……ねぇ、覚えてる?

――!?

その声が耳に届いた瞬間、北村は
ギクンと身をこわばらせた。

あたりを見回してみたものの、
自宅からほど近いこともあり、
日ごろから足繁く通っている
ハンバーガーショップの店内は
ほぼ満席で、学校帰りの学生や
若いカップルのおしゃべりで
騒然としていた。

この中からごく短い問いかけの
主を見つけ出すのは難しそうだ。

ズズ……ッ

とりあえずホットコーヒーを
ひと口すする。うん、美味い。
薄い苦味に気分が落ち着いていく。

少女の声だったな……

特徴のない、それこそ今も北村の
隣で騒いでいる女子学生の集団と
よく似た声の質とトーン。
賑わいの一瞬の隙を突くようにして
いやにはっきりと聞こえてきたから
それは確かだ。

明瞭に聞こえたという以外に、
なぜこんなにも心に引っかかるのか。

北村はしがないwebライター。
仕事に詰まるとよくここを訪れる。

エネルギッシュな若者たちの
忌憚のない会話とくだけた空気。
これらがほどよい刺激と、時には
ひらめきを提供してくれるからだ。

周囲に張り巡らせたアンテナは、
これまでにもさまざまな情報を
拾い集めてきた。
中には記事に直接結び付いたネタ
だってある。

だが今回は、オモシロ発言系だった
今までとはまったく違う。
例えるなら金属を生クリームで
コーティングしたかのような
異質感を覚えるのだ。

これはもしかすると、
とんでもない厄ネタかも
しんねぇぞ……!

ここにあったビルで
十年前の今日――

きたきたきた!!

北村の反応は迅速だった。

声がすると同時にいつも持ち歩いている
ボイスレコーダーの電源をオンにして、
アンテナに意識を集中させる。

どこだ? どの方向から
この声は聞こえてくる?

どれだけ集中しても、声がどこから
聞こえてくるのかを突きとめることは
できなかった。
まわりのしょうもない雑音を今だけ
ミュートにできればいいのに、と
本気で願ってしまった。

……しばらく待ってみても続きは
聞こえてこない。

たっぷり残っていたコーヒーも
すっかり空だ。

ただで居座るのも申し訳ないので、
もう一杯買いにいき、湯気の立つ
カップを片手に席へと戻る。

――その間も脳内では少女の声が
リフレインしていた。

そういえば、声の調子が最初とは
明らかに異なっていた。
微かな震えと湿り気をおびた声。
恐らくは泣きたいのを
必死にこらえているのだろう。

声の主は、軽い世間話風な語り口で
ありながら、十年前にこのビルで起きた
何らかの不幸に心を痛めている。
これがいわゆる霊現象かは不明だが、
過去を調べてみる価値はありそうだ。

ん? 待てよ――十年前?
十年前って……そりゃお前

思わず存在しない相手に
向かって呼びかけてしまう。

なぜなら、この複合ビルは十年前には
存在していなかったからだ。
建ってまだ二、三年ぐらいのはず。

この辺に住んで長い北村は、利用する
商業施設限定ではあるが、近隣の
建物事情を大体把握していた。

だが声の主は〈ここにあったビル〉と
明言していたではないか。

それはつまり?

〈ビルが何らかの事情でなくなる未来〉
――から聞こえてきた声とか?

爆発事故があったの、
覚えてる?

このタイミングで
きなすったか!

驚いた拍子に熱々のコーヒー入り
カップを取り落としそうになり、
あわてて持ちなおす。
背後から「あっぶねー!」と
無邪気な悲鳴があがる。

 今や深い悲しみをむき出しに
した声は続く。

その事故で、あたしのお母さんと
お母さんのおなかにいた弟か妹も
いっしょに死んじゃったんだ……

!!

北村はとっさに店内の至る
ところへ視線を走らせた

違う(ハンバーガー何十個
食ってんだ!?)

同年代だろうけど
多分違う!

違う(幸せそうで何より!)

違――

あれは――あの女性は!

隅っこの席で慎ましやかに
ドリンクをすする三十代
くらいの女性。

ゆったりとしたワンピースの
腹部は確かに膨らんでいる。

…………

よしっ!

そのことを確認した北村は、
喉がヤケドするのもかまわず、
300ml入りのホットコーヒーを
その場で一気に飲み干すと、
携帯電話を引っつかんで店から
飛び出していった――

とある複合ビルの前。

十年前に比べるとやはり全体的に
薄汚れてきてはいるが、
駅近の賑わいは相変わらずで、
例のハンバーガーショップも
もちろん健在だ。

しみじみ〜

客が入れ代わり立ち代わり訪れるビルを
十年分の老いを重ねた北村が感慨深い
まなざしで見上げていた。

今日はたまたま以前住んでいたこの辺に
用事があったため、何となくここまで
足を運んでみたのだった。

あれから。

お叱り覚悟で警察に通報して
みたところ、事態は北村の予想を
はるかに超えて大きく速く動き、
最終的には一階の男子トイレから
爆発物が発見されたのだ。

監視カメラの映像が決め手となり
犯人もスピード逮捕されている。

こじらせすぎたナンチャッテ思想犯
による、悪質な犯行だった。

記念すべき第一回目であるこの爆破が
みごと成功したら、都内の要所にも
いくつか仕掛けるつもりだったという。

爆弾自体はネットから得た知識を
元に作られたお粗末なものだったが、
万が一爆発していた場合、
トイレに隣接する何店舗かは確実に
被害をこうむる程度の威力では
あったらしい。

 そして、かのハンバーガーショップは
トイレの最も近くに位置していた。

お手柄だった北村はというと、
爆発未遂事件を機に、
バリバリの社会派記者に転向――
などというドラマチックな展開は
もちろんなく。

今でもしがないwebライターを
地味に続けている。

あの出来事をきっかけに、超常現象に
対する認識は少しばかり変わったかも
しれないが(ちなみにボイスレコーダー
には雑音しか入っていなかった……)。

思うに、少女の声は霊的な存在からの
警告などといったものではなく、
十年後の未来に、被害者の娘がここを
通りかかった際の会話の一部が、
時間の裂け目をすり抜けるか何かして、
たまたまこぼれ落ちてきただけ
――なような気がする。

で、やはりたまたまチャンネルの
合ってしまった北村の耳がそれを
キャッチしてしまったと。

 みなぎる異質感はこの時代にあっては
ならない声(会話)だったせいでは
ないだろうか。

ともあれ、北村が勇気を出した
おかげでビルの爆発しない
未来が生まれた。

母親を失い、嘆き悲しむ少女は
どこにもいない。

……ねぇ、覚えてる?

えっ? ……ええっ!?

ここで十年前に爆弾騒ぎが
あったんだよ
気付いた人がすぐに通報して
くれたおかげで未然に防げた
んだって

――お母さんやみんなを
助けてくれて、どうも
ありがとう

あっ――と思いふり返ると、
弾むように楽しげな後ろ姿が
ビルの角を曲がっていく
ところだった。

曲がりきる直前、
スカートのすそがふわりと
春の風に舞う。

最後のアレはがんばった俺への
ささやかなごほうびだったりして。

ニヤけかけてからすぐに
思いあらためる。

 いやいや、女子高生のチラリを
ごほうびだと感じるなんて、
俺もおっさんになったもんだ。

そりゃそうか……
もう十年だもんなぁ

北村は苦い笑いを浮かべつつ、
駅に向かってブラブラと
歩き始めるのだった――。

コーヒー二杯分の事件

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