それは、遠い遠い昔に聴いた音だった。
誰に教わったものでもなく。
遺伝子の中に組み込まれた、懐かしい音楽。
それを僕たちは、『子守唄』と呼んでいた。
それは、遠い遠い昔に聴いた音だった。
誰に教わったものでもなく。
遺伝子の中に組み込まれた、懐かしい音楽。
それを僕たちは、『子守唄』と呼んでいた。
あれ、?
水を汲みに井戸へ向かう途中、か細い歌声を耳にした。それは夢の中でいつも聴こえる音と同じ音色で、気になって、歩みを止めてしまった。それどころか、どこから聞こえてくるのかと、きょろきょろとあたりを見渡してしまうほどだった。
どこ、だろう
この場所は、それほど広くはない。くまなく探し回ればきっとすぐ見つかるはず、と思っていたのだけれど、一向に歌声の主は見つからない。
だれが、子守唄を……
ぽつり、と呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
此処には、太陽と呼ばれる明るい光と、どんな食物も育ててくれる肥沃な地面と、心地のよい風に満たされていた。本当の外は、こんなものではないのだよ、と寝物語に聞かされたのは幼い頃のことだ。
大昔、人々は広い大地で生活していた。協力し、愛し合っていたはずの彼らが、いつしか憎しみを覚え、大地を壊すほどに至った。和を望んでいた人々は集まり、彼らだけの空間を作り上げた。
いつか、壊され、汚されてしまった大地へ、再び戻ることができる日を願って。そして、歌を紡いだ。はるか時を経て、その歌が鍵となるように、ずっとずっと、歌い継がれてきたのだ。
それが、私たちが「子守唄」と呼んでいる歌ですと呼んでいる歌です、と大人は言う。
翌日は、礼拝日だった。礼拝日は7日に一度行われる、過去を語り、歌を歌う日だ。
病みつかれた大地は
眠りにつく
はるか時の彼方を夢見る
空が風を取り戻し
大いなる水が生命を生み出す、
その日を夢見る
あ、またあの声
礼拝場から離れたところから、また歌声が聞こえてきた。今度はこの間のようにか細い声ではない。透き通るような、綺麗な声だ。もしかしたらこの声が、以前に書物で目にした、鳥の声、というものなのかもしれないと思えるほど、とても美しい声だった。
……、だれ
歌声が止み、少女の声が、した。歌声のように、綺麗な声。一度耳にしたら、忘れられない、ずっと聞いていたいと思わせるような、声。
ご、ごめん。邪魔するつもりはなかったんだ
あ、あなた、……書物の山の人
少女の言葉に、驚いてしまう。この場所は、それほど広くはないけれど、個を認識できるほど狭くもない。確かに住居にしている場所には、足の踏み場もないくらいの書物が積み上げられている。それらは、過去の遺産なのだ。
君は?
私は、そのふたつ隣の、幻の鳥の住居にいるわ
あぁ、だから君の声は、そんなにもきれいなんだね
幻の鳥の住居のことは、皆の間で憧れと共に囁かれる場所だ。その住居の者は皆、子守唄がとても上手なのだ。
もう少し歌ってくれるかい
あなたは、何をしてくれるのかしら
じっとこちらを見つめる瞳に、心が痛くなる。ずきずきと、しくしくと痛む。少女の望みならば、なんでも叶えてあげたいと、思ってしまう。
僕は、文字を教えてあげられるよ
その言葉に少女は瞳を輝かせ、それからぼくたちはひっそりとふたりきりの時間を持つようになった。
※ ※ ※
少女と一緒に過ごすようになってどれくらいの時が過ぎたかわからない。少女は子守唄を歌い、僕は文字を教える。そうして学んだ知識を披露し、ふたりで同じ書物を読み耽る。
あぁ、まただ
また、心臓が痛い。切なくて、涙が出そうになる。ここのところ、少女と一緒にいるだけで、身体が不調を訴えるようになった気がする。それでいて、何かの病というわけではない。逢っている間は楽しくて、忘れてしまう。少女と逢えない間のほうが、苦しみが増す気がする。
これは、なんだろう
もっと歌声を聴きたい。もっと、話していたい。その瞳を、動く唇を眺めていたい。たまに触れる肌の温かさを、柔らかさを、もっと確かめたい。
この気持ちを、何と言えばいいんだろう
どれだけたくさんの書物を読んでも、どれだけ多くの人と語り合っても、答えの出ない気持ち。
どうしたの?
少女は、ほんの少し大人になり、もうすぐ幻の鳥の住居を出るのだと、教えてくれた。思うように歌うことができなくなったので、出ることにしたのだと。
おかしいのよね。あなたを逢ってから、子守唄をうまく歌えなくなってしまったの
胸が苦しくて、切なくて、痛くて、うまく歌えないのだと、少女は教えてくれた。
ねぇ、この気持ち、あなたにはわかるかしら
じっとこちらを見つめる瞳に、もっと触れたい、という衝動が生まれた。強く抱きしめて、もっと近くで声を聴きたい、と。
僕も、同じ気持ちなんだ
君と一緒にいると、君と一緒にいなくても、思い出すだけで、心が痛くなる、切なくなる。これまでたくさんの書物を読んできたけれど、そのどれにも答えは書いてなかったんだ。
そう伝えると、少女は少し驚いたように、軽く目を見開き、こう言った。
そう、あなたも同じなのね
それじゃあ、一緒に答えを探しましょう、と少女は微笑んだ。その微笑みはとても美しく、透き通っていて、まるで彼女自身の声のようだと、ふと思った。
それからふたりは、共に暮らすようになった。知識を蓄え、歌声の響くそこを、周りの人々は、「幸福の住居」と呼んだ。人々は幸福という言葉を知っていても、どういうものかは知らなかった。けれど、楽しそうな少年と少女を見ることで、あたたかい気持ちを得ることができたから、言い伝えられていた幸福というものは、こういうものなのだろうと思ったのだ。
そしてそれは、誤りではないと皆が知るのは、此処で初めての、家族という存在ができてからのことだった。
【了】