空が青くて、空気がおいしくて、ヒトの温もりを感じることのできるセカイ。
そんなの、絵空事だとばかり思っていた。
空が青くて、空気がおいしくて、ヒトの温もりを感じることのできるセカイ。
そんなの、絵空事だとばかり思っていた。
生まれた場所と育った場所は違うらしい。
名前も与えられず、雨の中施設の前に捨てられていたのが、俺だ。
意思を持って言葉を話し、動けるようになった途端、施設から飛び出した。
それ以来、生きていく為に、なんでもやった。
誰かを騙すことも、陥れることも、嘘の塊を投げつけることも、この身体を投げ出すことも。
このセカイじゃ、それが当たり前だった。
金を持っている奴にうまくすり寄ることができれば、その日はあたたかい寝床で寝ることができた。
うまくいかなければ、冷たい道路を感じながら、空の星を数えた。
そんな日々を送っていた俺の前に、そいつは突然現れたんだ。
やっと見つけました、ときれいな笑顔を向けて。
余所見をしているとぶつかりますよ
今まで耳にしたことがない、きれいで丁寧な言葉に、落ち着かない気持ちになる。
なぁ、あんた
呼びかけると、そいつは律儀に立ち止まり、振り返って微笑んだ。
なんでしょう
もちろん、この時点で自己紹介は済んでいる。
こいつの名前をちゃんと憶えている程度の知能は、かろうじてまだ残っている。
でも、どうしても呼べないのは、俺が今まで誰の名前も呼んだことがないからだ。
これまで、名を呼ばれたことも、誰かの名を呼んだこともない。
だから、そうすることでどんな変化がもたらされるのか、わからない。
それらから逃げて、逃げ続けて、生きるしかなかった。
温もりなんか、いらない
誰かの手もいらない。
俺は、たったひとりで、これまで生きてきて、これからもそうしていくのだ。
俺をこれから、どこに連れて行くんだ
どこに、とは
軽く目を見開いて、驚いた振りをする表情に、苛立ちを覚える。
心配なさらなくても、もうすぐ着きます
心配、とかそういうんじゃ……
おや……では、不安、でしょうか
……っ
大丈夫ですよ。此処には何の危険もありません
さぁ、どうぞ、と言われるままに足を進めれば、そこには見たこともないほど豪華な邸宅があった。
今日から此処が、あなたの居場所です
変わらないきれいな笑顔にぞっとして、踵を返して駆け出した。
ここは、なんだ。
あいつは、なんだ。
きれいな街並み。
きれいな家。
きれいなヒト。
なんだ、この感じ……
初めて、こわいと感じた。
駆け出して、でも、どこにも隠れる場所はなくて。
あぁ、そうだ
あのセカイには、もう俺の居場所はない。
俺がしていたことと、同じことをする奴は、もういるだろう。
俺の住んでいた場所は、とっくに別の奴が住んでいる。
じゃあ俺は、これからどうしたらいいんだ。
あいつみたいな、きれいなところには行きたくない。
けれど、元いた場所にも、戻れない。
空が、青いな……
空が青くて、空気がおいしくて、ヒトの温もりを感じることのできるセカイ。
そんなの、絵空事だとばかり思っていた。
こんなところにいたのですね。探しましたよ
後ろからかけられた声に、心が震えた。
それは、恐怖からなのか、安堵からなのか、もうわからない。
ただわかるのは、俺がいる場所は、もう、こいつの傍以外にはないのだ、ということだ。
(いまだけ、だ)
きれいな言葉も、やさしい態度も、信じない。
俺はいつか、俺だけの力で、足で、新しいセカイへ向かう。
その日までの、辛抱だ。
あぁ、悪かった
今度こそ、そいつの後についていき、邸宅の中に足を踏み入れる。
開かれた扉の向こうに、大きな肖像画が飾られていた。
え……
それが何なのか理解する前に、腹に衝撃を受け、俺は意識を飛ばしてしまった。
おかえりなさいませ、ご主人様
そいつに、とてもやさしい声で、そう語りかけられた気がした。
ヒトとは思えない力で持ち上げられ、どこかへ運ばれる気配がした。
こいつがさがしてたのは、おれじゃ……ない
一瞬だけ目にした肖像画は、髪の色が異なる、刺青のない、俺自身の顔だった。
【Fin.】