茉希(まき)の異変に気付いたのは、意外にも彼女の父でも母でも無く、夏夫と言う、親戚の叔父であった。

 久々に会う親戚たちとの酒の席。だが、夏夫はめっぽう酒に弱い上に、三十後半を超えた今でも尚、嫁さんに恵まれない。酒で泥酔してしまった親戚達の蚊帳の外で、夏夫は小便を理由にリビングを出た。
 まだ朝だってのに、みんな早いんだから。呆れ交じりに一息つくと、二階から茉希の泣き声が微かに聞こえてきた。
 そう言えば、この家の主人の娘は、初めに挨拶したきり上の階にこもりきりだった。年頃だから親戚のジジババと関わりたくないだけだと思っていたが、少し様子が違うようだ。気になった夏夫は、二階の彼女の部屋へと向かった。
――コンコン。
 軽く扉を叩き、返答を待つ。返答はすぐには出なかったが、やがて泣き声が消えると、扉が開いた。

夏夫おじさん。どうかしたの

 暗い面持ちの彼女。大丈夫だろうか。泣き腫らしたのか、目元はパンパンに腫れていた。

茉希ちゃん、何かあった?

夏夫おじさん、もしかしてこれのこと気にしてる?

 茉希はくるりと背を向けてベッドの下を探り出した。スカートのままで探しているので、下着が見えそうでひやひやする。ベッドの下にあった物を見つけると、茉希は少し大き目な瓶を持って戻って来た。中には、瓶のギリギリまで水が入っている。

これは?

な、涙?

うん。集めてたの

 茉希は、さも当然のように答えた。茉希が再度ベッドの下に潜ると、同じ瓶を更に六つ持ってきた。こんなにも涙を集めていたのか。それはそうと、少々気味が悪い。夏夫は、彼女が余計に心配になった。
 しかしここで、「大丈夫?」なんて聞いてしまえば、本心を察知され、彼女に壁を作られるかもしれない。まずは彼女の考えを聞いてみることにする。

集めてどーすんの?

海を作りたいの

海? 茉希ちゃんの涙で?

 茉希は頷いた。確かに、涙は海のように塩辛い味がする。しかし、共通点はそれほどだ。その上、幾ら大瓶七つ分あると言っても、精々作れてプラスチック製のプール程度だろう。そこはかとなく少女の考えで、夏夫は思わず吹き出していた。

私、変?

ゴメンゴメン。ちょっと昔を思い出しちゃった。俺も昔考えたもんさ、消しゴムのカスをペンケースに詰め込みたいとか

 夏夫のカミングアウトに、茉希は返事をしない。どうやら、この発想はナンセンスだと思ったらしい。夏夫は苦笑する。

海を作ってどうする気だ?

わからない。でも、海みたいに、広くて清い人になりたいの

海みたいに、ねぇ

 夏夫は、彼女の真意を考える。涙で海を作りたい。空いた物に何かを詰め込みたい感情とは違うようだ。
 海も涙も、たとえとして美しい物とよく言われる。夏夫も、それを否定する気は無いが、美しい物を作る為に、無理に涙を流すと言うことを普通するのだろうか? 何か、他に辛いことがあるのでは。
 彼女の足元に置いてある涙の瓶を持ち、夏夫は茉希に言った。

丁度退屈してたところだったんだ。ちょいと海にでも行かないか?

 突然の夏夫の誘いに、茉希はしばし無言で夏夫を見た。変なことを言っただろうか? 夏夫が首をかしげた、その時に気付く。
 急におじさんに外へ出ようなど言われたら、妙な勘違いを受けるかもしれない。と。
 夏夫はブンブンと首を振り、「いやいやいや!」と必死に茉希の勘違いを解こうとする。

ふふっ。良いよ。行こう

 夏夫をからかうように笑う茉希。
 少女にバカにされるとはなぁ。夏夫は情けない気持ちになったものの、彼女が気を許してくれたのならば、オールオーケーか。
 七つの瓶を夏夫の中古車に詰め込み、茉希を助手席に乗せると、夏夫は近くの海へ向けて車を飛ばした。

ほら、茉希ちゃん。待望の海だぞ

 冗談っぽく言った夏夫だったが、茉希はまんざらでも無かったらしい。海へ駆け出すと、制服姿のままで海へ足先を付けた。

気持ちいいよ、夏夫おじさん

ほぉう。そうかい

 夏夫も靴を脱ぎ、両足を海に付ける。ジリジリと照り付けるような暑さが、夏夫を更に気持ちよく感じさせた。
 海の水を両手ですくい、両手の隙間から海へと帰っていく様を楽しそうに見つめる茉希。そんな彼女に、夏夫が尋ねる。

何か嫌なことでもあった?

どうして?

無理してるように見えるから

うん。あったよ。ちょっと人生に疲れちゃったの

じゃあ、あの涙は君の本心だ

うん。そうかもね

 茉希はまた、海をすくい始めた。
 彼女の本心を垣間見たところで、夏夫は車へと戻り、両手に瓶を持って戻ってくる。

おじさん、どうしたの?

その涙、海にしたいんだろ?

 でも。と言いたげに見る茉希。分かっている。彼女が海にしたいと言ったのは、こう言うことではない。しかし、これを溜めていても、きっと彼女の心は満たされないのだ。

ごめんな

 瓶のコルクを外し、彼女の涙を海へと流す。茉希は、それを呆然と見つめていた。

でもな茉希ちゃん。涙ってのはな、流すもんだ。詰め込んでおいても、良いことは無いんだぞ

 茉希は無言で夏夫を見た。しかしすぐに顔を俯かせ、車へと走っていく。
 彼女が必死に泣いて集めたもの。それを急に捨てるのは、やはり傷つけてしまうか。夏夫は悲しげに彼女の後ろ姿を見つめていたが、彼女はすぐに此方へと戻って来た。一つの瓶を持って。

茉希ちゃん……?

 茉希はまたすぐに車へ行き、そして瓶を持って戻ってくる。それを数回繰り返し、全ての瓶を砂浜に置いた。そしてそれを一つ持ち上げると、コルクを抜いて海へと流した。
 それを、残りの五つ、全て海へと流し込み終えると、茉希は大きく口を開いて叫んだ。

バカヤロー!!

 彼女が叫んでも、海は波を寄せて返すだけ。夏夫は、ただ茉希を見つめていた。
 茉希は夏夫の方を見る。そしてにこやかに笑って言った。

私、海みたいにはなれないや

そう?

うん。バカって言われたら、私ならバカって言い返しちゃうもん

そうだな。俺も海にはなれねーや

 夏夫の笑顔を見て、茉希は安心したように微笑んだ。その表情は、胸のつっかえが取れたように見えて、少し安心する。

夏夫おじさん。また、ここに来たいな

ああ。また来ような

 茉希は頷くと、一つの空き瓶に潮水を詰め込んで、蓋を閉めた。
――絶対に返しに来るからね。
 それは、彼女と海との無言の約束だった。

(了)

瓶に詰めた海

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