深海、二千メートル。

 静かで、誰もいない。いや、人はいるんだ。作業中なだけ。
 研究施設の一つだ。環境保全の研究施設。僕は、ここで深海生物の観察を命じられている。

「あ。リュウグウノツカイ」
 強化アクリルスクリーンで出来た施設の壁。すぐ横を、とても長い赤い鰭と銀色でメタリックな胴の魚が泳いで行った。どんどん浮上しているのを見るに……もしかしたら。僕は手に持っていたタブレットのサポート機能をオンにした。

“はい、博士、如何致しましたか?”
 タブレットから自動音声が流れる。施設のメインサーバに常駐している、僕のサポートAIだ。

「今リュウグウノツカイが一個体浮上した。モニタリング開始してくれ。発見場所は……」
 僕はすかさず指示を飛ばす。僕の予想に反して、ただ泳いでいるだけなら良いけれど。上へ行かぬように下へ追い立てるだけだから。

「……」
 もしかしたら、死期が近いのかもしれない。

 生き物は必ず死ぬ。生まれたときから、死ぬ。僕もそうだ。

 特に人間は、自業自得の死に方をすることが在る。今だって。

 地上は汚くて、人間が壊してる。

 いつも、ここに来る。

「好きだね、お前も」

 僕は、水槽ポッドから顔を出した。
「水槽ポッドで泳がなくても、そんなに潜りたいなら、今度調査にいっしょに来るか?」
 彼が、悪戯っぽく笑う。彼は環境調査員をしている。調査員は、内部の気圧などを調整させた強化スーツで外に出て、深海の状態を調査していた。僕は鼻を鳴らして。

「断るよ。あんな動きにくそうなスーツを着て深海の中を歩いたって、ちっとも楽しくない」
 酸素は供給されていても、息苦しいだけ。そう一蹴すると、彼は肩を竦めて苦味を含めた笑みを深くした。

 水槽ポッドとは、海水を貯めたポッドのことだ。普段は調査員の訓練だったり保護した深海生物を入れたりする。外と繋がっていて海水を循環させているけれど、特殊な加工がされていて水圧も密度も自在に設定が可能だ。球体をしており出入り口も建物内に影響を及ぼさないような仕様が成されている。

 現在水槽ポッドの水圧も密度も表層に近付け、僕は普通のウェットスーツを着て潜っていた。僕は再び潜る。と言っても、二メートル弱しか無い深さなので大したことも無い。だけど、良い気晴らしになるのだ。

 潜って、泳ぐ。回転する。ポッドの上は空いている。酸素はそこに在る。水温も一定に保たれている。浄化もされているから生身で良い。────気持ち良い。

 僕は、生身で海を感じたくて、未だ深海では生きている生物に会いたくて、この研究施設の配属を希望したんだ。

 地上では、もうきれいな場所は無い。表層の海すら、うつくしくない。

 何より、生き物がいない。

 スーツも無しに、外を歩くことなんか、ゆるされない。

 人口も減った。────近い内。

 僕も、『上』に召集されるんだろう。子供を作るために。細胞を採取するために。
 細胞を採取して、培養して、精子と卵子を精製する。
「……」
 性器も退化して、かろうじて留めていた性別が、意味を成さなくなったのは、いつからだっけ。目を開けた。僕の体は回って仰向けになっていて、上を向いていて。

「……」
「……」
 覗き込んでいた彼と、目が合った。

 僕は、水槽ポッドから出た。纏わり付く髪を払う。目前に、タオルが差し出された。彼だった。

「次の週末が最終か」
 彼が問う。観察の話だ。
「うん」
 僕が頷いた。

 近い内研究員は皆引き上げさせられ地上勤務になり、研究所は全自動の機械化が予定されていた。
 僕の仕事も彼の仕事も全部、ロボットが取って代わる。

 人類保全のため。
 研究や生物保護は続くだろうけれど。

「生き物は……」
「うん?」
「海から来たはずなのに」
「うん」
「僕たちが、海で生きられないのは、罰なのかな」
「……」

 海を理想郷だと言う人がいた。
 空の向こうを希望の果てだと言う人がいた。

 だけど実際、海は汚れ。
 宇宙(そら)すらゴミだらけだ。

 僕たちに自由が無いのも、罰なんだろうか。彼が、僕を抱き締めてくれる。僕はウェットスーツを脱いでいないので、濡れてしまうのに。

「このまま……」
「……」
「ここにいたいな」
「……。うん」

 静かな海の底。
 溶けていなくなれたら、どれだけ楽だろうか。

 彼の体温を感じながら、詮無いことを、押し流すみたいに僕は泣いていた。

 涙は、海と同じ味がした。

【 End. 】

バウンダリー・イン・ア・ディープ・シー

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