あれは、高校を卒業して、社会という大海原に漕ぎ出したばかりの年のことでした。

 とはいっても勤め先は小さな池のようにせせこましい地方の会社でしたが、昔からどん臭くて要領の悪い私にとっては日々緊張の連続でした。仕事の内容もなかなか覚えられません。

 ストレスがマックスになりかけていたある日、たんに顔見知りというだけの別部署の女性が「これから一緒にお昼を食べない?」と声をかけてきてくれたのでした。彼女以外にも数人の同僚が同席するとのこと。
 職場では当然空気でぼっちだった私は、舞い上がるような気持ちでOKしました。

 それ以来、昼休みが唯一の憩いの時間となりました。

 三人いる先輩たちはいずれも少し年上で、わりにミーハーなタイプばかりだったので、そういうのに疎い私は話題を合わせられずにうんうんと頷くばかりでしたけど。
 中でも――仮にCさんとしておきましょう――Cさんは一番口数が多く、地味系な人の多いこの会社では比較的目立つ、いかにも女の子らしい女性でした。彼女には野暮ったいグリーンの仕事着が似合わないな、と会うたびに残念な思いがしたものです。

 いま思い返してみると、Cさんの話題は常に自分のことと彼氏のことばかりで、興味が持てなければ友人たちの話題にさえまともに相槌を打っていなかったような気がします。
 けれども、友人たちは慣れているのか特に気にしている様子はなく、私もまた、オシャレで恋多き女という彼女のイメージにどっぷり心酔し、口を開けば同意と賛美ばかりを送っておりました。

 その頃の自分はどれだけ浅はかで必死だったんだよと情けないやら笑えてくるやら。

 また、当時の私は、自分ではけして身につけない服や小物をたまに購入する癖がありました。Sサイズのフリッフリのブラウスとか、華奢な細工のシルバーブレスレットとか。

 いじられるのを目当てに、お昼時にその話題を彼女らに提供すると、真っ先に食いついてきたのがCさんでした(他の人たちはふーん程度の薄い反応)。
 私が初任給から今までに購入してきたものを聞き出しては、「えぇ〜ソレ着ないのもったいなーい(アンタには)」「いいな〜、要らないんならソレちょうだいよ(目付きがマジ)」と、くやしがったりおねだりしてくるようになったのです。カッコ内はほんとうにそういうニュアンスがあからさまに含まれていたので付け加えました。

 それは、初のボーナスで買ったばかりのオレンジがかったピンク地の、縁には上品な金があしらわれた花のイヤリングをついうっかりと話題に出してしまった時のこと。
 あまりに気に入って即買いしてしまったくらいなので、自慢したい気持ちも多少はあったのかもしれません。

 いつもならすぐさま話題に飛びついてくるCさんが、この時ばかりは珍しく神妙な顔をして、手まで合わせてお願いしてくるのです。そのイヤリングはこの前買った白のサマーセーターにとても合いそうだから貸してくれないかと。週末の彼氏とのデートに是非つけていきたいのだと。
 表情は神妙でも、頼みごと自体はなかなか厚かましいものでした。

 しかし、Cさんがそういうキャラであることにはだいぶ慣れっこになっていたし、何より、私自身があの可愛らしいイヤリングはCさんの耳にこそふさわしいような気になってしまっていたのです。
 買った本人でさえまだ一度もつけていない新品なので、かなり悩みましたが、結局は私が折れる形で貸してやることを約束させられました。

 昼休みを終えて部署に戻る途中、階段のところで私をお昼に誘ってくれた女性――こちらは仮にAさんとしておきましょう――Aさんに「ちょっといい?」と引き止められました。

「あなた、Cに目をつけられてるみたいだから個人的に親しくならないように気をつけてね。イヤリングを貸すのはちょっとまずかったかもね……。何でも大人しくハイハイ従ってると、その内絶対に馬鹿を見るよ」

 それだけ言うと、Aさんはさっさと行ってしまいました。

 当時の私は、職場で三人だけの若い女性である彼女らがなりゆきで一緒にお昼を取っていること、Aさんともうひとりの女性は確かに友人同士であるけれど、自分本位なCさんは単なるおミソに過ぎないこと――等をまるで察せられなかったのです。

 その後、Aさんが退職してしまってお昼の集まりは自然消滅してしまったものの、なぜかCさんとの付き合いだけは続いておりました。彼女から頻繁に電話が――しかも昼も夜も関係なく――かかってくるようになったのです。

 大体の用件が「アレを貸してコレを貸して」でしたが、最悪なのが彼氏との別れ話に同席させられたことです。

 深夜のファミレスや公園で、Cさんはひたすら泣いているばかりで、話の進まなさにイライラした柄の悪い彼氏が、

「何だよ、そのデブスは!? こんなとこにンなの連れてくんじゃねーよ!!」

 と、ひとりオロオロしている私に八つ当たりしてくるのがそれはもう最高にキツかった。そんなことが二、三度ほどありましたっけ。涙交じりに頼まれたからといってノコノコついていく私も私なんですが。

 そのくせ、自分が彼氏と上手くいっている時にはふっつり電話がかかってこなくなるばかりか、私の誘いを無視したり、ドタキャンされたりするのです。そんなことをくり返されていくうちに甘ちゃんな私もさすがに目が覚めました。

 Cさんと縁が切れるのは別にかまわない。むしろ願ったり叶ったりなのですが、そうなると頭をよぎるのが今までに貸して返ってこなかった品々です。
 お気に入りの曲が入ったCDに、旅行用にと買っておいたトートバッグ、色合いに惚れたショールに全巻揃えていた漫画本……そしてイヤリング。

 そうです、最初に貸した花のイヤリングだけは返してもらわなければ気が済みません。いつか痩せてキレイになって、自分に自信がついた日に、あのイヤリングで耳を飾ってみたいのですから。

 絶交を言い渡すついでにイヤリングを返してもらおうと、いつになく強気になった私がそのままの勢いで彼女の家に電話をかけてみると――当時は携帯なんていう便利なものはまだありませんでした――出たのは彼女に声がよく似ているお母さん。Cさんは確か、裕福な農家の娘さんでした。

「あ、あのぅ……」

 最初の勢いはどこへやら、私が口の中でモゴモゴ言い淀んでいると、母親は何を勘違いしたのか、「あら〜◯◯ちゃん元気ぃ?」とマシンガンのような勢いでまくし立ててきたのです。そんなところもCさんにそっくりです。

「い、いえ、違うんです。私は⬜︎⬜︎と申しまして……。あの、Cさんはご在宅ですか?」

 途端にマシンガントークはピタリと止み、「あ、そう」と冷たい一言が聞こえてきたかと思うと、いきなり待機中の音楽に切り替わりました。曲が〈エリーゼのために〉だったことは今でもよく覚えています。

「もしもーし?」

 電話口からCさんの声が聞こえてきた瞬間がもっとも緊張しました。さぁ、言うぞ言うぞ言うぞ……!

「ねぇ、⬜︎⬜︎ちゃん。今度彼氏と旅行いくんだけどさ、こないだ新しいブーツを買ったって言ってたじゃない? もしサイズが合えばソレ貸してくんない?」

 …………

「いや……」

「えっ?」

「いやだ。サイズが合っても貸さない」

 もう少し言葉を選ぶつもりだったのに、まったく無意識に口が動いていました。

「あ、そ。じゃあいいよ。もう頼まない」

 ガチャリ!

 母親そっくりの声で言い捨てると、そのまま乱暴に電話を切られてしまいました。それがCさんと私の笑っちゃうくらいあっけない終わりでした――。

 嘘か真か、Cさんのその後はあまり幸福ではなかったようです。裕福な家を出て、知らない街で男に苦労させられているとか、水商売落ちしたとか、そんな噂もちらほら。

 あれから数十年経ち、何もかもが便利になった現在では、実名と、ある程度の個人情報を入力しさえすれば彼女の足取りを追えるかもしれません。でも、そこまではしたくないし、する気もありません。

 ふとした拍子にこうしてCさんという存在を思い出し、男に騙されて不幸になった(と仮定する)彼女の耳にいつまでもあの可憐なイヤリングが揺れていてくれればいいな、と暗く妄想するだけで充分に溜飲が下がるのでした。

 この妄想が私のささやかな復讐です。

彼女の耳には花のイヤリングが揺れている#原作コン22冬

facebook twitter
pagetop