曖昧な意識の外で甘い香りを覚える。粟立つ肌にはただただ春のぬくもりが在った。
掻き揚げられる髪の感じと、頬をなぞる生暖かな吐息がこそばゆい。
曖昧な意識の外で甘い香りを覚える。粟立つ肌にはただただ春のぬくもりが在った。
掻き揚げられる髪の感じと、頬をなぞる生暖かな吐息がこそばゆい。
……兄(あに)ぃ、朝だよ。
湿気を含む風が窓から流れ込む。夜明けのぼやけた光をうっすらと感じていた。
腕を空へ、反り返るよう伸びをする。重い目蓋を右手で擦る。花のような香りを鼻に、もどかしい重みを腹に、ぼんやりと感じていた。
ふわり、と瞬きの先に花のような笑みが在る。
夢を見ているのだろうか。花、その少女が見せる胸の谷間が、白いシャツから覗いている。そこは上気し薄桃色が映えていた。
……。
浅い眠りのただ中、俺、夏木幸四郎(なつき こうしろう)の視界に過ぎったのは布団越しに圧迫する少女で、不確かな意識を目覚めさせんと、それをもみあげる。その少女は恥ずかしそうにはにかんだ。
ピントを戻す。其処には見知った美少女が俺を跨いでいる。
七ヶ(ななか)か?
眼前の少女がまつ毛を伏せて応える。
是も無い。非も無い。俺は邪気のない笑みに降参した。
17歳、思春期の少年たる俺には、この状況下、言いたいことが山ほど、というかそればかりなのだが、彼女の穢れ無いまなじりに無条件で降伏した。
ぽてん、とチカラを込めたばかりの首を枕の中央へ落とす。
もう少し、寝かせてくれ。
うん!
一青少年の願いに、神ではなく少女『七ヶ』が応える。脳の記憶には先ほどもみあげた肉の感触が強く残っていた。
……ずっと待ってるよ、兄ぃ。
まどろみを食むように、甘い香りを感じていた。髪に掛かる風が俺に起きる事を命じている。
深く息を吸い込む。
!
……。
気がつくまで、それは僅かな間(ま)だった。
この腰の上は未だ柔らかな感触に侵略を許していて、重なり合う肌の狭間。湿りを帯びた口元の感触に危うく意識を失いそうになる。前振りも何も無かった。
静まり返った室内へ時計が音を刻んでいる。
……兄ぃ、おはよ。
上気した顔が見つめていた。微笑むその顔が未だ認識出来ない。同じく未だ信じられない唇の感触が、胸に切ないような苦しいような言いようも得ない鼓動を与えている。
されてしまった、のか? 現実を求めた脳の活動、その答えが導き出すものに心臓が血液を送りだしている。
視線の先で七ヶが赤い頬で微笑み返す。火照る頬と共に意識が鮮明になっていく。
交わる視線が伝えようとする感情、七ヶの瞳は、その先を望んでいるようにも思えた……、
『HAHAHA何と馬鹿なことを!』
きゃっ!
押し飛ばす。冷めた。覚めましたわ俺様。ふざけるでないわ、金魚のうんちめ。
新たな爆音が窓をぶち抜く。心の高鳴りとかではなく、リアルなソレだ。
おじょ~~~さまぁ!!
我が魂に導かれるよう、ガラスの破片を纏いソイツが飛び出す。
窓をぶち抜き体中の血を撒き散らしやって来たのは眉目秀麗な青年、名を榊千春太郎(さかき ちはるたろう)と云う。
こ、幸四郎、き、貴様、お嬢へ何をハタライタ!
息も絶え絶え千春太郎が喚き散らす。
おはよう、ちーた♪
その前でワイシャツ1枚、七ヶが御足を露にする。
さらにそのワイシャツに押し倒されるは俺、この家屋の真(まこと)の住人たる夏木幸四郎(なつき こうしろう)だ。
数拍、時が流れる。
時が静かに刻まれていく中、俺、ワイシャツ1枚の七ヶ、黒い燕尾服の千春太郎、三者三様の面子の後方、『挑戦者在り!』と云わんばかりに姿を現す者があった。
いったい何処から湧いたのか。この部屋の出口である扉の前に線の細い和服少女が居る。本当に前振りも予兆も、脳に感じる電波すら無い。
……帰りましょう。……朝早くから近所迷惑。
朝の陽に紛れるような和装を以って静々と近寄り、しどけない少女に仕える燕尾服を、無言、左腕1本で引きずり出した……。
小柄な和装少女、九重院撫子(くじゅういん なでしこ)がスタスタと目を伏せたまま千春太郎を連れて行く。
撫子! 何故! 何故いつもこの犯罪者に加担するのだ! どうか、どうかオレを行かせてくれ! どうか、どうかあの悪鬼をぉぉぉ! や、ヤツを野放しにすれば、お嬢の、お嬢の純潔がぁぁぁ!
『……誰が、誰の純潔とやらを奪うのだ』
心のつっこみも奴の元へは届かざる事山の如く。
お嬢~! どうか逃げてくれぇぇぇ!
と断末魔の叫びを上げながら引きずられていった。
七ヶの執事たる彼(千春太郎)と、湧き出た和装少女(撫子)が去っていった後、そこには俺と俺の足に乗った七ヶだけが居る。
……。
……。
何となく見つめ合う。それは色気のあるものではなく、只々ぼんやりと。
そうしたら、本当に何故か笑いが込み上げてきて。堪えきれずに吹き出すと、釣られるように七ヶも声を転がす。
連鎖するように鼻の奥が暑くなる。一度押し黙った後、それは弾けた。
2人、息も絶え絶えに笑った。笑い倒した。お互いの張れた目を責め合い、笑いで漏れた涙を嗤う。
不意に気付いた朝の香りは七ヶから流れる柑橘系の香りだった。
おはよう、今日もいい天気だな。
おはよう御座います! 今日もいいお天気だね、兄ぃ!
肌を離し窓の先にある豪邸を見る。其処から掛けられた橋は、いったい誰が掛けたのか? あまり考えない方が良いのかもしれん。
ただただ、俺の妹分、金魚のうんちである『草乃葉七ヶ(くさのは ななか)』が笑顔であった事を俺は此処に記す。