頭の中がフリーズした。

姉の――母の体が力なく跳ねる。

ゆっくりと倒れ、妹の遺体の側に横たわる。

母の顔は、それでも笑顔だった。

悲鳴が口から溢れ出す。

感じたことのない激情が体を駆け巡る。

っ!!

男が俺の頭を無造作につかみ、投げ飛ばす。

叩きつけられた痛みにうめきながらも、頭の中にあるのは母の死への哀しみだけだ。

男は、俺の悲鳴が収まるのを待っていた。

いつのまにか、部下の姿は消えていた。



部屋には偽りの姉妹の亡骸、男、そして俺だけだ。

男は俺に銃を向けながらも、撃とうとはしなかった。

…………殺せ


低い声が聞こえた。

俺を……母さんのところに連れていけ

その声が俺自身のものだと気付くのに時間がかかった。



今まで出したことのないほど憎悪を含んだ声を男に静かに叩きつける。

お前の母は悪魔だ


男が言った。

目的のためなら手段を選ばない。実の父を見殺しにすることも、医師や全く知らない俺達の家族の名前を奪って他人の幸せをぶっ壊すことも


俺は何も答えない。

ただ体を震わせて泣くことしかできない。

だけど、少しずつ鮮明になってきた頭が、男の話を理解しようとしている。

これが、お前の母の真の姿だ。自分のために他人を簡単に切り捨てることができる恐ろしい女だ。実際、俺の前に現れた時も、一度軽く謝っただけだったしな

もういい。

聞きたくない。



これ以上、俺の母を汚すな……!!

だが、それもほんの一部にすぎん

…………え?


何を言ったのか、理解できなかった。

男は俺に銃を向けながら続ける。

あの女は関係のない人を大勢巻き込んだ。本当に多くの人を不幸にしてきた。それは事実だ

だが、子供を産むことに対する強い信念も、お前を命がけで守ろうとする痛いほどに深い愛情も事実だ。それをすべて合わせて、お前の母親ってことだ


ちらりと、廊下で死んでいる兵を見る。

こいつらは俺の叔父の部下だ。お前が人工授精で産まれたことを知って、政府との取引に使おうとお前をさらいに来たんだろう。だが、全員お前の母に殺された。あの女の体がボロボロだったのを見ただろう。あの女はお前を守るために必死に戦ったんだろう


男はもう一度俺に目を向ける。

先程に比べて、ほんのかすかに手が震えている気がした。

俺は叔父の兵が失敗したとき、お前を殺すか、お前の親だということを明かして仲間に引き込むつもりだった。だが…………


男はギュッと唇を結ぶ。

そして、引き金を引いた。

銃弾は俺のすぐ近くの床を貫通していた。

唖然として男を見ると、彼は顔を伏せていた。




わざと外したということに、やっと気付いた。

…………行けよ


男が呟いた。

今は街はクーデターの真っただ中だ。流れ弾に気を付けて西に向かえ。小さい森があるから、そこでしばらく隠れてろ。クーデターが終わるまでどれだけかかるか分からないが、期を見計らって森を抜けて他の国へ逃げるんだ。この国と違い、名前が無くてもそれなりに幸せに暮らせるはずだ

……あなた達は、行かないの?


俺の問いに、男は小さく息を吐く。

これは復讐戦だ。俺達から名前をぶん取ったこの国へのな。お前の母への復讐は果たした。あとは、名前を奪うなんて法律を作った国家をつぶすだけだ


男は銃を下げ、後ろを向いた。

俺はお前を許すわけにはいかない。お前が産まれなければ、俺達が名前を失くすことはなかったんだからな。だが、子供の命まで奪うほど落ちぶれちゃいないつもりだ。だから……見逃してやる

あの……

勘違いするな


俺の言葉を男が遮る。

お前は俺の子供なんかじゃないし、本当はお前をこの場で撃ち殺したいほど憎いんだ。だが、ここから逃がすのは、お前を命がけで守ったそこの女の執念に敬意を払っただけだ。さっさと俺の前から消えてくれ


男はこちらと目を合わせようともしない。

ただ、銃を担いで後ろを向いている。

…………ありがとう


俺は、ようやく微笑むことができた。

母が死ぬ直前に俺に遺した言葉を思い出す。

生きて

ありがとう、母さん


声に出して呟いた。

それだけで勇気が満ちてくる気がした。

俺は、そっと男の背中に視線を向ける。

そして、相手に届くようにはっきりと言った。

ありがとう……父さん

男の背中がびくっと震えた。




しばらく呆然としていたが、少しずつ体がふるえていく。

……行け


それが、最後の言葉だった。

俺はふと、妹が使っていた機織機に近づいた。

すぐ側まで近づいて、そこにマントが出来上がっているのに気付いた。

妹がずっと作っていたものだ。

まるで、今この瞬間のために、俺の旅立ちを見越していたかのようだった。

マントを羽織り、母が持っていた銃を持ち、歩き出す。

けど、すぐに立ち止まって後ろを振り向く。

そこには、姉妹が――母と医師が静かに横たわっていた。

2人とも表情は違えど、どこか幸せそうだった。

……ありがとう

さようなら…………


心の中で2人に別れを告げた。

もう、悲しくはない。

俺は色々な人に愛されていたと、知ることができたのだから。

あなたはこれで自由。元々名前がない私達は誰よりも自由なんだから

そうだ。

俺達は自由。

誰よりも、何よりも。

自由な存在なんだ。

さぁ、行こう。

本当の自由を謳歌しに。

俺は、男の横を通り、館を永遠に後にした。

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