コワーキングスペース『CHERRY』の物語

第一話

4月の晴れた日。とある地方都市、A市の中心地からちょっと外れたところに、小さなお店がオープンしました。

通り沿いには、満開の桜が並んでいます。

鮎美

いい天気だねっ!
昨日まで雨だったのに晴れたよ!

ちひろ

よかったねぇ。
雨のままで誰も来なかったらどうしようと思っちゃった

散歩中の老人が一人歩いてきて、不思議そうにお店と二人を眺め、言いました。

おや、ここは何屋さんになったの?

鮎美

こんにちは!
ここはですね…今日から、こちらの看板にある通り、コワーキングスペースになったんです!

"コワーキングスペース『CHERRY』"
そう、これがこのお店の名前です。

こわーきんぐ…ちぇりー…なんだいそりゃ?

鮎美

はい!コワーキングというのは、独立した個人がそれぞれの仕事を持ち寄り同じ空間で仕事することによって、ゆるやかなコミュニケーションが生まれ、1人で仕事するよりも思いがけない効果が産まれる新しいビジネスのスタイルです!

ちひろ

ちょ、ちょっと鮎美さん……

ちひろ

ええっと、仕事してもいいし、本を読んでもいいし、お茶を飲んでもいいし、趣味でなにかやってもいいし……わかりにくいですね…
今日はオープン記念で一日無料解放なので、ちょっと入ってみませんか?

喫茶店ではないの?

鮎美

ドロップインしていただけると店内のフリードリンクコーナーが利用できますよ!

どろ……?

ちひろ

あの、こちらのパンフレットをどうぞ!

一日…1000円?
ううん?……若い人の行くところだな。
…ふうん、まぁがんばって!

ちひろ

あっちょっと…………
行っちゃった

なんだか「コワーキングスペース」ってよくわからないし、説明するのも難しいみたいですね。
でも、鮎美は気にしていない様子。

鮎美

ま、いいか。
看板のところにパンフレット置いておこうよ。
写真とってSNSに拡散しよっ♪

晴れて、コワーキングスペース『CHERRY』をオープンした二人。
そもそも、どうしてコワーキングスペースを作ろうと思ったのでしょう?
そして、コワーキングスペースって、何?

鮎美とちひろは地方都市A市に住むアラサー女子。ちひろの方が鮎美より少し年上です。

鮎美は思い立ったら即行動する派、しかしそれが災いし転職を繰り返しています。いずれは自分で起業したいとぼんやり考えていました。

一方のちひろは、3歳の息子が1人いる専業主婦。のんびり、温厚派。夫は国立大学の助教で忙しく、ほとんど家にいません。家事と育児だけの日々に閉塞感を感じていました。

二人は、A市が主催した女性向け起業セミナーで出会いました。

起業の情報を集めていた鮎美と、市役所のパンフレットの「ママでも起業」という文字を見てなんとなく参加した、ちひろ。思惑はまったく違うけど、席が隣同士になりました。

セミナーは講義の後ワークショップ、そしてティーパーティーがありました。

せっかくこの場で出会ったのですから、みなさん、積極的に名刺交換をしましょう!人脈作りのチャンスですよ。

講師の声に促されて、同じグループだった者どうし、名刺交換やメールアドレス交換を行ないました。

ところが。

ちひろ

鮎美さん、突然ごめんなさい!助けてほしいんです!!!

ちひろがメールで鮎美に助けを求めて来ました。

おなじグループの1人が、マルチ商法の販売員だったのです。押しに弱いちひろは、彼女の訪問を受けて「美肌・痩身グッズ」の契約寸前まで話を聞いてしまいました。急用を装ってその場は切り抜けたのですが、連日メールと電話が来るようになり、ちひろは困り果てていました。

相談を受けた鮎美は、すぐさま女性のところに乗り込んで行って二度とちひろに近づかないよう約束させたのです。

鮎美

ふざけんじゃないわよ!
ほんっと腹立つ!起業したい人の気持ちをへんなことに利用すんなっつーの。

ちひろ

鮎美さん、ほんとありがとう……

鮎美

何が美肌よ!ちひろさん充分美肌だもん。あの女がちひろさんに教わったほうがいいよ!
あははははっ

この出来事がきっかけで二人は妙に意気投合し、時々会ってお茶を飲む仲となったのでした。

ところで、鮎美は東京に出張に行った際、コワーキングスペースというものを知りました。

パソコンを使って作業ができる場所を求めて、最初は電源のあるカフェを利用していました。でも、コワーキングスペースを利用するようになってから、その開放的な雰囲気と、そこで出会う色々な人々や、面白そうなイベントにすっかり夢中になりました。

「コワーキングスペース」って?

それは、全国に約300ヶ所ある、ここ数年注目されている場所。
個人が、それぞれ違う仕事を持ち寄って、同じ空間を共有して仕事することを「コワーキング」といいます。
同じ場所にいることでゆるやかなコミュニケーションが生まれ、多様な職種・年齢・性別・立場の人と情報交換することで思いがけない相乗効果が生まれる、より楽しく効果的な働き方なんです。

コワーキングのためのスペース「コワーキングスペース」では、電源・Wifiが整備され、仕切りのないオープンな空間であることがほとんどです。
そこにいる人と雑談したり、フリードリンクで休憩したりしながら、快適に仕事することができます。

鮎美のように、ビジターとして一日だけ利用することをドロップインと言います。
一ヶ月使い放題プランや固定席プランなどもあり、スペースによって様々な利用しやすい仕組みが設けられています。

コワーキングスペースでは、イベントも多く開催されています。
ビジネスイベント、勉強会、ものづくり、食、健康……さまざまな学びの場として、また、食事や宴会を伴う気軽な交流イベントの場として、利用されています。

鮎美は、出張のたびに東京のコワーキングスペースを開拓して、ブログで紹介することにしたのです。
ブログには様々な反響がありました。

コワーキングスペース、いいなぁ。
A市にも、あるといいのに。

カフェの電源席はいつも満席だし、WiFiだって充分じゃないよ。そもそも電源・Wifiがあるカフェも少ないし。

ファーストフード店では、ゲームしてる中高生が騒いでいたり、おばちゃんがおしゃべりしてたりして、仕事すんのはちょっと

基本は自宅で仕事してるけど、人の目がないからさぼっちゃうし、色々目について集中できないんだよね。たまには外で仕事したい。

鮎美

A市にもコワーキングスペース欲しいって思っている人、けっこういるんだなぁ。

ある日、東京のコワーキングスペース『Apollo』に初めて行った鮎美は、オーナーさんにブログを読んでいると話しかけられました。

今井

実は、僕、A市出身でね。

鮎美

ええっ?そうなんですか?
わーなんか嬉しい。

今井

A市にはまだ、コワーキングスペースないんだよね。
鮎美さん、作ったらいいんじゃない?

鮎美

えっ、私が……!?

鮎美

自分で運営?
考えたこともなかった。でも、自分がこんな素敵なスペースを運営して、そこで過ごしていろんなつながりが生まれるのを手助けできたら………楽しいだろうな。

鮎美はブログに、A市にコワーキングスペースを作りたいと書いてみました。
すると、さまざまな反響がありました。

ビジネスとしては、どうかなぁ………

もう一度よく考えてください!
自分の知人はスペース運営に失敗して大変な思いをしました。同じような思いをさせたくないから言ってるんです。
A市に本当にニーズがあるんですか?

鮎美

そっかぁ、コワーキングスペースって経営大変なんだな……
でも欲しいっていう声があるし、ニーズはあると思うんだけど。

久しぶりにちひろと会った鮎美は、コワーキングスペースの話をしました。

ちひろ

ふーん………「コワーキングスペース」かぁ。
鮎美さん面白いことしようとしてるんだね。起業のテーマとしてぴったりじゃない?

鮎美

うーん、それ単体で収益を出すことは難しいみたいなんだよね。
固定費を抱えるリスクもあるし。
どこか、うんと安く場所貸してくれるとこ、あったらなぁ…

ちひろ

場所……あるよ。

鮎美

え?

ちひろ

私の実家。表がお店で裏に母が住んでるの。
母が居酒屋やってたんだけど、体を壊して閉めちゃったんだよね。
改装はしなきゃいけないと思うけど、使えるんじゃないかな。

鮎美

ほ、ほんと!

ちひろ

私も、自分で作ったハンドメイドの小物を、売るお店ができたらなーなんて思ってたの。

鮎美

じゃぁちひろさん、一緒にやろうよ。
コワーキングスペースでレンタルボックス置いて、物販スペースにするのもいいよね!
決まり!!

こうして鮎美とちひろは、ちひろの実家の店舗を借りてスペースをはじめることにしたのです。

鮎美がブログで協力を呼びかけると、何人かの人が名乗りを上げてくれました。

大崎

大崎です!
インフラ系エンジニアしています。ネットワークの設定なら手伝いますよ。
俺、子どもが生まれたので独立して、東京からこっちに引っ越して来たんです。

鮎美

助かります。
ネットワークはちゃんとしないとダメだって『Apollo』のオーナーさんにも言われたんですよ。ありがとうございます!

清川

清川です。
定年前に早期退職して、親の介護をしながらアプリの開発をしています。
知り合いが事務所を移転するので要らない椅子と机があるそうです。僕、もらって来ますよ。

ちひろ

良かった!居酒屋の椅子とテーブルだと、ちょっと使いづらいと思っていたんですよ。

柳です!
僕、DIYが趣味なんですよね。物販の棚、作るって聞いて、ホームセンターで下見してきましたよ。
設計図書いて来たんですけど、見てくれます?
塗装もしたいですね。しっくい風の塗料がいいんじゃないかなぁ。壁はホワイトボードにして………

鮎美

……あ、ありがとうございます!
こういうの初めてなんで、いろいろ教えてください!

鮎美は会社を退職しました。幸い外注として仕事を貰えることになり、コワーキングスペースの運営と並行して仕事も続けることになりました。
ちひろは、母に息子の面倒を見てもらえることになりました。
スペース名は『CHERRY(ちぇりー)』。店舗のある通りの桜並木にちなんで、名付けられました。

壁を塗ったり、床材を貼ったりするときは協力者を募ると、何人か集まってくれました。家具組み立てや買い出しも、いろんな人が手伝ってくれました。
ウェブサイトを作って、SNSのアカウントも作り、鮎美は「CHERRY」のできていく過程をアップしていきます。

鮎美

みなさんのお陰でここまでできました!
いよいよ明日オープンです!

そして迎えたオープン初日。

とおりすがりの老人を見送った二人は店の中で手持ち無沙汰に過ごしていました。

鮎美

私、仕事しよっと。まずは私とちひろさんでコワーキングしよ!
コーヒー、飲むからちひろさんの分もいれるね。

ちひろ

ありがとう。そうだね。私も、作品いっぱい作んなきゃ。

どうもー!オープンおめでとうございます!

鮎美

あ、清川さん、柳さん、大崎さん!

途中でみなさんと会ったんで一緒に来ました。

清川

Wifiも使えるようになったんですね。
さっそく利用させてもらいますよ。

大崎

コーヒー、もらいますね!
あとこれ、差し入れです。ケーキ。

ちひろ

ありがとうございます!

鮎美

嬉しいなぁ、こうして実際に人が来てくれて使ってくれるの見ると、スペースオープンしたんだなぁって実感が湧いてくるよ!

他にも、SNSを見たという人が数人、看板を見た近所の人が数人訪れてくれました。
そして、ちひろの作った布製のバッグを、1人の女性が買ってくれました。

ちひろ

うわー、自分で作ったのなんて売れるのかな、と思ったけど、本当に売れると嬉しい!

鮎美

ね?安く値段つけなくてよかったでしょ?

ちひろ

明日も楽しみだね!

鮎美

うん。

しかし、賑やかなのはオープン後一週間だけでした。

噂を聞きつけた地元新聞社の記者が取材に来ましたが、記事にはなりませんでした。

近所の人も顔を出してくれましたが、一度きりです。

ちひろ

やっぱり難しいのかな、コワーキングスペース運営って。

鮎美

うーん、でもさ。半年はお客さん全然来なかったっていうコワーキングスペースはけっこうあるらしいよ。まだ資金はあるし、焦らないでじっくりやろうよ!

それでも、誰も来ない一日が終わり、自分たちの使ったカップだけを洗い、掃除している時間は、気が重くなってしまいます。

このあと、『CHERRY』はどうなっていくのでしょうか?

<< 続く >>

第一話 コワーキングスペース「CHERRY」オープン!

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