第n話
第n話
間も無く、二番線に、7時14分、快速、東京行きの電車が、参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください
地下鉄のホームに案内が流れる。ホームには人がごった返している。
それもそうだ。今は7時13分。通勤ラッシュ真っ只中。
通勤時間というのは不思議なもので、多くの人々は自分が時間通りに、座って目的地に着くためなら手段を厭わない。
まぁそれはいささか言い過ぎかもしれないけれど、ある種エゴイズムが加速するというのは事実だ。
ごった返した混乱に乗じてさりげなく横入りなんて序の口。肩で人を押しのけて突き飛ばす。そんなことが横行する。
人というのは、自分に余裕がなくなると途端に周りが見えなくなって、途端に周りがどうでもよくなる生き物らしい。
いや、そもそも生き物というのはもともと周りなんてどうでもいいもので、余裕のあるときには周りによく見てもらおうと周りに優しくすることこそが、人間特有なのかもしれない。
とりあえず本質はどうあれ、人がそういう生き物であるということは別に疑うようなことでもないだろう。
ただ、余裕がある、というのは相対的判断でしかないのかもしれない。
単純に自分の見える範囲、聞ける範囲、触れられる範囲に自分より不幸な人間がいれば、それである程度余裕が持ててしまう。
だから今日からちょうど一週間前の7時14分。
僕は自殺に失敗した。
* * * * * * * * * * *
何回言わせんだよ! 今回が最後のチャンスだって言ったよなぁ! いい加減一つは契約取って来いって言ってんだよ! お前ここ来てもう3年だろ!? 新人だって4つは契約までこぎつけてるっていうのによぉ!?
はい……すみません
僕は歯切れの悪い謝罪を繰り返しながらペコペコと頭を下げ続けた。
ある中小企業のオフィス。"営業部"と書かれたプレートがやる気なさそうにぶら下がっているのが目に入る。
この3年、僕は営業成績最下位を独走していた。
理由は単純。僕には能力も無ければ、個性もない。
努力しても、結局は才能のある、個性のある他社の営業マンに契約を掻っ攫われてきた。
おまけに安月給で、可愛い彼女もいないし、ましてや実家が裕福なわけでも無ければ、転職するほどの気力も根性もなかった。
まさに社会人の最下層。底辺の底辺。
そんな僕を見せしめのように、サンドバックのごとく罵声という名の拳で殴り倒す、というのが今目の前で唾を飛ばしながら喚いている部長の"ご立派な"趣味である。
仕事ができないなら帰れ。
お前の代わりなんざぁいくらでもいる。
お前じゃどこの部署でも使えない。
お荷物社員。
部署始まって以来最低の人材。
お前みたいなパリッとしない奴に家庭なんて持てるはずがない。
まだお前ここにいるのか。
早く辞めてくれないかなぁ。
お前の始末書は読み飽きたから、退職願の書類持って来い。
まぁ散々言われた。日本語に存在するあらゆる罵倒の言葉全てを投げつけられたような。
もしそれらが単体であれば、一つ一つ受け止めて、なんとか飲み込むこともできたかもしれないけれど、立て続けにとなるともうどうにもならない。
一つの罵倒を消化し終える前に無理やり耳に痛い言葉をねじ込まれるのだ。
そりゃあ消化不良も起こす。
特にこの1年はすごい。企業も業績不振で大規模なリストラが起きるのも時間の問題だった。
そんな中、僕は部長にとって恰好のストレス発散機だったんだろう。
いや、部長だけではない。同期はさっさと昇進して、今や後から入ってきた社員にも軽蔑されている。事務の女の子たちも根暗な僕を裏で叩くのが最近のトレンドらしい。
今も部長に怒られているぼくの姿を休憩室から隠し撮りして語り種にしているのだろう。
ここまで来ると、そういう人間たちに対して怒りというのはもはや湧いてこない。
周りにいる人間が漏れなく自分を責める世界。
そんな世界にいれば、原因が自分にある、というか自分にしかないのだと気付いてしまう。
自分はこの世界に生きるのは向いていない。
こんな自分がこの世界様の中で生きさせていただいているのが悪いのでございます、とでも言っておこうか。
そんなことをしても世界様は僕を許すはずがない。実際、毎日寝る前に謝っているのだけれど、一向にその様子はない。
もういいよ! 君がいるとね、仕事が回んないの。分かるかなぁ? あぁ、日本語通じなかったんだっけ? あはは。そうでもなきゃこんなにポカミスばっかするわけないよね? いやいや、気付かなくて申し訳ないねぇ。ソーリー、ソーリー。キャンユーアンダースタンド?
部長、日本語分かんないやつが英語分かるわけないっすよ。確かこの人トイック部内最下位っすよ
あはは。そういえばそうだったか? となると何語で話しゃあ通じんだ?
馬語の鹿訛りならギリギリ通じるんじゃないですかねぇ?
パカラパカラパカラパカラ。あ、鹿訛りだからバカラバカラバカラバカラ
か?
社長、それ言葉というか足音じゃないですかね
俺が馬語の鹿訛りなんてはなせるわけないだろうが。で、お前、通じたのか? 一応、帰れって言ったつもりなんだけどな
はい……通じました。失礼します
それしか返しようがなかった。頭を下げて自分のデスクへと向かう。
くすくすと笑う声が辺りから聞こえる。
やはり怒りは覚えない。感じるのは単純な虚しさ。
* * * * * * * * * * *
間も無く、二番線に、7時14分、快速、東京行きの電車が、参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください
何も動き出せない日常。
何も抜け出せない日常。
何も生み出せない日常。
これになんの意味がある?
何も変わらないのなら。
何も始まらないのなら。
何も報われないのなら。
もう、終わったっていいんじゃないか?
一歩踏み出す。
足元にむけた視線の先にはデッドラインを示す黄色のタイル。
さらに一歩踏み出す。
あと一歩踏み出せば、全てが終わる。
「だ、だずげでぐだざいぃぃ!!」
僕の鼓膜を振るわせたのはとてつもなく汚い声だった。正直、嫌悪感を覚えるほどの。
だ、だずげ……うぐっ……で、だずげて……。
あ…………。
僕はなぜか歩みを止めてしまった。
その汚い中年男の声に。
ど……どうずればいいんだぁぁぁ!
喚き散らす男の声に通り過ぎるサラリーマンや学生、OLがこちらをちらちらと見る。
こんなんじゃ自殺どころじゃない。
あの……どうかされたんですか……?
やめておけ。こんなことは僕の役割じゃない。
そう頭のなかの自分の声が訴える。
自分のこともままらない僕が、この男のためにできることなんて一つもありはしないのだから。
オレは……オレは……
男は取り乱して言葉が続かないようだった。
と、とりあえず落ち着いて……
* * * * * * * * * * *
――なぜこうなったのだろうか。
僕はあのやけに取り乱した男を連れて駅のそばにあるさびれた公園に来ていた。
もうとっくに出勤時間は過ぎている。
今から会社に行っても嫌味を投げつけられるのは目に見えている。
はぁ……。
なんかすいません……。オレのせいで。
僕が買った珈琲缶をぼんやりと見つめながら男は謝った。
いえ……別にいいですけど。けど、どうしてあんなにうろたえていたんです?
自殺間際の自分が何を言ってるんだと思いながら僕は無根拠な正義感で男に問うた。
しかし、男の答えは予想の斜め「下」だった。
いや……あなたに珈琲をおごってもらって落ち着いたら、なんだかちっぽけなことに思えてきました。もうオレは大丈夫です。
え、そんな急に吹っ切れるもんなんですか?
ええ。ちっぽけな自分の悩みなんて所詮はちっぽけなんだって気づいてしまったんですよ。
何を言っているのか僕にはいまいちわからなかった。ただ、なんとなく男の言葉は僕に向けられているような気がした。
じゃあオレはそろそろ行かなくちゃいけないので失礼しますね。
は、はぁ……。
男はベンチから立ち上がって歩き出す。
だが、二歩歩いたところで何かを思い出したように振り返った。
これ。珈琲のお礼です。
男が手渡してきたのは茶封筒だった。中に何が入ってるか書いてあるわけでもなく、宛先が記されているわけでもなかった。
これは一体なんです?
数秒観察してから顔をあげると、なんとそこにはもう男の姿はなかった。
僕はもう一度その封筒に視線を戻す。
封はされていない。だから中身を見ても元に戻せる。
僕は封筒を逆さにして揺さぶってみる。すると中からできたのは一枚の紙だった。
そこにはワープロで打ったのであろう文章が連ねられていた。
自殺をしようとしたあなたへ。
書きだしはこうだった。
僕のことを見透かしたような書きだしだった。
今これをあなたが読んでいるということはあなたが自殺に失敗したということなのでしょう。
あなたはそれを失敗と思うのでしょう。ですが私にとってはそれで成功なのです。あなたが自殺に失敗したことこそが私の成功なのです。
あなたは私のことを知らないでしょう。私もあなたのことはよく知りません。ですがそれでも、私はあなたに生きていてほしい。
身勝手だとあなたは思うかもしれません。しかし、厳しいことをいうようですが、自殺こそが身勝手なのだと私はかつて教えられました。同じように線路に飛びこもうとした私はこの手紙を同じように読んだのです。
なぜあなたは自殺が悪いのか分からないのかもしれません。世の中に必要とされない自分が、自分の意思で死を選ぶことこそ、尊厳なのだと言うかもしれません。
ですが、あなたは何かを成し遂げたのですか?
成し遂げる前に自ら死を選ぶのは、それは責任のがれでしかないのですよ?
責任ある死は、尊厳ある死は、
責任ある生と、尊厳ある命にしかないのです。
ですから、どうか。
死を選ぶ前に、何かを成し遂げようとしてみてください。愚痴ならあの世でいくらでも言えます。
もし私が先に死んでいたなら、愚痴の聞く相手になりましょう。私でなくても誰かがあの世で愚痴を聞いてくれます。
ですから、どうか。
生あるうちに愚痴を巻いて、生を諦めないでください。そんなことでは、あの世でかたる肴もなくなってしまいますよ。
では。
苦しくも、ちっぽけで、どうでもないけれど素敵な人生を。
そして、あわよくば、あなたがn人目の地下鉄ピエロになってくれることを祈ります。
n-1人目の地下鉄ピエロより
僕はなんでか泣いていた。
こんな安っぽい手紙の言葉に、誰からかも分からない手紙の言葉に泣いていた。
けれど、救われてしまった。
お節介で救ったはずの男に救われてしまったのである。
* * * * * * * * * * *
そして話は冒頭にもどる。
結局僕は、人間の相対的弱者に対する自分勝手な同情によって自殺に失敗し、そして救われてしまったわけである。
どういう経緯でそれができたのかは分からないけれど、とにかくあの手紙はチェーンメールのように自殺志願者から自殺志願者へと手渡されてきたのではないだろうか。
自殺志願者が自殺志願者を地下鉄ピエロとして救う。そういうことらしい。
別に何かが解決したわけでもない。
相変わらず僕はお荷物社員だったし、上司にも同僚にも、部下にも嫌われたままだけれど。
でも、今、手に握られた一枚の封筒を誰かに渡すまでは、頑張ろうと思う。
いや、一枚とは言わず、自分が生き続けている間渡せるだけは渡そう。
またどこかで愚かにも命をポイ捨てしてしまうような誰かのために、僕はピエロになる。
間も無く、二番線に、7時14分、快速、東京行きの電車が、参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください
さぁ、また誰かが僕と同じ過ちを「繰り返す」。
だから、僕は「地下鉄ピエロ」を「繰り返す」。
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