基(もとき)が背中に強い視線を感じたのは、今なにも泣き出しそうな天候のある風の強い朝、橋の上でスケッチ・ブックを広げていた時のことだった。紙の上に鉛筆を走らせる作業に没頭しはじめると、基は周囲の状況にわずかな関心さえ抱かなくなる性癖がある。この時も、件の視線の主に、気づかぬ間に背後をとられていた。ひときわ強い風が突発的に吹き、危うく掠われそうになったスケッチ・ブックをとっさに引き戻した時、誰かが背後から自分を覗きこんでいる気配を、はじめて悟ったのだ。
野外でスケッチをしていると、もの珍しいからか、無遠慮に書きかけの絵を覗き込む人物も多い。そのような人種はたいてい、じろじろと『描きかけの絵』そのものを見詰めるのが常なのだが、現在基の背後をとっている人物はなにが目的なのか、スケッチ・ブックではなく、基自身の背中に視線を注いでいる。
まるで、絵そのものよりも、基自身がもの珍しい、とでもいうように。
たしかに、夜明け前後の、普通の人々なら大半が起きてもいない時刻に、吹きさらしの橋の上で、しかも、美しい風景などではなく、刻々とうつろう曇天の雲の陰影を必死になって紙上に再現しようとする自分の姿は珍しく、あるいはまた、滑稽でもあるのだろう。
だが、風が強い早朝、それも風を遮るものがない、吹きさらしの橋の上で五分以上もの間、飽きもせず眺め続けるほどには、珍しい行為をしているつもりもない。
基は、見知らぬ人物の不躾な視線を背中に浴びながら、スケッチ・ブックの上に2Bの鉛筆を走らせる。まるで、その視線から、不可解な圧力でも受けているかのように。
必死になって紙の上に鉛筆を滑らせてているうちに、基の意識は、ふぅ、っと、遠くなる。