雲は空にのってやってくる
風は麦畑にのってやってくる
雲は空にのってやってくる
風は麦畑にのってやってくる
・・・うれしいね
・・・そう、うれしいね
陽だまりのスピーカーからふたりの声がきこえる
・・・もう、鳥の声やんだね
・・・しずかな昼だね
乳白色の川のせせらぎもしのび足で流れている
何かが生れる瞬間を待つように
・・・そろそろはじまるね
・・・はじまるって、なにが?
・・・わすれた?
すると突然、辺りが光りに満ちあふれ
ふたりは視界を奪われた
大地がゆらゆらと蒸発するようにあいまいになって行き
空も大地も見分けのつかないくらい
ぜんぶが光のような白い世界になって行った
・・・うわぁ
たまらなくなって目を覆うふたりに
地の底を這うような地響き、そして
空の方から音楽がゆっくりと近づいてくる
・・・ほら、はじまるよ
・・・何がはじまるの?
音楽とともに森の木々はやわらかに動きだし
川はあめ色に輝き
道やほこりのかぶった小屋も
ふたりがひそんでいる茂みだけを残して
麦畑の真ん中の一点に集まっていき
緑色の粘土をこねたように
ひとつのかたまりになっていく
・・・大丈夫?
・・・なんだかこわいね
粘土のかたまりはぷくぷくと水のようになって
大きな蒼い湖になった
湖は光で満たされ天までとどくほど
ぴかぴかとひかる絹のようにのぼっていく
ふたりもどこにいるのかわからないほど
空も大地もあいまいになって行く
・・・ねえ、何がはじまるの?
・・・しっ、しずかに
光と地響きがおさまると
全ては真っ白い世界になった
音楽はいつの間にかやんでいた
もやが深くてあたりがはっきりと見えない
時々ふいてくるそよ風も
和紙のようにやわらかく感じられた
よく見るとその白い世界の真ん中に
ちいさなかたちが見えてきた
一艘のボートのようだ
・・・ほら
・・・ああ、見えるね
ボートはしずくのようなかたちをしていて
まわりを波紋がゆったりと広がっている
ふたりは息をのんでボートを見つめた
だんだんその姿がはっきりしてきたころ
ひとりが大きな声を出した
・・・あ、あれ!
・・・しっ!
もうひとりが声を制した
少女の影がのっているように見えた
髪は長く花冠をつけている
白いキトンのような服をまとい
少しうつむいて座っている
・・・誰だろう?
ひとりがつぶやいたとき
もうひとりが切ない声で嘆いた
・・・ああ、やっぱり
・・・やっぱりって、なにが?
・・・わすれた?
その瞬間全体に光が満たされ
ふたたび何もみえなくなった
地響きはさっきの何倍にも響き
やんでいた音楽がふたたび起きだした
今度はワーグナーのような攻撃的な交響曲だ
・・・どうしちゃったんだろう、何なんだろう?
真っ白だった世界は
ペルム紀の火山噴火で視界が遮られたようになり
身動きもとれないほど揺れや音は大きくなっていた
・・・うわあ、もうだめだ!
・・・大丈夫、ほら、あれ!
真っ暗な噴煙の中
ボートの浮かんでいたところだけが
白い輪になって静かに漂っている
そして座っていた少女がしずかに
立ち上がった
・・・一体、誰なの?
・・・きみのおかあさんだよ!
・・・えっ!?
すると少女はゆっくりとボートから足がはなれ
ゆっくりと空へ浮かびあがり出した
高度が上がるにつれて少女のかたちは
だんだんのびて光のようになっていく
・・・わたしのおかあさん・・・
・・・ほら、あれ!
ほとんど光のようになり
人間のかたちでなくなる最後
かろうじて顔の目のあたりから
涙のようなものが見えた
・・・ああ・・・
空は湖水のようにしずかにたたえ
真っ白だった空間に
木々や川も鳥の声や川のせせらぎも
もとにもどっていた
雲は空にのってやってくる
風は麦畑にのってやってくる
・・・うれしいね