福来 優希(ふくらい ゆうき)の今はまだ無い子宮にあたる位置で、寄生虫フクロムシの虫体がズキリと疼いた。と同時に、優希は横っ飛びに跳ねて塀の陰に隠れる。
福来 優希(ふくらい ゆうき)の今はまだ無い子宮にあたる位置で、寄生虫フクロムシの虫体がズキリと疼いた。と同時に、優希は横っ飛びに跳ねて塀の陰に隠れる。
え……? まじで……?
…………
…………
今のはケイ……と、誰だ? いやそれはどうでも良くて、今のは……
(女子だった?)
角の向こうに見てしまった光景を、優希は慌てて反芻する。体内に張り巡らされたフクロムシの寄生根(インテルナ)からじっとりと熱が放出される。夕日が傾くにつれ、背にした塀の影はどんどん濃くなっていく。
優希は、特別適応性寄生虫宿主の第四世代である。
国民多様性保全法(多様法)の施行により、少しだけ広くなったヒト遺伝子プールの中から生まれた特異体質の家系。優希の家族は皆、生まれた直後からフクロムシ類の寄生虫を体内に宿しており、フクロムシと共に生きてきた。
角の向こうにいる学友・上城石 圭(かみじょうせき けい)ともう一人の女生徒も、寄生種は違えど、優希と同じ第四世代だ。彼らは、ヤドリギ寄生学園の生徒なのだ。
(か、確認しない訳にもいくまい……。でもこういうのって、出歯亀ってやつなんじゃないのかな)
(いやいや! そういうのとは限らないじゃないか。放課後に偶然クラスメイトと会うくらい、何も珍しいことではない。なのに何だって今、隠れてしまったのか?)
(そこは多分、見間違えのせいだろう。だから確認する必要がある……)
優希は恐る恐る塀の向こうを覗いた。
こらアカン
優希は慌てて塀の陰に戻る。
(アカンでぇ……こらアカン……)
虫体の疼きを抑えるように、腹のあたりに手を当てる優希。真珠色の指先が、詰襟の学生服にふんわりと沈む。
失恋……?
ちげーよ! というか、何でだよ!
(向かいの女子、同じクラスの人っぽいけど、誰だか分かんないし。恋も何もあるかよ)
(ケイにしても思春期の男子なんだから、キ、キスの一つや二つ……)
あ…………
(ケイの方か…………?)
一体何でこんな事になったんだったか。優希は、自分に言い聞かせるように思い出し始めた。
* * *
その日の朝。陽光うららかな山あいの住宅街に、優希の軽やかな足音が響く。
急ぎ足に駆ける、その上下動に従って、セミロングの髪と胸元のボタンが弾む。彼の行く道に一匹のみみずが這い出していた。
「みみずが出る季節」―暦では五月半ばをそのように呼ぶ。夏の匂いは一里先。日一日と強くなる日差しを受けて、水溜りがきらきら光っている。優希の足元にみみずが迫る。優希は視線をまっすぐ前に向けたまま、
一足にみみずを飛び越した。そのすぐ先に、詰襟の後ろ姿がもう一つある。
ケイ、おはよ!
おはよー。ユウ、後ろから来るなんて珍しい。
圭の声は、優希より幾分トーンが低い。圭は袖をまくって腕時計を確認し、言葉を続ける。
そんなに走らんでも、まだ遅刻って時間じゃなくね?
いや、角のところで後ろ姿が見えて、ケイだろうと思って。
ケイこそ早いじゃん。僕より先に歩いてるの、今学期初めてじゃない。
いやあー
曖昧な返事を洩らす圭。これといった理由はなく、気まぐれに早く出たのだろう。圭は時々そういうことをする、と優希は理解していた。二人は幼馴染である。
優希は圭の左側に並んでその腕を取り、そのまま2ブロックほど歩く。次の角を曲がるところで、圭が再び口を開いた。
月曜の朝から元気すぎだろ……。
優希の額には汗の小粒が光っていた。
* * *
あんた達、濃厚接触も大概にしなさいよ!
二人は高等部のフロア入口で、風紀委員の宮入ニナに呼び止められた。
だいじょーぶ、直接触ってないよ。抗菌制服の上からだけ。
優希は圭の腕を抱えたまま答える。
性別関係なしに、濃厚な交際そのものが校則違反なんだから。
……何というか、言いにくいんだけど。わきまえてもらえないかしら?
宮入は細かいなー。ユウは前からこうじゃんか。今更、交際も何もあるかいな。
知ってるわよ。そういう問題じゃなくて……。あ、待ちなさい、ちょっと!
行き過ぎようとする圭の前に、立ちふさがる宮入。優希は圭の腕を放し、宮入の方に向き直ってなだめる。
了解、了解。分かってるって。
教室に着いた二人は、ドア横の「みそぎゾーン」で立ち止まる。
「みそぎゾーン」とは、小机と、その周囲2メートル×2メートルほどの空間をさして言う言葉であり、その領域は赤いビニルテープで区切られている。小机の上には消毒ジェル、「DDT黒板消し」、飲用消毒液のサーバーがセットで置かれており、これらで身体を消毒しない限り、教室に出入りしてはならないルールとなっているのだ。
ここ、ヤドリギ寄生学園は、寄生虫に対して適応体質を持つ生徒のための特殊学校である。
「特殊」というのは法律上の表現であって、「殊更に稀で変わっている」という意味ではない。現に、特殊学校の設立数は、私立の小・中・高等学校全体のおよそ4割を占めており、一部の都市圏においては半数を超える。
平たく言えば、特殊体質の生徒を受け入れることで助成金を得ている学校を「特殊学校」と呼ぶのである。勿論、そのための環境や校則を整えることが条件となる。ヤドリギの生徒は、ほぼ全員が寄生虫(一部は寄生植物)を体内に宿しているため、校内感染の防止はとりわけ重要といえる。濃厚接触の禁止や「みそぎゾーン」はそのための施策というわけである。
ケイ、頭出して。DDTはたくよ。
おーサンキュー
優希が「DDT黒板消し」を手に嵌め、圭の頭をはたいてやると、殺虫剤の煙が膨らむ。
んっ、ケホ、ケホッ、いけね……。
はたきながら、優希はDDTにむせてしまった。うつむいた顔に、長い前髪が掛かって揺れる。鈴のような咳が廊下に響く。
だいじょぶ?
圭が声を掛ける。
圭はこういう場合、背中をさすったり、大げさに心配のポーズを取ったりは絶対しない。そうしたからって咳が早く止んだりはしないから。それは確かにそうだが、だからってそうして突っ立っているのも所在無いのではないかと思うのだが。
いっそ、放って先に行っても同じことなのでは?
が、圭はそうもしない。するべきことが何もないのに、あたかも万事心得ているといった顔で立っている。それだけで、根拠なく人を安心させる感じがある。そういういつものケイだ。
(そういうところが良いんだな……)
(…………)
* * *
終礼の後、圭が声を掛けてきた。
おれ今日、本屋に寄るからさ。先に帰るよ。ちょっとダラダラ見たくてさ。
あ、僕も掃除の後、掲示係の用があって
(本屋か、特に見たいものは思い付かないけど……)
……僕も本屋、行きたいな。
あーでも、僕は遅くなるかもしれないし、別個に行こう。あっちで見かけたら声掛けるよ。
優希がそう答えると、圭は「それじゃ」とだけ言って鞄を肩に掛け、教室を出ていった。
* * *
(そう、そういう事だった。それで、急いで片付けて来てみれば……)
本屋まであと3ブロック、こんな所でケイ(と、誰だ?)に出くわすとは。
二人で本を見ていたのだろうか?
そのために、僕に来て欲しくなくてああ言ったのだろうか?
ケイが。
(嘘を?)
(いやいや、決めつけるには早い。情報が足りないだろう。
とはいえ……このまま盗み聞きを決め込むというのも……)
隠れているのは望ましくない。とりあえず、そっとこの場を離れるべきではないか……優希がそんな風に考えた丁度その時、角の向こうから声が聞こえて来た。
綿を押し潰すように潜めた、女性のか細い声。
……収まった? 上城石君?
優希は駆け出していた。
情報だろうが何だろうが、これ以上は全く聞きたくない。足音を立ててしまっただろうか?
(知ったこっちゃない)
フクロムシは主として甲殻類に寄生する種であるが、宿主の性別を変える能力を持っている。宿主の生殖活動をコントロールし、自分の生存を有利にするためだ。優希の中に住む、ヒト適応性のフクロムシもまた同じ性質を持っている。優希は、その影響下にあることを自覚しているつもりだったが、この日もう一度知り直したのである。
(続く)