緒多 悠十

(ああ……なんでオレがこんな目に遭うんだ……)

ここは学園の第三個別講習室。


いつも使っている教室のようにだだっ広いドームの中に浮遊ポッドがいくつも浮いているようなものではなく、いわゆる一般的な教室である。


窓からは春の終わりを惜しむようなオレンジ色の夕陽の光が差し込んでおり、空調完備のこの教室で、適温ではあるものの、気分的な問題でオレはブレザーを椅子の背もたれにかけている。


教室の電子黒板の前では厳格ロリ教師こと篠原先生がこの教室にいるオレを含めた二人の生徒が練習問題を解いているのをじっと監視していた。

篠原 紀伊

おい、緒多。手が止まっているぞ。

篠原先生の喝が入る。

緒多 悠十

はい……

オレはそう返事して練習問題に取り組み始めた。



といってもさっぱり分からないのであるが。

この教室は個別講習室などと呼ばれてはいるが、その実は補習用としての教室であった。


つまりこの教室で行われているのは、先日行われた実力テストの赤点得点者が受ける補習なのである。



ちなみにクラス平均は100点満点中63.2点。

そしてオレの得点は13点。




――もちろん言うまでもなくクラス最低得点だった。

そしてオレの隣で同じく補習を受けているのは、オレンジ色のパーカーを男子用の制服の下に着た少女。



蘇芳怜――いや、現在は苗字が変わって柑野(カンノ)怜と名乗っている少女であった。



入学してからは臙脂色のパーカーを着ていたのだが、あの事件の後、パーカーを新調したらしい。


そして同時に、ある実験に苛まれ続け、さらに別居しているにも関わらずうやむやになっていた彼女の両親の関係は事件を期にして決着したらしく、彼女の母親の旧姓である柑野に姓が変わったということである。



ちなみに言うと、というか、彼女の名誉のために言うと、彼女はオレのように例の実力テストで赤点を取ったわけではない。



彼女は控えめに言っても十分優秀である。



学年長である香子や、特殊な体質である緋瀬がいなければクラストップを目指せるくらいの位置にいる。



であれば、なぜ彼女はクラス最低点であるオレなんかと補習を受けているのか。



理由は単純で、彼女は御縞学院が密かに行っていた《分離実験(ディバインディング・プラン)》の副作用として起こった一時的な多重人格からのリハビリでテストそのものを受けることができなかったのである。

あの時、オレが彼女の心の中に《世界樹(ユグドラシル)の鍵》を使って入り込み、後から考えてみればおこがましい説教を垂れて、何とか彼女のオリジナルの人格を維持し、解離しかけたもう一つの人格の完全なビルドは防いだものの、やはり一度解離しかけた事実は変わらない。



人格の損傷のために一時的に思考が止まったりなどの症状がでていたため、学園が運営するリハビリセンターでしばらく入院していた、という訳である。


そして実力テストを受けられなかった代わりとして補習を受けることになったのだ。

本来なら補習はグループの連帯責任で行われるはずだったのだが、香子は学年長として御縞学院の事件の事後処理に奔走しており、一方の緋瀬は学園からの要請である検査を受けなくてはならないとかで、今の補習には来ていない。

加えてオレがダントツの最低点を取ったおかげで、赤点ラインが大幅に下がったため、純粋な意味での補習受講者はオレだけという異常事態になっている。



そのためにクラスの40点代得点者、約30人に全力で感謝の言葉を駆けられるという奇妙な現象まで引き起こしてしまっている。

弁解、あるいは言い訳をさせてもらえるならば、端的に言って、この現象の責任の所在としてオレが認めるのは二割ぐらいである。


残り八割ぐらいの責任はオレでないところにあると主張したい。その残り八割の責任は――。



クロノス

全く、勉学はからっきしだなぁ、ユウは。


すべての元凶たる少女が頭の中でオレをせせら笑う。


そう、大半の責任はこの少女、時間に関わる全てを司る核、そのイメージとしての存在であるクロノス、愛称クロにあるのである。

緒多 悠十

うっせぇぞ、ほぼほぼお前のせいじゃないか。

オレは目の前のさっぱり訳の分からない練習問題の問題文とにらめっこしながら心の中で反論する。



クロノス

何を言う。
ワタシはあれほど記憶が飛んでもいいのかと忠告していただろう。
なのに、ユウは無力なままだとか、誰も守れないだとか、さんざん臭いセリフを吐いて力を使い続けたのだろう?

緒多 悠十

てめぇ、人が真面目に言ったこと馬鹿にするんじゃねぇよ!
つか、だからってわざわざ勉強会の時の記憶を集中狙いで消すことないだろ?
それになんで思い出としての記憶だけじゃなくて知識としての記憶まで消えてるんだよ!

クロノス

ふん。
そんなユウの都合のいいように進むわけがないだろう。
それに勉強してそれが知識になるまでにはその情報を何度も往復しなければならない。一日ちょっと集中して勉強しただけの付け焼き刃の知識なんぞ、知識とは言えるはずもない。

緒多 悠十

くっそ……こんな憎まれ口叩かれるくらいならわざわざ暴走の危険まで冒して取り込みなおすなんてしなきゃよかったぜ……。

クロノス

またまたそんなこと言って。
どうせ根暗のユウのことだ。
半身をもがれたような気分だったとか、そんなポエミーなことを考えたに違いない。

緒多 悠十

はぁ? 全く考えてねぇよこの馬鹿!

金属製のたらいが落下してきてオレの頭蓋を強く打ちつけた。

篠原 紀伊

何を一人で叫んでいる。
いいから早く考えろ、緒多。

ただでさえツリ気味の目をさらに30度ほど釣り上げた篠原先生が言った。

緒多 悠十

はい……すいませんでした……。

オレは頭を抱えてそう答えるしかないのだった。

* * * * *

篠原 紀伊

よし。では今日の補習はこれで終わる。
もう下校時間に近いからな。
早めに校舎から出るように。

篠原先生がオレたち二人に言い、教室を出ていく。



もう窓から差し込む夕陽の光は消えている。


オレは使いすぎてギリギリする頭に顔をしかめながら黒革の手提げカバンに参考書を入れて立ち上がる。


篠原先生はもうすでに教室から出ていってしまったので、教室には二人きりだった。

緒多 悠十

疲れたなぁ。
早く帰ろうぜ、す……

蘇芳、と言いかけてオレは言葉を飲み込む。

柑野 怜

……構わない……今まで通り蘇芳でいい……。

あまり人と話したがらない彼女の性格はそのままらしく、静かに彼女は言った。

緒多 悠十

いや、でも――

オレはなんとなく申し訳ない気持ちになり、そのあと何を言うかも考えていないのに言葉が口をついた。


すると彼女は何も言わずにドアのの方へ歩いてく。


そのまま出ていくのかと思ったその時、突然に足を止めてこちらを振り返る。

柑野 怜

……レイ

その二文字が何を表しているのか分からなかったオレは反応できないでいた。

柑野 怜

……もし蘇芳と呼ぶのに抵抗があるなら……下の名前で呼べばいい……。

緒多 悠十

ああ、そういうことか。
いやでも――

柑野 怜

……じゃあ僕は帰るから。

下の名前じゃなくても柑野と名字を変えて呼べばいいのでは、オレの言葉を途中で遮りそう言った少女は足早に出ていってしまった。


ぴしゃりと閉められたドアをオレは呆然と眺める。

緒多 悠十

お、おい! ちょっと待てよ!

オレは少女を追ってドアを飛び出す。


廊下に出るとオレンジ色のフードをかぶってすたすたと歩いていくのが見えた。


オレは駆け足で追いついて横並びに歩き出す。

緒多 悠十

柑野って帰るときバスだっけ?
もしバスなら途中まで一緒に――

柑野 怜

…………

緒多 悠十

柑野?

柑野 怜

……怜。

緒多 悠十

え?
別に柑野でも間違ってるわけでは……。

柑野 怜

…………下の名前で呼ぶのは親しい関係だと……柊先生が言っていた……。

オレは一瞬目をぱちくりさせて言葉を失った。

緒多 悠十

友達に――なってくれるのか?

柑野 怜

……………………うん

その一言にオレは心がいっぱいになった。




あの心を閉ざしていた彼女がオレを親しい関係と認めてくれたのである。





確かに、オレは彼女をあの実験から助けたかもしれない。


だけれど、救われていたのは彼女だけでなく、オレも救われていたのだ。




それだけで、あの時、緋瀬の言葉に従ってよかったのだと思える。

緒多 悠十

そっか。
じゃあオレも悠十でいいよ。
よろしくな、怜。

柑野 怜

……よろしく。
………………悠十。

そろそろと怜から手を差し出した。



オレはその女の子特有の柔らかく白い手を握り返す。



未だに彼女の表情は乏しかったが、その時ははっきりと彼女が笑ってくれたことに気づいた。












そして、オレにまた一人、大切な友達が増えた。

* * * * *

……という訳で、今日の検査では特に何も見つかりませんでした。
また改めて検査要請が出ると思いますが、その時はまたよろしくお願いします。

学園が所有する園立美山病院のカウンターでナースの女性がそう言ったのに対し、緋瀬未来はちょこんとお辞儀をして病院の自動ドアを出る。



未来は足元を見ながら、とぼとぼとすっかり日の暮れた道を歩き出す。








今日の検査はあの御縞学院の事件で彼女の体から現れた謎の赤い光の正体を調べるものらしい。





未来自身にもそれがなんであるかは分からない。ただあの《道化師(クラウン)》と呼ばれる人物から水色の光が発せられた途端、突然に現れたのだ。




そこには何の痛みもなく、ただ光が溢れた。



そして一つ分かったのはその赤い光が水色の光を打ち消すのだということだった。



だから悠十から水色の光が出現した時に自分から悠十に抱き着いたのだ。






緋瀬 未来

!!

とその時、自分が非常に大胆な行動に出てしまっていたことに気づき、ボッと顔を赤くした未来は顔をふるふると振った。



明日の放課後は悠十と一緒に補習を受けられる。



補習自体は好きではないが、いつもよりも悠十と一緒にいる時間が伸びるだけで未来にとっては十分喜ばしいことだった。














そんなことを考え、思わず緩んだ口元を何とか引き締めて家路を急ごうと足を速めた時、背後で声がした。

蓼科 新介

こんばんは。
――お嬢さん。

絶対論理―Absolute Logos―(1)

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