チリン、と風鈴が鳴った。人工的でない新鮮で清潔な風。一緒に吹き込んできた蚊取り線香の香りが日に焼けた部屋を満たした。先刻口にした、良く冷えた西瓜の甘ったるさが口に残っている。
君とこの先を過ごすことができないのならせめて、出会った頃の話をしよう
チリン、と風鈴が鳴った。人工的でない新鮮で清潔な風。一緒に吹き込んできた蚊取り線香の香りが日に焼けた部屋を満たした。先刻口にした、良く冷えた西瓜の甘ったるさが口に残っている。
妻の和恵は僕の言葉に反応もせずに、黙って、真っすぐに僕を見ている。若い時分から変わらない、猫のような瞳を僕に向けている。
仕方なしにテーブルの上の現実に改めて向き合う。
『離婚届』という三文字が、実際にはそこにそんなものは介入しないにも関わらず、意志をもって襲い掛かってくるようだ。
出会ってから40年。結婚してから35年。お互いもう60になっていた。
子供はいない。二人で生きてきた。一人で生きていた時間よりもずっと長く、二人で生きてきた。十年前からは、拾ってきた猫もこの家の住人になった。二人と一匹になった。これからもそうだと思っていた。
「なぜ」と思わず口をつく。
私はもう、貴方を愛せないから
愛せなくたって、一緒にいたら良いじゃないか
突きつけられたのは残酷な言葉でも、ずっとだんまりだった妻が口を開いたのがどうにも嬉しかった。
第一、僕だってもう妻を愛しちゃいない。それでも一緒にいたいとは思うのだ。それの何がいけないのか、愛していない相手とこれまで通りにともに生きていく事の一体何が気にくわないのか、僕にはとんとわからなかった。
なあ君、確か君と僕が出会った日も、気持ちのいい風の吹く、よく晴れた夏の午後だったじゃないか
妻はまただんまりだ。僕はその無言を肯定と受け取った。
君も僕も大学の図書館に入り浸っていた。あの日は確か論文を書いていたんじゃないかな。意地の悪い教授の出した論文の課題だ
僕はよく見かけていた君をお茶に誘った。たまたま同じ題材の論文を書いていたのが目に入ったからね。当時の君も、今の君のように最初はだんまりだったな
目を閉じれば当時の妻の姿が映った。目を開ければ今の君がいる。
戸惑う君を半ば無理やり連れだして、大学の近くの喫茶店に行ったんだ。あそこのマスターは気のいい男だったろ?僕のお気に入りだったんだ。それはともかく、確かあの日はピンクフロイドのレコードが流れていたはずだ。当時の僕は喫茶店でフロイドかよ、なんて目玉をぐりぐりさせたもんだけど、今思えば彼のセンスは非常によかった。僕が彼の歳になったからわかるんだ。本当だよ
コーヒーがやってきて一口飲んだら君は途端に饒舌になった。この流れている曲はなんだとか、レポートの進捗だとか、君の友人の話とか、僕に向かってそもそも貴方は誰なの、と聞いてみたり。まるで猫のように気分屋で、愉快だった。今でも猫みたいだけど
こんな風に唐突に離婚届を突き付けてくるところとか、と心の中でそっと続けた。
ぴょん、と猫が僕の膝に飛び乗った。妻のことではなく、本物の猫だ。
ミケはどうするんだ
平凡すぎる、という僕の反対を押し切って猫にミケと名付けたのは妻だった。平凡の何が悪いのよ、と言っていたのをよく覚えている。
ミケは貴方が面倒を見て
妻の言葉に驚く。当然僕もミケのことは可愛がっているし、死以外でミケと離れることは考え難い。しかし、僕のミケに対する愛情よりも明らかに妻のそれの方が大きかった。その妻がミケを手放すという発言をすのには違和感があった。
ミケを置いていくのか。どうして
だって私、貴方がこの先一人で生きて行けるなんて思わないもの
だったら、離婚なんてしないで家にいてくれれば良いじゃないか
妻は黙って首を振った。
君はいつだって大事なことは口にしないな。いつかもそうだった。僕が借金をこさえた時、君は勝手に肩代わりした。もちろん感謝はしてもしきれない。ただ君はそれを愛だと言った。良いかい、独り善がりな自己犠牲は愛ではないんだ
今回もそういう事なんじゃないのか、という言葉はなんとか飲み込んだ。大仰なことを言って違っていたら目も当てられない。離婚届を唐突に突きつけられている時点で既に目も当てられない事態には違いないのだが、ご都合主義の脳みそはそれに関してはこの場は考えなかった。
私ね
妻がゆっくりとこちらを向いた。
貴方のそういうところ、嫌なの。思い出の中にしか生きられないところ
え?
だって、今あなたの前にいるのは今の私なの。思い出の中の私じゃないのよ
何かが刺さったような気がした。早く抜かなければ、という焦燥に妻の言葉が被さる。
思い出が美しいのは当たり前のことよ。でも、思い出には絶対に勝てないの。貴方は過去ばかり見て未来を見ない。私ももう、未来は見えない。私は貴方の思い出には勝てないのよ。だから、思い出になるわ
いつになく大きな声をあげ、妻が立ち上がった。
ぼそぼそ、と何かを口にしたが、聞き取れなかった。五文字なことだけは確かだった。
僕がなにかを言う間もなく、妻は、いや和恵は、立ち去った。
なるほど、思い出には勝てない訳だ。僕は座り込んだまま。君を追いかけることすらできやしない。夕焼けのチャイムが鳴った。
ミケがいなくなってしまった
蝉の声に負けないように隣人に声をかけた。和恵がいなくなってから三度目の夏だ。
なんだって?
ミケがいなくなったんだ。一昨日の晩から
そりゃあんた、猫なんてそんなもんだろうよ
ミケはいつも一日以内には帰ってくるんですよ。あなたの所も昔猫を飼っていたじゃないですか。猫が行きそうな場所とか、何か知らないかと思って
「ああー」と隣人が呻いた。
ミケは何歳だったかな
13です
そりゃああれだな、言いたかないが、猫ってやつは死期を悟ると愛した家族の傍から離れてひっそりと逝くんだ。ま、全部が全部そういうわけじゃないがね。だがな、死ぬ前にミケがあんたの前からいなくなったってことは、ミケがあんたを愛していたってことだ
………
ま、俺らからすりゃ、最後は看取ってやりてえとは思うけどな。あれは猫なりの不器用な愛だと思って受け止めるしかないわな
独り善がりな自己犠牲は愛ではないと僕は思いましたけどね。でも、それを不器用な愛だと言っても良いのかな、と思いましたよ
そうか、と隣人が眼を細めた。
今なら最後の五文字がなんだったのかわかる気がした。
やっぱり、思い出には勝てないのだ。
近所の子供たちが嬌声をあげて走り抜けていく。
いつだったか、どこかで嗅いだことのあるような匂いがする。きっとこれは夏の匂い。思い出の中のあの日に嗅いだ匂いがする。
空は雲一つない快晴で、それでもどこかで狐が嫁入りしたようだ。
水滴が一粒、零れ落ちた。