午後の授業終了の合図と同時に、安堵の息があちこちから聞こえてくる。

……ふう


 これで、冬期の授業は終わり。三年生はレポート提出を最終課題としている授業ばかりなので、来週行われる地獄の試験週間は、無いのと同じ。

……でも


 小さな教室いっぱいに広がった和らぎに、香花は流されまいと唇を横に広げた。

 大学の三年生だから、就職活動をする学生は気を休めてはいけない。……香花自身も。

さ、次、次、っと


 筆記具を手早く、布の筆箱に納める。
 授業のレポートは、既に全て提出済み。それでも、勉強は必要。何故なら。そこまで考えて、香花は少しだけ口の端を上げた。

せっかくのチャンス、なんだから
結果、出さないと


 まだ三年生である香花に、飛び級での大学院入試受験許可が出たのは、一昨日のこと。

情報工学科との共著論文あるし、成績は九〇点以上しかついてないし、基礎なら目を瞑ってても解けるだろうし、受験すれば合格は確実だな


 香花が勉学等でお世話になっている、数理工学科所属の雨宮先生はそう言っていたが、油断大敵。一人こくんと頷いて、香花は筆箱とノートを鞄に納めた。

 次の瞬間。

痛っ!

 指を刺す痛みに、思わず声を上げる。

 反射的に鞄から引っこ抜いた右手は、人差し指が僅かな血に濡れていた。

なっ……


 幸い、香花以外の学生は既に教室にはいない。そのことをもう一度確認すると、香花は人差し指を舐めて血を止め、机の上に置いた淡い色の肩掛け鞄から慎重にノートや本を取り出した。

……やっぱり

 小さな、折って新しい刃にするカッターナイフの折れた刃に、唇を歪める。

 今朝、使っている大学のロッカーの扉の隙間にも、これと同じ刃が刺さっていた。その刃はきちんとゴミ箱に捨てたはずなのに。何時、鞄の中に入ったのだろう? もやもやとした気持ちを追い出すように、香花は強く首を横に振った。

やっぱり……

 嫌がらせの原因は、簡単に予想がつく。飛び級で大学院を受験する香花を煙たく思っている四年生がいるのだろう。
 大学院には定員があり、それを越えると上の方から色々言われるらしいことは、教授会後に吐き出される雨宮先生の文句から香花も推測で知っている。

でも、せっかく、受験許可が出たんだから
……諦めたくない

 午前中の大教室でも、睨まれているような、冷たい視線と雰囲気を感じた。

嫉妬したり、嫌がらせをしたりする暇があるんなら、その時間で本を読むなり計算するなりすれば良いのよ

 もう一度唇を噛んでから、香花はカッターの刃以外の取り出したものを全て鞄に乱暴に突っ込み、席を立った。

 自分が選んだのではない、少し踵の高い靴で廊下を蹴りながら、七階にある図書室へと向かう。

 勉強するのなら、雨宮先生の研究室にある大きなテーブルを使うという手もあるが、おそらくそこでは、一年生である怜子(さとこ)ちゃんが、雨宮先生の弟である二年生の勇太と一緒に来週の期末試験に向けて勉強をしているだろう。
 二人の邪魔をするのは気が引けるし、香花自身も静かな環境で勉強したい。だから。図書室の隅に席を確保し、香花は開架棚を歩いた。

 基礎を復習する為に、初学者用の線形代数と解析学の本を手に取る。

懐かしい


 両方とも、先の春、図書館の上の棚にある本を取るのに苦労していた香花を助けてくれた怜子ちゃんにお礼の代わりに選んであげた本。懐かしい。微笑んで、香花は幾何の棚の前に立った。確かあの時、怜子ちゃんにはもう一冊、幾何の本も渡したっけ。そのことを優しく思い出しながら、香花は初学者用の幾何の本に手を伸ばした。

痛っ!

 そして再び、思わぬ声を上げてしまう。

 再び、痛みが走った右手を見ると、今度は中指が血に染まっていた。

 とにかく、図書の本を汚してはいけない。片腕だけで二冊の本を支えながら、右中指を口の中に入れる。
 幸い、傷は浅かったのだろう。中指の血もすぐに止まった。

 そして。

ここにも……


 幾何の本のページの間に見えた鋭い光に、身体全体が熱くなる。

こんなところにも、嫌がらせなんて

 そこまでして、香花を大学院に合格させたくない人間がいるらしい。

 それならば、なおのこと。
 本来の負けず嫌いがむくむくと顔を出す。

こうなったら、トップの成績で合格してみせる!


 取りだした本をぎゅっと握り締め、香花は独り、頷いた。

 大学院入試前、冬期期末試験が行われている一週間の間、香花は入試の勉強に邁進した。

熱くなってないか、三森?


 一度だけ、図書室で一人勉強している時に、たまたま資料を借りに来た風の雨宮先生からそう言われた。

そう?


 おそらく、香花が生活面でお世話になっている、雨宮先生とは高校時代からの腐れ縁だという舞子さんと亮さんから、ご飯も食べずに夜遅くまで机にかじりついていると報告を受けたのだろう。少ししかめ面に見えなくもない雨宮先生の緑色の瞳に、香花は普段通りに聞こえる声で答えた。

問題無いわ


 カッターの刃の件は、心配させるといけないから誰にも話していない。しかし別の件で、大切な人を心配させるところだった。
 だが、それでも。

……


 期末試験で大変なのかすぐに去って行った雨宮先生の背を追うことなく、香花は勉強に戻った。

 そして、試験当日。

さあ、行くわよ!


 手抜かりなく準備を整え、香花はいつもより早い時間に大学構内へと入った。

 試験の会場は、いつも使っている大教室。緊張は、……多分、無い。
 踵の低い靴で廊下を蹴り、香花は大教室の扉を大きく開いた。

 次の瞬間。

……え?

 耳鳴りとともに、視界が暗転する。

 いつもの大教室のはずなのに、雰囲気が、全く違う。冬だという以上に、冷たく、そしてよそよそしい。

これは、一体?

 しばらく戸惑ってから、香花は不意に答えを出した。

まさか、
……『歪み』に、囚われた?

 香花が所属する帝華大学理工科学部の建物には、内積が広くなるよう、とある幾何理論の許で特殊な加工が施されている。

 雨宮先生の指導教官であったという橘教授が作り出したその理論は完璧だったと、雨宮先生は常に口にしている。そして実際に、殆どの場合において、この建物にいる人々は建物の、外観に対して中が広すぎるという懸念を全く持たずに生活している。

 しかしながら。
 時折、理論によって歪ませた時空に、囚われてしまう人がいる。そのことも、香花は経験として知っていた。

 だが。……こんな大事なときに。

……

 涙を覚え、香花は唇を噛んだ。

 このまま、歪みに囚われたままになってしまったら。近くであるはずなのにずっと遠くにあるように見える大教室に集まる受験生達を睨み、息を吐く。

 いや、雨宮先生と、雨宮先生が見つけだした、『歪み』を識り、『歪み』に対処できる仲間達がいる。助けは、絶対に来る。優しい怜子ちゃんも、あの小生意気な勇太も、いつも気を回してくれる勁次郎さんも、雨宮先生だっている。雨宮先生の研究室に集まる人々の顔を思い出し、香花は無理に口の端を上げた。

大丈夫

 万が一、受験できなかったら、舞子さんと亮さんに無理を言って留学させてもらおう。
 二人と、雨宮先生にも高校の勉強を教えてもらって、飛び級で入った大学は退学になってしまうかもしれないけど、雨宮先生に恩返しできなくなるけど、こんな陰湿な場所にいるより、ずっと良い。香花がそこまで思考した、まさにその時。

香花さん!

 聞き知った声が、暗い空間に響く。
 はっとして振り向くより早く、香花の横には、香花より少し背の高い、穏やかな人物が立っていた。

怜子ちゃん!

 何故? 疑問符を口にする前に、胸を撫で下ろした怜子の笑みが目に入る。

良かった

 香花のことを気にして試験会場を見に行った雨宮先生が香花の不在に気付き、『歪みを識る者達』全員で探していた。怜子の説明に一度だけ頷く。

 しかし今日は入試の日だから、受験者でない学生は入構禁止ではなかったか? 香花の疑問に、怜子は俯き、そして顔を上げて答えた。

実は、
……先々週くらいから、行方不明になっている四年生がいるんです

えっ?

 大学院入試の勉強に専念している香花には黙っているよう、雨宮先生から言われていたので。すまなそうに口を開く怜子にこくんと頷く。

 試験勉強に、気を取られすぎていた。

熱くなりすぎても、これだから

 怜子に悟られぬよう、香花は心の隅で自嘲の笑みを浮かべた。

勇太さんも平林さんも近くにいるはずですから、すぐに脱出できると思います

 そう言って辺りを見回した怜子に、もう一度頷く。

 とにかく、早く此処から脱出して、試験を受けないと。いや、……焦りは禁物。心を静めるために、香花は小さく息を吸った。その時。

香花さん!

 全く不意に、怜子が香花を突き飛ばす。

え……?

 次に香花の目に映ったのは、香花を見下ろす、冷たい、赤に濡れた刃。

怜子ちゃん!

 動けない香花を庇うように、香花の前に怜子の腕が伸びる。その腕に滲む赤に、香花は目を見開き、怜子の向こうに光るカッターナイフを持つ影を睨んだ。

 おそらく、四年生。カッターナイフの刃が、短い。そこまで見て取り、香花は唇を噛みしめた。

 折った刃を香花周辺にばらまくことによって、この人はSOSを出していた。香花自身には見ることも感じることもできない『歪み』を解析し、直すことが、香花の『歪みを識る者』としての役割とはいえ、この数週間、『歪み』のことをすっかり忘れていた。

迂闊だったわ

 広がり続ける怜子の腕の赤に、香花は再び唇を噛んだ。しかしながら。

……反省は、後

 闇雲に伸びてきた遠くの太い腕を、細い腕の片方を精一杯伸ばして掴む。

 もう一方の腕で怜子の服を掴んだ次の瞬間には、視界は元の明るさを取り戻していた。

木根原!


 機械音が響く、地下二階の階段下に尻餅をついて腕を押さえる怜子の身体を、勇太が抱き上げる。

すぐに保健室へ!


 雨宮先生の声が香花の耳に響いたときには既に、勇太は怜子を抱きかかえたまま、小さな階段を登っていた。

この人も、保健室ですか?


 階段下の空間に倒れた大きな影から血に濡れたカッターナイフを冷静に取り上げた勁次郎が、雨宮先生に目配せする。

ああ


 頷いた雨宮先生を確かめてから、勁次郎はその太い腕で四年生を担ぎ、ゆっくりと階段を登っていった。

 そして。

さて


 顔をしかめ、四年生が持っていたカッターナイフの刃を納めてポケットに入れてから、雨宮先生が香花を見下ろす。
 その時になって初めて、香花は自分が冷たい床に尻餅をついたままであることに気付いた。

どうする?


 雨宮先生が問う前に、冷たい床から立ち上がる。

受けに行くわ、試験


 怜子ちゃんは、それを望んでいる。香花の言葉に、雨宮先生が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。

まだ、試験が始まって五分しか経っていない


 腕時計を確認して、雨宮先生が頷く。

遅刻限度は二〇分。三森なら、基礎試験は30秒で解けるだろ

ええ


 何処か皮肉にも聞こえる言葉で、普段の冷静さを取り戻す。

 地面に落ちていた鞄を肩に掛けると、香花は強い音を立てて階段を駆け上った。

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