メンヘラワクチンが開発された。

感染症におけるワクチンは感染症の原因となる病原体に対する免疫ができる体の仕組みを使って、病気に対する免疫をつけたり、免疫を強くするためために接種するものだ。

メンタルヘルス用のワクチンはその免疫を人間の「記憶」につける。
無意識の記憶の中に、パワハラ被害や痴漢被害を生き抜いた人の記憶を刷り込むことで、実際の被害に遭った時に適切な対処をした上で精神を病まなくて済むようになるという。

子どもの場合は記憶の蓄積が少ないため、無意識の記憶に刷り込んでもPTSDを起こしてしまうことがある。そのため接種は非推奨となっている。
成人後、就職前などにワクチンを接種することが推奨されている。

***

この春大学を卒業する松村 光(まつむらこう)は母に連れられて、病院にやってきた。
メンヘラワクチンを摂取するためだ。
彼にとって少し過保護な母は、就職先も実家から通える範囲に限定した。
「お母さんが家事は担当してあげるから、しっかり働きなさい」
その代わりいくらか家にお金を入れることになっている。

母は就職時におすすめのワクチン一覧をざっと眺めて、パワハラ、カスハラ、アルハラ…などなど、就業に関するあらゆるワクチンを注文した。
「母さん…ストーカーや痴漢冤罪まではいいんじゃないかな…」
「備えておくのに越したことはないでしょう。受けられるものは全部受けておかなくちゃ」
その様子をニコニコと眺める看護師。
だがその笑顔は張り付けたように見えた。目が笑っていなかった。
「松村さま…恐れ入りますが、成人されている場合家族であってもプライバシー保護の原則がございますので、お母様は待合室へ行っていただけますか?」
「あら、そうなの。光、受けられるものはできるだけ多く受けておくのよ」
そう言って退室する母。
看護師と医師、光が診察室に残された。

「さて、松村さん。就職おめでとうございます。お母様はこれら全7種類のワクチンをお選びになりましたが、いかがされますか?」
パワハラ
アルハラ
カスハラ
ストーカー被害
痴漢冤罪
恋愛の失敗
ギャンブル依存

「…ストーカー、痴漢冤罪、恋愛の失敗、ギャンブル依存はなしでいいです…。どれも興味ないんで。」
「他に必要なものはありませんか?」
リストを眺めた光はふと一つのワクチンに目を止めた。
「これもお願いします」
医師も看護師も張り付けた笑顔と笑っていない目のまま、頷いた。

***
ときは流れて。
1年後、仕事で大きなミスをして、顧客からクレームが入り、上司に叱責される光。
落ち込みながら実家に帰宅する。
実家はボロ屋でリビングには仏壇が置いてある。父は中学に入る前に仕事上の事故で亡くなったからだ。

母が落ち込む光の様子をみかねて「大丈夫なの!?」とヒステリックに聞く。
「ミスしたら叱られるのは普通だし、上司も自分が成長するために言ってくれてるるんだ…完全に俺のミスなんだから自分で取り戻さなきゃ」
そう言いながら母が用意した味噌汁をすすり、ご飯を完食する。
母は(これだけ落ち込んでいても、ご飯も普通に食べてるし、ワクチンの効果がしっかり出てるわね)と心の中で笑う。

翌日。
落ち込みつつも出社し、ミスの挽回に努める光。
各所に電話し、事情を説明する。
顧客のもとには上司と共に頭を下げに行った。
「新人に責任はありません、全て私の責任です。」
そういう上司の背中を見て光は目を潤ませた。
仕事後は上司に誘われて飲み会にいくことになった。
「君ならできると思っている」「少しくらいミスしたっていい」と飲みながら慰められる。
昨日は怒られて本当に怖い人だと思ったけど、上司は本当にいい人だ、この人の下でよかった…。
飲みながら考える光だった。

上司とは意気投合し、深夜まで飲んだ。
上司の行きつけのバーでは仕事論を熱く語られた。
タクシーで家に帰る光。
すると、母親がパジャマ姿で座った目でリビングに座っていた。
「こんな時間まで、何をしていたの!」
「いや、仕事のことで、上司と話していて…」
母はヒステリックに叫ぶ。
「上司に酒を飲まされた!?パワハラにアルハラじゃない!?」
「そうじゃない…」
「そうじゃないわけないわ!会社を訴えてやる!転職しなさい」と騒ぎ出す。

違う、と言う声に耳を貸さず、「あんたは本当に何もできないんだから、お母さんの言うことを聞いていればいいのよ!」と叫び続ける母。

一年前のワクチン接種時の記憶が蘇る。
光が「これもお願いします」と言って指差した姿がフラッシュバックする。

叫ぶ母をじっと睨む光。
俺はずっと母が怖かった。
母の意に反したことをすればかならず悪いことが起きると言われ続けてきた。
中学の時、最初に入ったサッカー部ではレギュラーになれないと分かった瞬間辞めさせられた。
高校の志望校も、何一つ自分では決められなかった。
高校の時付き合いたかった女子のことは探偵を使って素性を調べられて別れさせられた。
大学は家から通えるところだけに限定された。本当にやりたいことではなく母が勧める学部だけしか受けさせてもらえなかった。
「母さんは、そういって俺のことを操りたいだけだろう!」と言い返す。
なんて口の聞き方をするんだと激昂する母。
「あの時も、あの時も俺の意見なんてまるで無視した!俺はもう、大人なんだよ!放っておいてくれ!」
自室に駆け込み鍵をかける光。
部屋の外からは罵声が聞こえる。
「お前にいくらかけたと思ってるんだ!」
「勝手な行動は絶対に許さない!」


部屋の隅に用意していた「一人暮らし」のための用意を取り出す。
「逃げよう…だめだ。家にいたら俺はだめになる」
4時。ずっと罵声を発していた母がやっと寝るつもりになったらしい。
部屋から遠ざかり、寝室に移動する音が聞こえた。
母が寝たら…家を出よう。光は心を決める。

早朝、家を出てネットカフェに移動する。
10時になったら不動産屋へ駆け込む。
給料の8割を実家に入れさせられていたが、節約して貯めた50万円で引っ越せる家を探した。

***
メンヘラワクチンを接種した病院。
松村光のカルテがぱさりと落ちる。
「ああ、ちょうど一年くらい前の患者さんですね」
看護師が覗き込んで言う。
当時の光の姿を思い出す。「これもお願いします」といって指さした先は「毒親ワクチン」だった。

メンヘラワクチン

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