不意に暗い方へと変化した空気に、思わず、身体に染み着いた武道の構えを取る。
……なっ
不意に暗い方へと変化した空気に、思わず、身体に染み着いた武道の構えを取る。
その構えのまま、目の前の空間に手刀を振り下ろすと、周りの空気は何事も無く元へと戻った。
何だっ、た……?
しばらく目を瞬かせ、静かに辺りを見回す。
どこもかしこも新品の、まだ冬の名残があるのか少し薄ら寒い空間を確かめると、勁次郎はほっと息を吐き、強ばったままの背中をほぐす為に肩を後ろへ反らした。
帝華大学が新しく作った、理工科学部の十四階建ての建物。利便性の高い場所に理系の新しい拠点を作るという大学の目標通り、この場所は、実験室も講義室も全てきちんと、最新で機能的なものとなっている。
卒論の指導教員が理工科学部という名の新学部に移る為、現在学部三年生である勁次郎も四月から、ここから四駅離れた丘の上にある帝華大学の本部キャンパスではなくこの場所に通うことになっている。
この場所なら、卒論の為の実験も捗りそうだ
少し変な音を立てる靴底に肩を竦めながら、勁次郎は気の向くままに、出来立ての建物を見て回った。
と。
なっ……
歩いている途中で再び不意に、空気が暗い方へと変化する。
これは、一体?
首を傾げる間も無く、勁次郎は再び、先程とは異なる寒さを持つ空間に手刀を振り下ろした。
……驚いたな
空気が元に戻ると同時に、見知らぬ声が背後に響く。
振り向くと、黄金の髪と緑色の目を持つ、どう見ても日本人にしか見えない顔が、勁次郎の肩辺りに見えた。
雨宮秀一だ
この四月からこの大学で教鞭を執る
差し出された、細い指を持つ手を、戸惑いを込めて見つめる。
驚いたよ
『歪み』を切り裂くことができる人がいるとはね
その勁次郎を見上げて、雨宮先生と名乗る人物は口の端を上げた。
『歪み』とは、何ですか?
その笑みに、疑問をぶつける。
知りたいか?
跳ね返ってきた、深淵を覗き込むような緑色の瞳に震えを覚えつつ、それでも勁次郎は一度だけ、頷いた。
その勁次郎の耳に、静かな声が響く。
雨宮先生の指導教官であった帝華大学の教授、橘真が構築した『歪み』の理論。その理論を応用し、建物の内積を大きくした結果が、この新しくできた理工科学部の校舎。
橘教授の理論は完璧だし、勿論、殆どの人には『歪み』なんて分からない
だが、それでも時折、原因不明で建物内の空間が歪んでしまう。不意に声を落とした目の前の人物に、危険を感じる。
……
あの、薄ら寒い空間に、普通の人が閉じこめられてしまったら、パニックを起こすことは必至。そんな危ない建物に、学生を迎えるなど、言語道断。
危険は、承知だ
だが、言い掛けた警告は、真剣な眼差しに遮られる。
理論も、再構築するつもりでいる
自身の理論をぶつけたこの建物を見ることなく亡くなった恩師の代わりに。明快な口調に反論することができず、勁次郎は床に目を落とした。
その勁次郎の視界に、再び細い指をした手が映る。
だから、全てが終わる日まで、できれば、……協力、してほしい
先程までとは打って変わった、おずおずとした声に、無意識に目を瞬かせる。
協力……
顔を上げて見えた、輝く金の髪に頷くと、差し出された手を、勁次郎は静かに握った。