞いていたけれど、最終的には自分のところに来てくれると信じていた。
でも違うのかもしれない?都合よく使われていただけ?
目の前で同僚がこんなに自分のために怒ってくれている。
正直、高崎という土地自体にはなんの思い入れもない。
離れるなら今しかないのかもしれない…

「まーとりあえず、まずは体調直してから考えましょっかね。服は洗っといてあげるし今から薬買ってきますわ…」篠原が手をパンとならして言った。

これがこれから長く続く2人の生活の始まりだった。

限界婚活女 と 無敵推し活女 #原作コン22冬

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