私は天界で天使達を統べる仕事をしていた。
 天使長という役職は、かつては私の物だったのだが、今は弟に譲り渡し、現在は地獄の管理をしている。
 何故私が地獄の管理をすることになったのか。その理由のひとつとして、当時地獄には適切に管理をし、神に定期報告を出来る者が居なかったというのがある。私の姿形はまるで悪魔のようだと、人間達からは言われていた。だから、私が地獄に降りたとしても誰も不思議には思わないだろう。
 けれども、私が地獄に降りた、正確には、天界に居る事が出来なくなった一番の理由は、人間に恋をしたからだった。

 私がその人間と初めて会ってからどれくらいが経っただろう。あの時まだ娘だった彼女も、老いて土へと還った。
 きっと、もう数百年は経っているのだろう。
 ある時の事、私は父なる神の管轄から外れた、東の土地へと訪れた。訪れた理由は特にない。もしかしたら、疲れていて気分を変えたかっただけなのかも知れない。
 その土地で、私はその人間に出会った。若い男で、池に映る月を、ぼんやりと眺めていた。

……羽民人?


 彼は私が背負っている翼を見てそう言った。この土地には、天使や悪魔と言った概念が無いのかも知れない。
 不思議そうに私を見る彼にこう言った。

お前と話がしたい

構いませんよ。
よろしければ隣に来てはいかがですか?
一緒に、月を眺めましょう


 私は彼の隣に降り立ち、暫し話をした。
 穏やかに言葉を紡ぐ彼の声を聞いて、私はすぐにわかった。彼は私が探している、かつて恋をしたあの人間なのだと。

 その出会いから数十年が経った。それはあまりにも幸福な時間だったけれども、ひどく短く感じた。
 彼が生きているうち、最後に会った時、彼はこう言った。
『あなたは、もうここに来てはいけません』
 愛想を尽かしたのかとも思ったけれど、それは私を気遣ってのことだった。
 それから私は、彼が息を引き取るその瞬間まで、彼の元を訪れなかった。

 ある時の事、私は神の言いつけで太陽が熱く照りつける、乾燥した国に行った。そこの人々は父なる神以外の、数多くの神を信仰していた。
 仕事の合間、ここの人間はどんな生活をしているのかと街を見て回った。そこで、ひとりの人間とぶつかった。

あ、すいません、大丈夫ですか?

あ、ああ。大丈夫……


 突然の事で驚いてしまい、背中から翼が覗く。それを見た人間は、驚いた顔をして言った。

あっ、もしかしてあなたは神様の使いですか?
それとも、もしかして神様自身……でしょうか


 余程信心深いのだろう。跪いてそう言う彼に、私は答える。

私は神を名乗ったり等と言う傲慢なことはしない。
だが、かつては神の使いであった

そうなのですね!それでは、神殿に案内いたします。
神様の使いをもてなさないわけにはいきませんから


 彼はそう言って私の手を引く。その手の感触は大きくて固い。それなのにも関わらず、かつて私の手を引いて助けてくれた、あの娘のことが思い起こされた。

 結局、あの後私は神殿に行くこと無くその場を離れた。もし神殿を訪れて、彼らが祀っている神の気に障ってしまったら人間達に災いがあるかも知れないと思ったのだ。
 あの時私の手を引いた彼は、どうなったのだろう。神殿に勤める兵士だと言っていたけれど、戦争で命を落としては居ないか、命を全うすることが出来たのか、それはほんとうに長いこと、気に掛かっていた。

 あれから数百年経った時の事、神のお膝元である国の、とある街を訪れていた。この国で私の正体が知られたら、きっと私は人間達からひどい目に遭わされるのだろう。
 けれども、私はここに居る理由があった。

こんにちは。お久しぶりです


 そうおっとりと微笑む彼は、車椅子に乗り、膝には本を乗せている。
 彼はかつて、腕利きの仕立て屋だった。しかし、ある時を堺に脚が利かなくなってからは、刺繍を仕事にして生計を立てている。
 以前は無理ばかりしていた仕事も、最近は少しゆとりを持つようにしているようで、安息日の昼過ぎには公園で本を読んでいる事がある。

今日も、図書館に行くのかな?

そうですね、どうしようか悩んでいたのですけど

折角なら、私が図書館まで押して行こう

いいんですか?それじゃあ、お願いします

 彼とたわいも無い話をしながら、街の教会に併設されている図書館へと向かう。時折、道の小さな段差で車椅子の車輪が揺れると、彼が手首に付けている二本のブレスレットが音を立てる。
 そうして、図書館に着いた。私があまり教会の近くに居るのは良くないだろうと、私は彼をその場において立ち去った。

 それから幾年月。いつしか私は彼の前に姿を現さなくなった。
 理由は単純だ。普通の人間として年老いていく彼の側に、いつまでも老いることがない私が居ると、彼が魔女として告発されかねないからだ。
 けれどももし、私がずっと彼の側に居たのなら、人間達に身を売る代償に、彼の生活を良い物にする事は出来たのだろうか。

 車椅子に乗った彼に会わなくなってから、一世代分ほどだった頃だろうか。私は東の島国の、港町に居た。その町には有名な服屋があり、この国で一般的に着られている平面的な服だけでなく、洋服と呼ばれる西洋の衣服も扱っていた。
 その店に、足を踏み入れる。

いらっしゃいませ。本日はどの様な物をお探しでしょうか

……通りかかったので、少し覗いてみようかと

そうなのですね。もしなにか気になる物がございましたら、お気軽にお訊ね下さい

 そう言って、店の隅に控えるその女性店員に、私は見覚えが有った。
 きっと彼女は、私と会うのは初めてだと思っているだろう。実際、彼女に会うのはこれが初めてだ。ならば何故見覚えが有るのかというと、彼女が纏う雰囲気は、かつて私の手を引いた娘と同じ物だったからだ。
 あの時と比べて、随分とうつくしくなった。それでもそれを鼻にかけること無く、優しげな声は何一つ変わらなかった。
 ふと、店の奥から声が掛かった。男の声だ。

あ、申し訳ありません。旦那様から声が掛かったので、少々外させていただきますね

旦那様というのは、この店の主人という意味ですか?

えっと、それもそうなのですけれど、私の夫でもあります

そうなのですね

 彼女の言葉に、ちくりと胸が痛む。
 ああ、彼女はまた、他のひとのものなのだ。

 また何十年と時間が経った。この何十年は私達にとっては僅かな時間だけれども、ひどく長く感じた。
 またあの娘の魂を探して地上を歩く。
 極東の島国に居るのは、もうどれくらいになるだろうか。いくつもの戦争を越え、人間達は文明や技術を発達させてきた。初めてあの娘に会った時の面影が、この国には無いように感じた。
 沢山の人間が行き交う街中で、まるで少女のような面持ちの少年に出会った。

すいません、ちょっと伺いたいんですけど

なんでしょう

美術館で待ち合わせをしているんですけど、美術館がどこなのかわからないんです。
それで、もし知っているようでしたら教えていただけるとありがたいのですが

美術館ですか?このあたりにはいくつもありますが

えっと、地獄の門がある所です

ああ、そこのことはよく知っていますよ。
そこまで案内しましょう

ほんとですか?ありがとうございます

 私を警戒することもなくあとを付いて来る少年に、こう訊ねた。

なんで私に道を聞こうと思ったのですか?


 すると、彼は少し驚いた顔をして、少し考え込んでから答えた。

なんとなく、あなたなら大丈夫かなって

見ず知らずの人を軽率に信用するのは危険ですよ?

そうなんですけど、なんか懐かしい感じがしたから


 その言葉に、私は驚いた。私は彼を一目見て、あの時の娘の生まれ変わりだとわかった。けれども、彼が私のことを覚えているとは思っていなかったのだ。

なんか、変なこと言っちゃってすいません

いえ、構いませんよ。
そう言う事も偶にはあるでしょう

 彼が待ち合わせをしているというのは、一体どう言った相手なのだろう。友人か、恋人か、それはわからない。わからないけれども、どんな相手であるにせよ、私の想いを彼に告げることは赦されないと思った。
 ここで彼と出会って、今回は何度会うことが、話すことが出来るだろうか。

 生まれては還って行く魂を、追い続けるのは辛い事もある。けれども私は、何千年先も追い続けるのだろう。

お城の住人とけもの

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