あの沖の島までつけば、俺は。
ただがむしゃらに海の中を泳ぎ続ける。ところが途中からいくら泳いでも前に進まなくなってしまった。
(あともう少し!)
あの沖の島までつけば、俺は。
ただがむしゃらに海の中を泳ぎ続ける。ところが途中からいくら泳いでも前に進まなくなってしまった。
(クソッ!)
心の中で舌打ちする。あともう少しであの島に着くのに。なぜかここから先に行くことができない。次第に体力が奪われ、力尽きていく。
ススム、ススムー!
俺の名前を呼ぶ少女の泣き声。だがそれに応える事もできない。
(チクショウ……)
そのまま俺の意識は暗転した。
Swim!Swim!Swim!
それから五年後。
俺は高校二年生になり、今でもこの海沿いの町で暮らしていた。通学路である海岸を歩く。遠くに見える島。五年前、俺はあの島を目指して泳ぎ、おぼれた。というか、去年も一昨年も、その前も更にその前の年もおぼれた。なんであの島まで泳ごうとしたかと言うと、
おはよう、ススム
後ろから声をかけられる。振り返るとそこにはノアの姿があった。
ノアは俺の幼馴染にして、想い人だ。
今から五年前、俺はノアに想いを告白した。対してノアの返事は一言。
あの島に泳いで着いたら考えてあげる
俺はその言葉通り沖の島へ目指し泳ぎだし、おぼれた。
それから俺は毎年、あの島に向かって泳いではおぼれかけ、もう一人の幼馴染であるリュウタに助けられている。そのせいで、周りからはすっかり『町一番の大馬鹿野郎』と呼ばれるようになった。
だがそれでも俺は構わない。ノアと付き合いたいのは当然だが、俺は自力であの島にたどり着いてみたかった。
ここから遠くのあの島を見つめる。あそこにたどり着いたら何が待っているのだろう。それを考えただけで心がワクワクする。
今年も泳ぐの?
ノアが様子をうかがうように問いかけてきた。
おう。そうしないとお前と付き合えないからな
あはは
ノアが困ったように笑い声をあげる。
すると通学路の向こうからチャイムの音が聞こえてきた。
予鈴だ、急ごう!
おう!
俺はノアと共に学校に向け駆け出した。
全速力で走ったおかげで、なんとか遅刻せずに済んだ。ノアと一緒にギリギリ教室に滑り込む。席につくと声をかけてくる人物がいた。
今日もノアと一緒に通学なんて、妬けるね~
俺たちはまだ付き合ってない。茶化すのはよせ
はいはい、そうでした
そう言って笑ったのは俺のもう一人の幼馴染、リュウタだ。リュウタは俺より背が高くて、運動もできる。もちろん水泳も。だからおぼれた時はいつもリュウタの世話になっているのだ。
今年もやるのか、島まで泳ぐの
お前も同じ事を聞くのか
思わずそう苦笑する。対して俺の様子を見て、リュウタは全てを察したらしい。
島まで泳ぐのは構わないけどな、俺の事を必ず呼べよ。お前がおぼれたら、救えるのは俺だけなんだから
わかってるよ。いつも感謝してる
それならよろしい
そうリュウタが告げると同時に、担任が教室に入ってきた。ホームルームが始まる。俺はそちらに集中した。
四時間目の授業は体育だった。校庭での運動を終え、下駄箱に向かう。すると下駄箱の中に妙な物が入っていた。
なんだこれ?
どう見ても手紙、というかラブレターにしか見えない。するとノアが声をかけてきた。
どうしたの、その手紙?
下駄箱の中に入ってた。ラブレターっぽい
こんな事を言ったらノアに、
自意識過剰も程々にしなさい
と突っ込まれるかと思った。ところがノアの様子がいつもと違う。
……開けてみなさいよ
お、おう
俺はノアの一言に押され、手紙の中身を開封した。
『放課後、校舎裏で待ってます』
そう書かれた手紙。やはりこれは、
ラブレター、なのか?
思わず疑問系で聞いてしまう。するとノアは拗ねたように唇を尖らせた。
それ以外に何があるのよ
例えば、学校の番長からの果たし状とか
うちの学校、番長なんている?
いないな
という事はラブレターなのだろう。これは面倒な事になったかもしれない。俺は頭をかきながら男子更衣室へと向かった。
ススムがラブレター? こりゃ明日は空から槍が降るな
昼休み。幼馴染三人で弁当を食べていると先ほどのラブレターの話題が出た。それに対するリュウタの反応がこれだ。わからなくはないが、少しひどい。罰としてエビフライを没取する。
俺のエビフライ!
そのまま一口でリュウタのエビフライを食べる。リュウタはガクリとうなだれた。
それで、ラブレターの相手にはどうするの?
そんなの断るに決まっているだろう
俺がそうハッキリ口にすると、少しノアの表情が引きつった気がした。
だって俺はノア一筋だからな。まだ付き合ってないけど
すると今度はノアの顔が赤くなる。
まったく、ススムって変わらないんだから
こいつは小学生の頃からこれだからな。三つ子の魂百までだよ
復活したリュウタが辛辣な言葉を浴びせる。
一途なところの何が悪いんだ?
そうだな、悪くはないよ。だが将来ノアは苦労しそうだな
ちょっと、リュウタ!
ノアがリュウタをポカポカと叩く。そんな二人を見ながら、俺はまだ見ぬラブレターの人物にどう謝ろうか、考えていた。
放課後。俺はラブレターに書かれていた通り校舎裏に来ていた。普段校舎裏に来る人間なんてそういない。つまり一番に姿を見せた人物がラブレターの差出人だ。
両腕を組み、ジッと待つ。十分程経っただろうか。未だにラブレターの人物は現れなかった。
(イタズラだったのか?)
そんな事を考え始めた時、
後ろから誰かに背を押された。
って、おい。なんだ
ビックリした?
そこに居たのはノアだった。どうやら俺より先回りして隠れていたらしい。
なんだ、やっぱりイタズラか。こういうドッキリはよくないぞ
俺がそうマジメに告げると、途端にノアの顔が赤くなった。
おい、どうした?
イタズラじゃないよ
そうノアは口にすると、俺の瞳を真っ直ぐ見てきた。
私、ススムの事が好きなの。できれば、付き合って欲しいな
ちょ、ちょっと待った! 俺が島まで泳いだら考えるって言ったあれはどうなった?
あれはもう無し。私、心配だったんだよ? 毎年おぼれるススムを見て。最初に言い出した私が言えた事じゃないけどさ
頭の中が混乱する。ノアは俺の事が好きで、もう島まで泳ぐ必要はない。これから俺はノアの恋人になる。つまりは、えーっと?
返事、聞かせてよ
これ以上ないくらいノアが顔を赤くして尋ねてくる。俺はそれに答える事にした。
もちろん今でも俺の気持ちは変わってない。ノアが良いって言うなら付き合おう
俺の言葉を聞き、ノアが余程嬉しかったのだろう。抱きついてくる。
これで俺はノアと付き合い始めた。何もかもハッピーエンドだ。
(ハッピー、エンド?)
俺の中で何かが引っかかった。
その日の夜。
俺はリビングでリュウタと通話をしていた。
ノアと付き合えるなんてやったじゃん。おめでとう
ありがとな
そう、ノアと付き合うのはまさに念願だった。この五年間、ノアの事を想わなかった日はない。俺は完全にノアに惚れていた。だからまさかノアも俺に惚れていたとは思わず、本当にビックリだ。
まぉ、嬉しくはあるんだかな
どうしたんだ?
リュウタの問いかけに一瞬言葉がつまる。
実はまだ、ノアが俺を好きだったって実感がわかなくてさ
苦笑混じりにそう言う。すると突然リュウタの声がマジメな物になった。
それじゃあお前が実感わく話、してやろうか?
それからリュウタが語り出した話。それは以下のようなものだった。
今から五年前。俺がノアに告白し、
あの島に泳いで着いたら考えてあげる
と言った時の事。
あの時、ノアは冗談でそれを口にして、初めから告白にオーケーの返事をするつもりだったらしい。ノアもまた最初から俺に惚れていたのだ。
だが俺はバカで、ノアの冗談を間に受け、本当に島まで泳ごうとしておぼれかけた。
それにノアは大きな責任を感じた、というのがリュウタの話だ。
俺は毎年ノアに泣きながら頼まれたよ。ススムがおぼれたら、絶対に助けてあげてって。だからもうお前は、彼女になった以上ノアを悲しませるな
それはリュウタからのある種の警告だった。
リュウタとの通話を終え、俺はソファの上で横たわった。リュウタはもう島まで泳ぐのをやめろと言う。ノアが彼女になった以上、あの島まで泳いでいく必要はなくなったのだからと。
確かにその通りだ。今の俺にあの島へ行く理由はない。だが、
(なんでこんなに胸がざわめくんだ)
俺は自分で自分に問いかけた。だが当然答えはない。俺は自分自身の気持ちがわからなかった。
あークソッ!
ダメだよー! そんな悪い言葉使いしちゃ
すると突然、妹のマイが突っかかってきた。
そんな事よりお兄ちゃん、なぞなぞね
なんだよ、いきなり
マイは俺にかまって欲しい時、こうやってなぞなぞを出してくる。毎回内容がむちゃくちゃなのが難点だが。
それでは問題。
赤ずきんちゃんが森の奥に住むおばあさんの家に行こうとしています。
道は二つあって、まっすぐ一直線で行ける道と、遠回りの迂回する道があります。
さて、赤ずきんちゃんはどちらの道に行くのが正解でしょう?
そんなの、まっすぐ一直線で行ける道だろう
ブッブー! 正解は遠回りの迂回する道でした
なんでだよ。遠回りの道に進むなんて意味ないじゃん
なぜなら、まっすぐ一直線で行ける道の途中には、オオカミがしかけた落とし穴があるからです!
これではなぞなぞと言うより、いじわるクイズだ。まったくもってあきれる。
俺はその後もマイが飽きるまで理不尽なクイズに付き合わされた。
翌日。
今日は水泳の授業があるから水着を下に着て制服に着替えていた。
するとチャイムが鳴った。玄関まで行くとそこには、
おはよう
なんとノアの姿があった。普段なら通学路の途中で会うのに、わざわざ迎えに来てくれたのか。俺はそれに少しばかり感動しつつ、朝食のトーストをくわえて玄関の外に出た。
おはよう。さぁ行こうぜ
うん
なんだか今日のノアはしおらしい。おかけで調子が狂ってしまう。俺はトーストを食べながらノアと通学路を歩き始めた。
海岸沿いの通学路をノアと二人きりで歩く。
これからは毎日一緒に通学できるんだね
今までだって一緒に通学していたじゃないか
もう、今までとは意味が違うの
そう言ってノアは俺の手を握ってきた。これは確かに意味が違う。俺の体温が一気に上がった。
私たち、付き合っているんだよね?
ああ、もちろん
嬉しい
ノアがふにゃりとした笑みを浮かべる。可愛い。可愛すぎる。こんなにも可愛いノアが俺の彼女だなんて、未だに信じられない。最高に幸せだ。
ふとノアを見つめる。
?
ノアの笑顔が俺にはまぶし過ぎる。俺は恥ずかしさから、そっと目をそらした。
そして、その結果俺はそれを目にしてしまう。海の向こう。かつて目標にしていた島を。
『もう諦めたのか?』
島が俺に向かって挑発してくる。
『彼女を手に入れたら、それだけで本当にいいのか?』
さらに続く島の挑発。
俺の中で思いが一気に駆け巡る。俺はあの島になぜ行こうとしていた? 彼女、ノアの返事を聞くためだろう。でもその必要はなくなった。それなのに俺はなんであの島から目が離せないんだ。俺はあの島に行きたいのか。一人、それも泳いで。
今までずっと感じていた違和感。その意味を理解し、俺は覚悟を決める。
ごめん
そう口にして、俺はノアから手を離し、海岸へと降りていった。
ちょっと、どうしたの?
海岸で次々服を脱いでいく。残ったのは、水泳の授業で使うための水着のみだった。
まさか、島に泳いで行くなんて言わないよね?
ごめん
なんで? 私、もう自分の気持ちを伝えたよ? それなのになんであの島にまた挑戦するの?
……ごめん
なんで!
ノアがその場に座り込み、泣き出す。俺はノアの目を見て語りかけた。
これはノアのせいとかそういう事じゃないんだ。あの島が俺を呼んでいる。ここまで泳いでみせろって
そんなの、わけがわからないよ
これは俺が決着をつけるために泳ぐんだ。俺は決着をつけたい。全ての決着をつけた上でノアと付き合いたいんだ
それならせめてリュウタが来るまで待って。じゃなきゃ
その必要はない。これが、最後の挑戦だから
そのまま俺はゴーグルと帽子を着用すると、海へ飛び込んで行く。
ススムゥ!
ノアの叫び声が辺りに響いた。
泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ。
俺はクロールで一直線に海の中を泳いで行った。よし、いいペースだ。これなら十分あの島にだって行ける。
アドレナリンが分泌される。今の俺は鉄人だ。どんな荒海だって泳いで見せる。
そうこうして島への距離が縮まっていく。どのくらいの距離かはわからない。だが近づいているのはわかる。さらにクロールを続けていく。
ススム!
その時、ノアの声が再び響いた。声色がまた先ほどと違う。恐怖に震えた声。一体どうしたのかと思いながら、俺はまた泳ごうとする。
泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ。
しかし、なぜか前に進まない。
またいつものこれだ。この謎の壁のせいで俺は前に進めなくなる。こうなったら最後、俺はじりじりと体力を削られていき、おぼれる事になるのだ。
(クソッ! 今度もダメなのか)
今ここにリュウタはいない。つまり、おぼれたらそれで最後。誰も助けてはくれない。もう助からないのだ。
(まさかこんなあっけなく終わるなんてな。俺の人生)
死を意識したからだろうか。唐突に頭の中に過去見た景色が走馬灯のように再生される。
島まで泳ぐのは構わないけどな、俺の事を必ず呼べよ。お前がおぼれたら、救えるのは俺だけなんだから
私、ススムの事が好きなの。できれば、付き合って欲しいな
それじゃあお前が実感わく話、してやろうか?
ブッブー! 正解は遠回りの迂回する道でした
なんで? 私、もう自分の気持ちを伝えたよ? それなのになんであの島にまた挑戦するの?
『もう諦めたのか?』
島の挑発する声に、俺の意識が戻る。俺はまだ諦めたくない。ここで諦める訳にはいかないんだ。俺は決着をつけ、成長したい。そして何より、もう一度ノアの笑顔が見たいのだ。
同時に俺の中である思考が巡る。昨日マイが出したいじわるクイズ。赤ずきんちゃんは二つの道の内、どちらに進むのが正解だったか。
(まっすぐ行けば待っているのは落とし穴だ。ならば!)
潮の流れを意識して、泳ぐ方向を変える。それは今までの進行方向の真横だった。真横から少しずつ潮の流れに導かれていく。潮の流れに逆らわなければ、体力的におぼれる事はない。
そのまま進んで行くと、今度は大きく迂回するように島へ向かって進み始めた。赤ずきんちゃんが選ぶべき正しい道は、迂回する遠回りな道。この道こそ、俺にとっての正解、真実。
再び島に向かって泳ぎだす。もう潮の流れは俺を邪魔しない。迂回する事によって俺は自分にとって正しい潮の流れを手に入れた。
泳げ、泳げ、泳げ!
必死にクロールを続ける。
そして、
ついに俺は島の上に立っていた。今まで泳ぎきる事の出来なかったこの島までの道のり。それを俺は完全に征した。
海の向こう側では、ノアが涙を浮かべこちら側を見ているのがわかる。俺はノアにも見えるよう、片腕をあげて大声で宣言した。
ゴォォォォォルゥ!
END