その、次の、月曜日。

 恐る恐る大学に足を運んだ怜子の心に拘わらず、大学生活はいつも通り、滞りなく進んだ。

 二限目の基礎化学の授業も、三限目の解析学の授業も、先週と同じスピードで進む。

 ただ一つ、違ったのは、先週木曜日にあの長い髪の女性に選んでもらった解析学の演習本の問題を日曜日に解いてみたことが良かったのか、授業が少しだけ理解できるようになっていたこと。

これなら、大丈夫

 大学生活が始まって初めて、怜子はほっと胸を撫で下ろした。

 努力をすれば、怜子の力でも難解な授業についていくことができる。その認識が、怜子自身の力になっていた。

 講義に続いて始まった解析学の演習で、難しそうな証明問題を黒板で解くよう、演習担当の助教の先生から指名される。

この、問題

 渡されたプリントを見て、怜子はほっと息を吐いた。

 図書室であの繊細な腕の女性が選んでくれた本の中に似たような問題が有った。

大丈夫、解ける

 怜子は震える手でチョークを掴むと、書く文字がガタガタに見えることを気にしつつ解答を黒板に書ききった。

ほう、合ってる

 助教の先生が漏らした、驚愕の声に、もう一度ほっと息を吐く。

 恥をかかずに済んだ。自分の席に戻りながら、怜子は胸を撫で下ろした。

 歪みも、幽霊も、今日は視界に映らない。

歪みも、幽霊も、幻だった

 心の中で、怜子はこくんと頷いた。

 だが。

……

 自分の席に座る直前、机の上に置いた怜子の手に、半透明の手が重なる。見上げなくとも、目の前に件の幽霊が居ることが、気配だけで怜子には分かった。

……

 叫べない。身体も、動かない。難しい問題を解いたときに感じていた高揚感は、怜子の身体からすっかり無くなっていた。

 はっと、目蓋を上げる。

大丈夫か?

 視界に入ってきたのは、白い天井と、ギターケースを左肩に担いだ青年の心配に曇った瞳。

ここは、保健室

 頭が未だぼうっとしている怜子の耳に、爽やかな声が響く。

君をここまで運んだのは俺じゃなくって勁次郎さんだけど

気が付いたようですね

 その青年の横から、大きな影が現れる。解析の演習を手伝う大学院生、平林さんだ。そこまで認識した怜子は、次の瞬間がばりと跳ね起きた。

……演習は?

 途中退席はペナルティになるのではなかったか?

え、ちょっと、なんで泣くの?

 青年の声で、頬に涙が流れているのに気付く。

今日の演習は出席扱いになってますから、大丈夫ですよ

 気遣いに満ちた平林氏の声でやっと、怜子は息を吐くことができた。

全く

 その怜子の耳に、横柄な声が入ってくる。

もう少し女の子の扱いに慣れろよ、ユータ

 顔を上げると、金色の髪が目に入った。

雨宮先生! 何故、ここに?

兄貴には言われたくないね

 ユータと呼ばれた青年の毒突きを総無視した風で、雨宮准教授は戸惑う怜子の横の椅子に腰を下ろす。

 そして雨宮先生は、怜子をその緑色の瞳でじっと見詰めてにこりと笑った。

やっと見つけた

 その瞳の色よりも、雨宮先生の言葉に面食らったままの怜子の耳に、高く優しい声が響く。

大丈夫よ

 怜子の視界に次に入ってきたのは、図書室で本を選んでくれた細身の少女だった。

私達が全部解決してあげる

君の協力が必要だがな

 少女の言葉を継いだ雨宮准教授が、膝の上に置かれたままの怜子の手を掴む。

 何が何だか分からないまま、雰囲気に呑まれた怜子はこくりと頷くほか、無かった。

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