稲生

ここが水底かもな

小柄な男、稲生(いなせ)は、

腕を組んで小さく呟いた。

……これですから、哲学の方は……

その背後に、

音も立てずに少女が一人、現れる。



整った顔をわずかに曇らせ、

声以外には気配も立てない。

稲生

何か?

……いえ。
稲生様、お代わりをご所望の際は、お申し付けくださいませ

少女は告げ終わるとともに、

スッと一歩

飛び退くように距離を置く。



それでも、手にしていた盆の上のティーポットから

紅茶が零れることはなかった。

稲生

? ああ

この紅茶はとても美味しいよ

……

第一声を奪われたことを憂いてくれるのかい? 咲楽

柔らかい口調だが、

挑発するような声が正面から聞こえた。




そこで初めて、

稲生は自分の向かいに

男性が腰かけていることに気づく。

稲生

主人

咲楽 と呼ばれた少女は、

やや淡い青の瞳を一瞬見開き、動きを止める。

御冗談はお止めくださいませ

ふふふ

男性が苦笑しながら差し伸べたカップに、

一瞬で紅茶が満たされた。

稲生

それで、どういうことなのかな?

私を「お茶会に招待する」、というのは

ご覧の通りですよ

男性は両手を大きく広げた。

申し遅れました。
私は卯木(うつぎ)と申します。

私どもは、お茶会にお客様をお招きすることを至高の喜びとしております。

今日は、お客人にコンパニオンになっていただきたかったのです

稲生

コンパニオン……話し相手、ということか。

しかし、私はそこまで話術に長けた人間というわけではない。

それに、いくらお茶会が好きだといっても……

稲生

犯罪者をかくまう手配をするのに見合うだけのものなのか?

……そうお思いになるのは、弱い人間のことを考えておられるからです

稲生

何?

お客人は教団『リェビチヘッド』の教祖だと伺いました。
ご自身以外は非力な人間だとお思いなのでしょう?

卯木は笑顔でカップを揺らした。

そうでない人間もいる。
それだけのことですよ

稲生

……なるほど、大した自信のようだ

稲生はカップを手放し腕を組んだ。

それはお客人も同じでしょう。

あのバスジャックテロの計画をなさったお方です。

しかも義賊、それが正しいこととお思いになっていらしたのですから

稲生

失敗に終わった計画のことなど、口にするな。あのせいで多くの同胞が失われた

稲生は沈んだ声で言うと、目を伏せた。

実行犯……おっと失礼。
あの方は、たしかこの前死刑が実行されましたね

稲生

ああ。私は計画を実行した信徒すら、処刑台と忌まわしい火から救ってやることができなかった

なぜあの事件を計画なさったのですか?

稲生

なぜ、か。
神の御言葉を聞いていない者に説明するには、茶会程度の時間では難しいかもしれないな。

私は、皆を救いたかった

救うためになさったことだと?

稲生

それ以外に何がある? 


本当は、世界中の全ての人間に神を理解しそのお考えに従って欲しかった。
だが、時間が足りない。多少説明不足でも急ぐ必要があった。
誰しもが邪神の言葉に惑わされている今では、特にな

他の宗教は邪神でしたか。
確かに、そうなるのでしょうね

稲生

あのバスには信徒が三人乗っていた。他の乗客全員に、信徒が神の教えを説いたはずだ。

きっと乗客は理解してくれる。
そう思っていた。

そして、神を裏切るあの妨害が入らなければ、そのまま海へ向かうはずだった

自爆テロ……いえ、爆弾ではありませんね

咲楽、それは新手のジョークかい?

主人、紅茶が冷める前にお飲みください

咲楽は卯木の言葉を聞き流すと、

稲生のカップに残った紅茶をちらりと確認した。

しかし、乗客の理解は得られず、警察によって鎮圧されてしまった

稲生

ああ

稲生

私の采配が間違っていた。

神の御言葉を聞くことができるのは私だけだ。
常人には理解するのに時間が掛かって当然だったのに、それを考えていなかった。

私はやり直すことにした

やり直す……のですか


咲楽が稲生の言葉を捉えながら、また離れていく。




稲生がカップに手を伸ばすと、

いつの間にか、

冷めた紅茶が注ぎ直されていた。



稲生

神が導いてくださるのだ。やり直せないわけがない。

現に、警察の手を逃れ、君たちのような酔狂な者にまで助けられた

酔狂……そうかもしれませんね

……それから

稲生

私と信徒の努力を、テロと呼ぶのはやめてくれないか。彼らの救われない魂への冒涜だ

……これは、失礼いたしました

……哲学を語る方の仰ることは、どれも無駄に自分への揺らぎのない自信ばかりでできていて、わたくしは嫌いです

もちろんそうだろうよ

……?

リェビチヘッドはやや変わった宗派でね。

信徒が救われるためには、その身は海に還らなければならないんだ

それは海葬……灰を海に撒く、ということでございますか?

それは灰になった時点で『火葬』だろう?

信徒が葬られるのは、焼かれる前でなくてはならない。
海に身投げも許されるけどね。
ふふふ

卯木は給仕を求めるように手首を返し、

咲楽はカップを一瞬で満たした。

一昔前なら魔女は火に焼かれていた。今だって日本では火葬が主流だ。

このご時世に、随分な自信だとは思わないかい?

信徒全員にその方法を強要できるとお考えなんだ、あのお客人は

……分かりません

お客人は我々に、このお茶会の見返りとしてある場所へお連れすることをご所望だった。咲楽、どこへお客人が行かれるおつもりか分かるかい?

太平洋の奥底に入水でもなさるのでしょうか

自信に満たされた者は逃げたりしないものさ

東京西部の山中に隠れるところがあるそうだ。
新興宗教というものは案外教祖が残っていれば何とかなるものだからね

……わたくしには、分かりません

卯木は楽しそうに笑みを浮かべた。

『リェビチ』というのは、『白鳥』を意味するлебедьのことらしい

ロシア語ですか。……主人

何だい? 咲楽

稲生様は意外とロマンチストでいらっしゃるのかもしれませんね

僕もそう思うよ

時折狂った思考の海に呑まれた者の話を聞けるから……
だから止められないのさ、このティーパーティーは

思想犯は深海に沈むか?

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