魑魅魍魎、八百万の妖怪と精霊が勢力を二分する山――カクヨノ山。

 人里離れた山の東側には精霊が、西側には妖怪が棲みついているといわれている。

 夏の猛暑も最高潮に達してきた今日この頃、カクヨノ山に棲む獣や精霊や妖怪は、暑さに茹だる者もいれば、生き生きと暑さを満喫する者もいた。
 

蛟鬼

ぴしゃぴしゃ~~♪

 カクヨノ山の中腹に、夏も冷たい水が流れる川がある。
 季節が変われば蛍も集まるほど澄んだ川で、そこは避暑にもってこいの穴場だったが、人間たちが寄り付かないのはカクヨノ山に入ることを恐れてだろう。
 故に、そこは人ならざる者たちの憩いの場だった。

オヤブン

おう、蛟鬼。おめえも水浴びか。

蛟鬼

あ、オヤブン。

蛟鬼

と……。

  カクヨノ山の西方に棲む子鬼、蛟鬼が川に足を浸して涼んでいると、東方に棲むカブト虫のオヤブンが顔を出した。

 オヤブンは「これも統領の仕事だ」と言ってカクヨノ山を見回っているからよく出会う。
 けれど、今日の見回りはどうやら一匹でではないようだ。

 オヤブンは自前の羽で飛ぶわけではなく、ふわふわと浮かぶ奇妙な乗り物にまたがって現れた。

 片方は胡瓜に、もう片方は茄子に串を刺して生き物を模した精霊である。

 彼ら二匹は通称『精霊馬‘S』といって東方の勢力に混ざり、オヤブンの足となっている兄弟だ。

精霊馬’S

西方のお嬢!お久しぶりです!

精霊馬’S

お元気そうで何より!

蛟鬼

キューさん、ナーさん。こんにちは。

 息ピッタリに蛟鬼に挨拶をしてくれる。彼ら兄弟とは蛟鬼も顔なじみだった。

蛟鬼

キューさんとナーさんは本当に久しぶりだね。

精霊馬’S

お盆の時期が近いですから。親分の足以外にもあちこち走り回ってますんで。

蛟鬼

ふうん。それで、オヤブンたちも水遊びに来たの?

オヤブン

今日は一段と暑いからなぁ。本当は南の島にでもバカンスに行きてえところだが、近場の川で我慢だ。

蛟鬼

ばかんす…?

オヤブン

外海の言葉で休暇のことよ。俺だってたまには極楽を味わいたいものさ。

精霊馬’S

親分は仕事熱心ですからね。でも、今日の所は川でご勘弁ください。

 そう言うと、精霊馬’Sは背中に乗せたオヤブンを丁寧に川辺にと下ろした。

 この川の水は、西と東の土地の間を流れているので精霊と妖怪の両方が集まって来る。
 棲み処を分けて、それぞれ派閥を持っている両社だが、『陣取り祭り』以外は争ってはならないという決まりを互いの長が取り交わしているので、顔を合わせたくらいでは事は起こらない。


 ――蛟鬼とオヤブンの間柄で、そんな過ちが起ることはあり得ないけれど。

オヤブン

ところで、蛟鬼は今日も一人で遊んでいるのか?

蛟鬼

今日は修行の日。でも、いまはちょっと休憩中。ぱしゃぱしゃ。

オヤブン

ほおう、お前の口から修業とは珍しい。でも、知恵熱が出ても川の近くじゃ安心だな。

精霊馬’S

休憩なら、ちょうど西瓜を冷やしているところです。お嬢もいかがですか?

 さすがオヤブンの付き人(馬)だ。準備がいいのか、精霊馬’Sは冷たい川の水で冷やしていた小玉スイカを引き上げてきた。
 それを見た蛟鬼が喜色に変わる。

蛟鬼

スイカ!

蛟鬼

食べたい、食べる。今日はもうずっと休憩にする。

椀坊

おおっと!そうやって蛟鬼を甘やかされちゃあ困るぜ東の統領!

 しかし、蛟鬼の喜びを邪魔する者の声が響いた。

 声がした方を見れば、川の流れに乗ってどんぶらこ、どんぶらこ、と古びた漆塗りの椀が流れてくる。
 椀の口が開いた方からは、椎茸の軸のような体が生えており、腕はなく、器用に足だけで泳いでいた。

オヤブン

おう、椀坊もいたのか。

椀坊

当たり前だい。おれは御屋形様から蛟鬼を見張るように言いつけられているんだ。間違っても修行をサボらないようにな!

蛟鬼

……余計なことを(ボソッ)

椀坊

聞こえているからなっ!

 椀坊はバタ足で水しぶきを盛大に飛ばしながら、川を上っては下ってを繰り返している。
 頭の椀は水に浮きやすいのだろう。普段、バランスを取りながら走り回るより、水の中の方が快適なのか、彼も彼で水浴びを楽しんでいるように見えた。

蛟鬼

びしょびしょ……。

 蛟鬼は椀坊が飛ばした水に濡れながら、むっと不貞腐れた声で言う。

蛟鬼

サボったりなんかしない。今日はちゃんと修行の日。

椀坊

へえ!じゃあ再開といこうか。今日こそはまともな鬼火を出してくれるんだろう?

蛟鬼

当然。

 蛟鬼は川から足を引き上げると、腰かけていた岩の上にすくっと立ち上がる。
 彼女の表情にうっすら真剣みを感じられれば、この場にいる皆がそれを見守った。

 『鬼火』とは、鬼だけが使える妖力のこと。
 生きていた者の霊力を操り、燃やす、青色の怪火だ。

 その火は見た者を幻覚で惑わしたり、物の怪たちの核を焼いて炭にして消し去ったりもできる。

 西方の妖怪たちの頭、鬼王丸の『鬼火』は、百鬼夜行の兵達を相手取ることもできるほど強力な力を持っているという。

 蛟鬼もまた鬼だ。ましてや、鬼王丸の弟子であるならば、鬼火の一つや二つ出すことが出来て当然であった。

蛟鬼

……むむっ。

 ……当然であるのだが。

蛟鬼

……えいやっ。

 …………。
 ………………。

 しかし、まっすぐ前に押し出された小さな掌は、水鉄砲のように短い水流を吐き出しただけだった。

オヤブン

……。

椀坊

……。

精霊馬’S

……惜しいです!お嬢っ!

 何とも言えぬ空気が流れる皆の前で、蛟鬼は一仕事を終えたとばかりに額の汗を手の甲でぐいっと拭って見せた。

蛟鬼

……ふぃ。今日はこれくらいにしとく。

椀坊

なぁーにを粋がっているんだ!!

 椀坊が水面を蹴り上げて、蛟鬼に水をぶっ掛けた。

蛟鬼

ぷはっ!?

椀坊

鬼『火』を出せって言われて何で『水』が出てくるんだよ!おかしいだろがい!

蛟鬼

水じゃないもん。

蛟鬼

『お湯』だもん。ちょっと惜しかった。

 もう一度突き出した掌から、じょぼじょぼと湯気が立つ水が流れ出す。否、温かいのだからそれは確かにお湯だった。

オヤブン

おっ、こいつは打たせ湯みてぇで丁度いいな。加減はちょっとぬるめだが。

 オヤブンはお湯の流れの下に潜り込むと、お湯に打たれて極楽といった様子だった。
 カブト虫のつるつるとした肌をお湯がじんわり温めて川に流れていく。

椀坊

だから!蛟鬼を甘やかさねえでくれっての!

蛟鬼

どや。

 まったくこれじゃやりにくいと、椀坊の抗議は最もだった。

 椀坊は、鬼王丸から命を受けた蛟鬼のお目付け役だ。それなのに、こうも指導のペースを崩されては、役目の一つも果たせられない。

 それに、相手は大体カクヨノ山の一つの勢力を率いる統領だ。簡単にはいなせられない。

 鬼を名乗るが鬼火も出せない『半端もの』のくせに、そんな狡い盾を持っている蛟鬼が嫌いだった。
 簡単に妖怪を統べる鬼王丸の弟子なのに『半端もの』の蛟鬼を、椀坊は許せなかった。

椀坊

まったく、御屋形様の面汚しもいい加減にしろってんだ!

蛟鬼

ひゃあっ!

椀坊

お前なんか御屋形様の弟子でいいがはずない!立派な鬼になれるもんか!

 椀坊の怒りの水しぶきが蛟鬼を襲う。
 何度も何度も水が掛けられる。

蛟鬼

わぷぷっ

蛟鬼

ごぼごぼっ

蛟鬼

うわぁん

精霊馬’S

西方の、落ち着いてください。

オヤブン

おいおい椀坊……、もうそのくらいでいいだろう。

 怒涛の水責めに、とうとう蛟鬼が泣き声を上げて降参を示した。
 それに、オヤブンと精霊馬‘Sが止めに入れば、椀坊はようやく川の水を蹴るのを止める。
 蛟鬼は可哀想なくらい、ぐしゃぐしゃのずぶ濡れになっていた。


 犬のように体を振れば、二つに結わえた髪の束がしなって含んだ水を弾き出す。

蛟鬼

ふるふるるっ!

オヤブン

あーあ、そら言わんこっちゃねえ。

オヤブン

ほら蛟鬼、そのままにしていると風邪ひくぞ。

蛟鬼

うん……。

 水を吸った着物は重たくなり、襟元も帯も緩みかけていた。

 水しぶきに打たれたせいか、手足に巻いた包帯の布もほどけかけて、その下の肌が少し見えた。

オヤブン

……。

オヤブン

蛟鬼よぅ、ちょっとそこの森で着物乾かしてこい。なあに、今日のお天道様ならすぐに乾かしてくれるさ。

蛟鬼

……うん。そうする。

オヤブン

椀坊も遊んで疲れただろう。西瓜やるからお前も食っていけ。

椀坊

お、おおれは別に…蛟鬼!休んでる暇なんか……。

精霊馬’S

おや?お嬢のお着替えを除くつもりですか?

椀坊

そんなわけねえだろい!

椀坊

わかったよ、休憩でいいよ。おれにも西瓜は甘いところくれよ!

 結局、オヤブンたちの流れに乗せられてしまい、椀坊は仕方なく今日の修行は終わりにすることにしたのだった。

 オヤブンが言った通り、濡れた着物は木の枝にかけていたらすぐに乾いた。

 それから皆でスイカを食べてお腹いっぱいになると、オヤブンも精霊馬’Sも山の見回りがあるからと言って蛟鬼と別れた。

 椀坊は蛟鬼の修行についてきていただけなので、今日の修行の時間が終われば、一人で何処かに言ってしまった。椀坊は蛟鬼とは一緒に遊んでくれない。


 一人になった蛟鬼は下の村の近くまで、一人で下りて来ていた。

蛟鬼

ふんだ。椀坊なんか嫌い。一張羅の着物だから、汚したりしたら大変なのに。

 蛟鬼は水をぶっかけてきた椀坊に対してまだ機嫌を損ねていた。

蛟鬼

こんなに気分が悪いときは、やっぱり

蛟鬼

……小さい子を愛でるに限る。

 山を下りてきた理由はそれだった。
 というか、それ以外で蛟鬼が山を下りることはない。

 ついこの間も、童を攫ってきて師匠に叱られたばかりだというのに、すっかり忘れている蛟鬼は村へと足を急がせた。


 すると、その途中の事だった。

ねね

らんらら~

蛟鬼

これは、小さい女の子の声……しかも近い。

 蛟鬼の耳はそれを聞き逃さなかった。
 幼子が近くにいることを察知すると、蛟鬼は辺りを見回して、どこから聞こえてくるのかを探す。

 ほどなくして察しがついた。
 蛟鬼の足が止まる。

蛟鬼

こっちの方は……。

 人が滅多に踏み入らない山だから、夏のカクヨノ山は雑草も長く伸びて道らしい道が見当たらない。
 けれど、蛟鬼の視線の先には古い獣道が、山の奥へと続いて伸びていた。


 幼い声もその先から聞こえてきていた。

ねね

らんららんらら~ん♪

 思った通り、そこには人間の女の子が一人でいた。
 獣道の奥へと進んで辿り着いたそこは、いまはもう枯れて荒れ果てた沼の跡地だった。

 木が何本か倒れてできた空の穴から木漏れ日が落ちて、女の子がいる場所を照らしている。

 沼だった淵には大きな岩が一つ地面に埋めて立てられていて、その苔むした岩肌には、『蛇神沼』と彫られているのが見えた。

 女の子はその岩の前で歌いながら地面を上をごそごそと弄っているようだった。

蛟鬼

あの子……。何をしているんだろう。

 蛟鬼は沼から離れたところから、木の陰に隠れて女の子の様子を見ていた。

 いつもなら小さい子を見かけると、遠慮なく声をかけるのだけど、この時ばかりは近づけない。
 足は木の陰から出て行こうとはしなかった。

蛟鬼

でも……怖がってちゃダメ……。

蛟鬼

あの子が、危ないから。

 あの沼には誰も違づいてはいけない。

 だから本当は、あの獣道を通るのも最初は躊躇ったのだけど、沼に幼い子が迷い込んでいたのなら呼び戻さなければいけないと、そう思って蛟鬼はここまで来たのだった。

蛟鬼

……はっ。

 恐怖を振り払って一歩踏み出そうとした時だった。

ねねの母親

ねね!

ねね

あ、お母さん。

 蛟鬼が歩いてきた獣道を、他の誰かが駆けてくる気配がして隠れれば、村の女がやって来た。

 女の子の反応からして女は母親なのだろう。
 青い顔をした母親は我が子の姿を見つけると、やや安堵の表情を浮かべて女の子を抱き上げた。

ねねの母親

お前はまた勝手に山に入って。急にいなくなったら心配するでしょう!

ねね

ご、ごめんなさい……。

ねねの母親

また神隠しにでもあったのかと思ったじゃない……。

 村の中から姿が見えなくなった我が子をようやく見つけられたのに、母親はホッと胸をなでおろす。
 しかし、そんな心配もよそに、母親の腕の中で女の子は朗らかに言う。

ねね

カミカクシじゃないよっ。あの日、ねねはお姉ちゃんと遊んでいただけだもん。

ねね

またあのお姉ちゃんと遊びたかったから、ねねは遊びに来たんだよっ。

ねねの母親

またお前はそんな夢事を言って……。

ねねの母親

そのお姉ちゃんは村の子じゃないんだろう。カクヨノ山の恐ろしい妖怪かもしれないんだよ。

ねね

そんなことないよ!お姉ちゃんは、ねねのことかわいいって優しくしてくれたし、いっぱい遊んでくれたんだよ。

ねね

だからね、今度のお祭りにもお姉ちゃんに来て欲しくて、ねねは会いに来たんだけどお姉ちゃんいないから……。

ねね

それでね、お土産だけ置いておこうと思って、ほらっ。

 女の子は手に持ったものを母親に見せる。
 その小さな手には、野花を摘んで作ったのであろう花冠が握られていた。

 それを見た母親は呆気にとられた表情をする。

ねねの母親

……!

ねねの母親

……そうね。そういえばもうすぐお盆のお祭りだものね。

 それから、娘の手から花冠を取ると、それを沼の名前が彫られた岩の上に乗せた。
 優しい声で言う。

ねねの母親

でも今日は帰りましょう。お土産はここに置いておけば、お前が来たって、その子もきっとわかるわ。

ねね

ええー。でも、本当は会いに来たのに……。

ねねの母親

暗くなる前に家に帰るのは母さんとの約束よ。山に一人で入らないのもね。

ねねの母親

さあ、お盆の準備をするから手伝いなさい。お祖父ちゃんのお迎えの準備をしなきゃ。

ねね

はぁーい。

 まだ少し不満げに返事をして、女の子は母親に抱かれながら獣道を通って村へと戻って行った。

蛟鬼

……。

 女の子と女の姿が見えなくなったのを確かめて、木の陰から蛟鬼が姿を現す。

 沼の方に振り返って、女の子が残していった置き土産を見つめると、ぽつりと呟く。

蛟鬼

なんだか興が冷めちゃった……。

蛟鬼

……帰ろ。

 そして、何をするわけでもなく。
 沼に背を向けると、蛟鬼もまたカクヨノ山の西側へと帰って行ったのだった。

 
 
 
つづく

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