ひどい匂いがする。
灰色の蒸気が空にもんもんと立ち上っている。生まれたばかりの赤ん坊だって「あれが雲だよ」なんて言われたら嘘だと思うだろう。俺は壁にもたれて、背中をなすりつけるみたいにして座った。隣には蛇がいて、じっとこっちを見つめていた。

驚かないのか?

なんて言っているように見えた。蛇はその場で舌を何度か出して、やがてそっぽを向いた。
でも確かに、もしお前が喋ってたら面白かったかもな――と、自分の子供じみた空想と会話をした。いつもやっていることだったし、楽しくはなかった。ただ、この蛇はどこにも行く様子がなかったから、少し愛嬌を感じた。

目線をずらすと、木製のバットがあった。劣化が進んでいてぼろぼろだ。あの空に浮かんでいる蒸気はもしかしてここの空気にまで溶け込んでいるのだろうか、のそりと立ち上がってバットの置いてある場所へと足を運ぶ俺はまるで、幻覚剤をたっぷり吸い込んだ薬物中毒者みたいだった。

そうだ、たとえば俺が追われる身だったらどうだろう?

俺は急にそんな事を思いついて、想像した。こんな場所に逃げ込んでしまったのだから、と辺りを見渡す。俺は武器になりそうなものを手にとった。やはり、このバットだ。

追手は二人。まずは一人だ。これを思い切り振り下ろし、一撃をお見舞いする。相手は倒れた仲間を見てうろたえる。その仲間の頭を砕いたバットはすでに折れて木片になっている。木片は先が尖っていて、相手は俺の持つ武器が棍棒からナイフに変わったと錯覚するんだ。俺は何のためらいもなく残った一人にそれを突き立てる。そしてこの壁を蹴ってジグザグに跳んで、忍者みたいにここを立ち去る……。その辺りで、丁度キリのいいところで俺は一旦頭の中の映像を切って、お前はどう思うと蛇に目をやった。

漫画の読みすぎだ。

蛇は向こうを向いたままそう返事をした。冷たいな。俺は何度か素振りをした後、自分の細い腕を見て、バットを元の場所に返した。

じゃあ、もっと別の、そうだな、たとえば……あの窓。

あの窓から人が落ちそうになってるんだ。俺はどうにかしてそれを助けなきゃならない。そうなったら……。

辺りを見渡す。時間がない。あのドラム缶?いや、そこの瓦礫を積み立てて、なんてあれこれ考えているうちに、そいつは落ちてしまった。俺の横に恨めしそうな顔があった。

なんで、こいつはあんな場所から落ちたんだ?

なんて言葉を喋らせた。蛇は文句を言いたげにこっちを向くと、うねりながら瓦礫の隙間に入っていった。変な動きだな、なんて思いながら、何とはなしにそれを目で追っていたら、別の隙間にピッタリとはまったテニスボールを見つけた。蛇が出てくる様子はない。俺は迷わずそれを指で掴んで引っ張った。

瓦礫が大きな音を立てて崩れた。

少しだけ驚いて、そして手の中にあるテニスボールを見た。さっきのバットとは違って綺麗な状態だった。ところどころに汚れはあるが、それでもまだ、この場所にあるどんなものよりも使える状態に見える。最近までここに人がいたんだろうか、そいつも一人だったんだろうか、なんて考えながら壁に向かって投げてみる。ボールが柔らかく跳ね返って手の中に戻る。俺はなんだか嬉しくなった。また投げる。戻ってくる。投げる、戻って――おっと。

ボールは今までと違ってはっきりしない音を出して、ろくに跳ね返らずに静かに転がった。ううん、失敗だ。自分がこんな遊びを楽しめるなんて知りたくはなかったが、どうしても今手放すのは惜しいと思ってしぶしぶ歩き、前かがみになって手を伸ばす。

ちらりと蝿が目に止まる。

ボールを拾った俺は、ああ――と残念に思った。さっきの暴投のせいで汚れてしまっていたからだ。濡れているし、べとべとしている。ため息をついて、仕方なくそれを投げ捨てた。そうしたら、これ以上うまくは投げられないというくらい綺麗に飛んだ。向こうで「てん、てん」と跳ねている。なんだ、あんなに汚れていたわりには結構元気そうじゃないか。俺は家族の独り立ちを見届けたような誇らしい気持ちになった、ふりをした。

いつまでここにいるんだ?

死んだ蛇が俺に話しかける。それをきっかけに、俺はまた空想の世界に逃げ込んだ。

そうだ、さっきのボールが地球だったら?

――それは考えたくない。
ただ、考えたくはないが、そうだったら良かったのにと思った。そうしたらきっと、今すぐにここを出て、火のあるところにでも移動して、あのボールを燃やしてしまうだろう。世界が消えるのなら、皆が死んでしまうのなら、俺にとってはそれが一番だった。だって自分と一緒に、自分の死を悲しむ人間も笑う人間もいなくなるんだから。俺はふと、ボールを汚した死体を見た。

少なくともこれで笑う人間のほうは消えた。ただ、悲しむ人間がいるのが辛かった。サイレンの音がする。ああ、誰か関係のない人がボールに驚いたのかなと推理をしてみた。昔から周りはあまり見えないタイプだったから、そのことに関しては落ち着いていた。

黙って死んでやるものかとずっと思っていた。焦ったような足音がする。先に死んだ父親は、どんな形でも自分を通せと言っていた。音がどんどん近づいてくる。この死体は生前お喋りだった。視界に影がかかる。俺はといえば、生きていたって仕方がなかった。「動くな」と怒鳴り声がする。

やっぱり空想の世界とは違うんだろうなと思った。
警官は二人組だった。
俺は木製のバットを手にとった。

たとえばあれがそうだったら

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