夏の夜。山の中では、夜風が吹くたびに、さらさらと木々の葉が音を立て、昼間の熱を飛ばしていく。
 僕は涼しくなった縁側に座って、スイカを食べたり、花火をしたり、お喋りをしたり……。
 本当に平和で幸せな夏休みの思い出。
 ただ……一点を除いて。

人生をやり直せるなら、どこからやり直したい?


 まだ十二年しか生きていない、無邪気で無神経な僕の質問。
 隣に座った祖父から表情が消える。僕から視線を逸らし、庭にただ一本だけ立っている向日葵を見つめる。
 大きな黄色の花を咲かせた向日葵は、小学生の僕よりうんと背が高かった。
 毎年、祖父の庭には、向日葵が一本だけ植えられる。僕はお盆休みに帰ったとき、この向日葵と背比べをするのが、密かな楽しみだった。

じいちゃん?


 僕の声に、祖父は視線を僕に戻し、目尻の皺を深くして、笑った。

やり直したいことなんてないよ


祖父は穏やかに言う。

ええ? ホントに? ホントにないの?


僕がしつこく何度も訊くと、また向日葵に視線を向ける。しばらく考え、ため息とともに吐き出す。

そうだなぁ~……二十歳かな


 どうして二十歳なのか、僕は理由を尋ねたが、祖父は曖昧な笑みと言葉で、はっきりした答えはなかった。
僕はそれを無視して、祖父の隣に座るいとこの賢治に訊く。

賢治はどう?


 賢治は困ったように微笑んだだけで、何も答えなかった。
 このいとこが口から出る言葉の代わりに、雰囲気とパントマイムで会話をしようとするのはいつものことだ。
 僕の母の姉が賢治の母で、同い年ということもあり、僕と賢治は仲が良かった。
その年、賢治は両親の離婚のゴタゴタで、夏休みの間は、ずっと祖父の家に預けられていた。

なんで二人とも、ちゃんと答えてくれないんだよ

 僕はふてくされて、立ち上がる。腹が立つ祖父と賢治から離れ、向日葵の方に歩いていく。
 向日葵の頭が、夜風にユラユラ揺れている。
 まるで首を横に振って、呆れて僕を見下ろしている気がして、僕は無性に腹が立って、向日葵を軽く蹴った。

 その途端、腕を強く後ろに引っ張られ、尻餅をつく。
 驚いて振り返ると、祖父が立っていた。
 祖父の表情は、さっきまでの穏やかさはなく、険しい表情に変わっていた。その後ろでは、座ったまま硬直している、賢治がいる。僕は恐怖で何も言えず、座り込んだまま。
 自分を見下ろす揺れる向日葵と祖父の顔。強烈な恐怖と一緒に、僕の記憶に焼き付いた。

 翌年、僕は中学を私立の進学校に行ったせいで、夏休みも補習や塾に通う毎日。祖父の家には行かなくなり、賢治と会うこともなくなっていた。
 疎遠となってしまった祖父と賢治。決して、向日葵と祖父が恐ろしくて、祖父の家に行かなくなったわけではない……と思う。向日葵は苦手になったけど。
 進学校は、常に順位が付く競争社会で、僕はそのスピードに振り落とされないように、必死だった。正直、あの夏を過ごした山の中の向日葵の家のことは、すっかり忘れていた。
 僕が思い出したのは、薄情だと言われるかもしれないが、あの夏から二十年後の夏。
 祖父が他界したのだ。僕は喪主を務める賢治と再会した。

祖父が亡くなったとき、傍にいたのは、一緒に暮らしていた賢治だった。

……久しぶり

おう……


 僕の気まずい挨拶に、賢治は小さくうなずいて答えた。無口なところは変わらないようだ。
 
 葬式は親類と近所の人が少し来ただけで、簡素なものだった。
 その夜、僕は祖父の家に、二十年ぶりに泊まることにした。母親たちは、家が狭いという理由で、町のホテルに泊まっている。
 夜が更けても、なかなか布団に入る気になれず、僕は足音を立てないように、家の中を探索する。二十年ぶりの祖父の家は、何も変わってなかった。
 部屋を出たところで、声を掛けられる。

……眠れないのか?


 賢治が縁側に座っていた。二十年前の夏の夜を思い出す光景だ。

二十年ぶりだから、探索してたんだよ

探索するほど、でかい家じゃないだろ。座れよ


 賢治は呆れたように言って、僕に座るように言った。
 僕は賢治の隣に座り、庭を眺める。
 そういえば、この家に着いてから、葬式の準備の手伝いなどで忙しく、庭を見てなかった。
 庭には……変わらずある一本の向日葵。
 心地よい夜風が頬を撫で、さらさらと木々の葉が音を立てる。
 まるで、二十年前に戻ったようで、隣に座っているのが、賢治ではなく祖父ではないかと顔を見てしまう。
 二十年ぶりの賢治の横顔は、子供の頃の大人しい印象ではなく、眉間に少し皺が寄り、気難しく頑固な印象を受ける。
 二十年の間に色々あったのだろう。僕の顔も自分が気づかないだけで、傍目から見れば、変わっているのかもしれない。
 家は変わらない。でも、住む人は変わっていく。
 しばらく、木々の葉のさらさらとした音に耳を傾けていたが、さすがに飽きる。
 賢治も何か話そうと口を開いては、また閉じるを繰り返していて、近所の池にいる鯉を思い出す。
 僕は仕方なく、二十年分の色々を訊いてみることにした。

じいちゃんとは、いつから暮してたんだ?

十五歳から。……母さんがこれ以上、俺の面倒をみるのは無理だって、預けたんだよ


 賢治は淡々とした口調で、ぽつりぽつりと話てくれた。
 賢治の両親は、二十年前のあの夏休み中に離婚していた。
 賢治は母親と暮らしたが、母親の再婚相手と折り合いが悪く、その鬱憤を外で発散した。何度も警察に捕まり、賢治の母親も耐えかねて、賢治が十五歳の時、祖父に預けた。

……本当に色々あったんだな

まあな……


 賢治は少し間をあけ、視線を彷徨わせ、

……そういえば、二十年前の夜こと、覚えてるか?


 ふと思い出したかのように言ったが、わざとらしかった。それが訊きたくて、声を掛けたんだろう。

もちろん。覚えてるよ。向日葵を蹴って、じいちゃんに怒られたことだろ? ……あれがじいちゃんとの最後の夏だったなぁ


 そう思うと、胸が痛んだ。日帰りでもいいから、顔を出すべきだった。今更思っても遅いけど。

なあ、じいちゃんに怒られる前、お前、俺たちに質問しただろ?

……人生をやり直せるなら、どこからやり直したい?

そう。俺は何も答えなかっただろ? 本当はすぐに答えは浮かんでいたんだよ

へえ。賢治はどこからやり直したい?


 賢治は照れ笑いを浮かべ、

母親の腹の中からやり直したい


 僕の目を見て、はっきりと答えた。

え?


 僕は意外な答えに固まる。
 賢治は目を伏せ、二十年分の色々を話したときと同じく、淡々とぽつりぽつり話しだす。

うちの両親は離婚する前から喧嘩ばかりで、よく母さんが怒鳴ってたんだよ。子供がいなきゃあ、とっくに離婚してるってさ


 ああ、なんて残酷な言葉を……。

つまり、俺がいるせいで、離婚したくてもできなかった。俺が生まれなければ、すぐに離婚できた


 賢治は大きなため息を吐く。

だから……俺を母親の腹に、戻して欲しかったんだ


 僕は賢治に掛ける言葉が見つからず、

……ごめん。あんなくだらない質問して


 謝ることしかできない。仲良しだった同い年のいとこが、僕よりずっと大人で、深刻な悩みを抱えていたことが、ショックだった。
 しかし、賢治は軽く手を振り、そうじゃないと言う。

違うんだ。俺が聞いてほしいのは、俺の答えじゃない。じいちゃんの話だ

じいちゃんの?


 賢治は頷き、立ち上がる。向日葵のそばに行き、花にそっと触れる。向日葵の背は、賢治より少し低い。

優しかったじいちゃんが、この向日葵を少し蹴ったぐらいで、あんなに怒った理由……。じいちゃんにとって、向日葵は後悔と罪だったんだ


 後悔と罪? いきなりの言葉に戸惑う。
 賢治は向日葵に視線を向けたまま話す。

じいちゃん。戦争中、友達から向日葵の種をもらったんだよ。食糧難の時代、向日葵の種は貴重な食糧だ

その感謝の気持ちを忘れないために?

違う。その種をくれた人、兵隊仲間だったんだ。南方の戦場で、その人が飢えと病気で倒れた。じいちゃんに種をあげる代わりに、家で帰りを待つ妻に伝えてほしいって

なんて?

私のことは忘れてくれ。ただ、君の幸せだけを願う……。結婚して、僅か二週間後の出征だったらしい


 強い風が吹き、木々がざわめき、向日葵の首が揺れる。

じいちゃんにも、家で帰りを待つ妻がいた。しかも、お腹には赤ちゃんがいる。じいちゃんは妻と生まれてくる子の為に、何が何でも生きて帰りたかった。だから、種を受け取って……まだ生きているその人を置いて逃げた


 賢治は一息つき、手の甲で額の汗を拭う。山の夜は涼しいが、話に熱が帯びてきて、顔が少し赤い。

じいちゃんは逃げながら、ずっと自分に言い聞かせた。若い妻だったら、また良縁に巡り合うこともある。でも、自分の身重の妻は、そうはいかない……と


 ひどい……何て言えない。みんな愛する人が待つ、家に帰りたかったんだ。

戦争が終わった一年後、じいちゃんは種をくれた人の家に行った。向日葵の種を持ってさ。出迎えたのは……赤ちゃんを抱いた若い女性だった。赤ちゃんは種をくれた人の子で、女性は一人で育てていた

じいちゃんは向日葵の種を渡したのか?

伝言と一緒に渡した。置き去りにしたことも正直に話して、謝罪もした。女性は向日葵の種は受け取って、礼も言ってくれたが……一生許さないとも言った


 僕はやっと祖父の向日葵への思いを理解した。

それから、じいちゃんは毎年、向日葵を植えては……種ができる前に、ナタで花を切り落としている


僕の頭に浮かぶ光景。夏の強い日差しに、振り上げたナタが光っている。じいちゃんの顔は逆光で見えない。
寒気が走る。

せっかく育てた向日葵を……

じいちゃんは耐え切れなかった。夏の日差しに向日葵が焼かれているのを見て、自分も後悔と罪の念に焼かれていたんだと思う


 僕は立ち上がり、恐る恐る向日葵に近づく。
 昔はあれほど背が高いと思っていた向日葵も、今では自分のほうが高い。

……なぁ、手伝ってくれないか?

何を?

種を渡しに行くの。今はもう女性はいないかもしれねえが、その子供は生きてるかもしれないだろ?


 僕は無言で頷いた。賢治は肩の荷が下りたように、安心した顔をする。
 きっとそれが僕に一番言いたいことだったんだろう。
 祖父は向日葵に、後悔と罪を抱き続けた。
 種の女性は向日葵に、夫を失った悲しみと祖父への憎しみを抱き続けたのだろうか?
 向日葵は変わらない。でも、向日葵に託す人の想いは変わっていく。
 僕はわざとではなく、本当にふと思い出す。

そういえば、人生をやり直したい時の質問に、じいちゃんは二十歳って言ってたな。あれは区切りがいいから?

ああ……じいちゃんが出征したのは、二十歳の時なんだよ。……やり直したかったんだろうな


 ……過去は変えられない。それでも、これから僕たちが少しずつ良き想いへ、変えれればいい……。

向日葵の家

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