はじめに。
我が先達であるヴェア・コール。
悪戯の天才と呼ばれた、かの詐欺師が仕掛けた最後のペテン――『赤裸の回想録』にちなんで、俺たちの活動記録をここに記す。
はじめに。
我が先達であるヴェア・コール。
悪戯の天才と呼ばれた、かの詐欺師が仕掛けた最後のペテン――『赤裸の回想録』にちなんで、俺たちの活動記録をここに記す。
静寂の中、聞こえてくるのは女子高生がスケッチブックに鉛筆を走らせる音だった。展示ケースの向こうでは、暗い照明にライトアップされた大粒のピンクダイヤが光っている。
――〈春霞〉
それが、かのピンクダイヤの名前だ。
搬入されたのは一昨日。およそ十日の展示が予定されている。ここ御門市立美術館で企画された「春の宝石展」の中でも一番の目玉で、公開初日には、それなりに人も並んだ。
とはいえ、今日は平日だ。美術館のビジターがもっとも少ない週の頭。加えて閉館間。中にいるのは暇を持て余した老人か、課題のために訪れた学生くらいのものか。
いや――俺。
俺のようなやつもいた。
暇を持て余した老人でもなければ、課題に追われる学生でもない。
俺は平成のヴェア・コールを自称する小悪党である。本名は成瀬一星。
現在は得意の変装で、美術館に潜入中。
展示ケースに映った自分の姿をまじまじと眺める。清潔感のある黒髪に、つり上がり気味の目。濃い蒼色の制服にかっちりと身を包んで、うん、どこからどう見ても立派な警備員だ。くせのある髪を伸ばしっぱなしにした、たれ目の冴えない小悪党を思い浮かべるやつはいないと思う――自分で言うのも悲しいが、身だしなみって大事だよな。
シャツの皺を指先でぴんと伸ばして、俺は腕時計を確認した。
十六時五十五分。閉館五分前。
そろそろ声を掛けるか
…………
課題に集中しているらしい。
視界の中の女子高生は閉館アナウンスにも気付かなかった様子でスケッチを続けている。少女を、俺は後ろからひょいと覗き込んだ。
そういや、絵は得意だって言ってたっけな
思い出し――納得した。確かに、うまい。独創性はないが、どこまでも精密だ。まるでモノクロームの写真を眺めているような気分にもなる。
密かに感心しながら、俺は少女の肩を叩いた。
指先で、軽く二度。ちょっと唐突すぎたかもしれない。小柄な体が、びくっと跳ねた。
わ、わ、わ……!
慌てすぎだ
女子高生の腕から、スケッチブックが零れる。床に落ちる前に、俺はそれを掴んだ。笑い出したくなってしまうのを堪えて、低い声を絞り出す。
失礼
あっ、いえ、ありがとうございます
なんだなんだ。
生意気な悪魔娘が、随分とシュショーな態度だ。
すみません。
閉館時間になりますので……
スケッチブックを渡してやりながら、俺は告げた。比較的近い位置で、目が合う。
…………
少女。
藤崎冥と。
…………
メイと出会うきっかけになった誘拐事件から、一ヵ月が経とうとしていた。別れた日以来、接触はこれが初めてだった。腐っても俺たちは犯罪者だ。父方の祖父母や顔馴染みの警官に面倒を見てもらいながら生活を立て直しつつあるメイに、ちょっかいを出すのはよくない――夕月さんの美学に基づいた自分ルールと、俺なりの分別ってやつ。
それでも暇を見ては隠しカメラの映像を受信して、見守っているつもりで悦に入ってはいたわけだが、まさかこんなところで遭うとは思わなかった。これは断じて嘘じゃないぞ。
あ――……
俺を、いや――
見知らぬ警備員を見つめるメイの目が丸くなる。
なんだ? 惚れたか?
だとしたら、少し。ほんの少し、面白くない。
こいつも冴えない小悪党よりは、いかにも真面目そうな警備員に心惹かれちゃうわけですか
冗談半分。でも実際、そうなんだろうなァと決めつける気持ちも半分。内心そんなしょーもねーことを考える俺を見つめたまま、メイが口を開いた。
コールさん!
ん?
んんん?
今、なんつった。こいつ。
コールさん、久しぶり!
……
…………
………………
な……
なんで、分かっちゃうわけェ!
メイクが崩れたかのかと顔に手をやってしまいそうになって、堪える。んなわけない。ついさっき、展示ケースに映った自分の顔を見たばかりだ。
俺は、自分でも惚れ惚れするほど、完璧に、別人だった――はずだ。
コール?
自分は警備員の市川ですが
胸ポケットにクリップで留めた身分証を指で弾きながら、俺はどうにか告げた。
メイのやつは、きょとんと首を傾げている。
今はそういう設定なの?
バイト中?
だーかーらー!
なんで、俺前提で話を進めてんだよ。
そういう設定?
自分にはなんの話か分かりかねます
顔が、声が、引きつってしまいそうになる。
集中だ。集中しろ
内心動揺しまくる俺。
片やメイは、ふふんと胸を張ってみせた。
わたし、人を見分けるのは得意なんだ。
あと、間違い探しとかも。色や形に関する記憶力が、人より少しいいみたい。だから、頭の中で二つの顔を重ねると――
脇にスケッチブックを抱えて、両手でフレームの形を作る。そこから俺を覗き込み、
ぴったり、重なるよね。トレースしたみたいに。輪郭。耳の形。唇の形。整形でもしないかぎり、そういうのって変えられないし
……なんだそりゃ。
人より少しいいみたい――なんてレベルじゃねえだろうがよォ
どこまでも規格外な悪魔娘に、俺は軽く恐怖を覚えた。それから、ばれないだろうとたかをくくって気軽に声をかけてしまったことに対する後悔も少し。
やっちまった。
どうすっかね、これ。しらを切るのも白々しいが、かといって素直に認めるわけにもいかないので困ってしまう。
目を逸らす俺。
メイは少し考えて、二度瞬きをした。
あー……そっか
謎の自己完結。
二人のおかげで、わたしは元気にやってるから。一人暮らし、楽しいよ。料理はまだ、慣れないけど。それだけ、報告したかったんだ。
まだ見てるか、分からなかったし
言って、首にかけた例のヘッドフォンを指で弾く。
知ってる。知ってますよ。
くそ生意気なメイちゃんが料理ベタだってことは。今朝も、朝飯の目玉焼きを焦がしてただろーが。きょうび小学生だってそれなりに作れるよなって、夕月さんと笑ってやったばっかりだ。
じゃあね。お仕事、頑張って
そんなふうに、食い下がることもなく諦めるから。
はー……
相変わらず、一方的で可愛げのねー女子高生だよなァ
また夕月さんに怒られるんだろうなァと思いながら、入り口の方へ引き返していこうとしていたメイの肩を叩く。
周りに人がいないことを確認して、囁いた。
もうすぐ仕事が終わるから、外にあるカフェで待ってろ。相手してやるからよォ
ああ、もう。
なんで俺、こいつに甘いのかね。
我ながら情けないと思いつつ、女子高生を見る。
メイは――
うん!
ぱっと、顔を綻ばせた。
……しょーもない小悪党を相手に、よくもまあ大盤振る舞いで笑ってくれるもんだ。ついこの間まで、大人なんて頼るもんかって顔してたのにな。こういうところは子供っぽい。
すれた大人の俺は、この手の素直さに弱いのだ。胸がきゅうんとしてしまう。
待ってるからね、コールさん
だから、ここでコールと呼ぶなって
ついでに館内は走らないでください、お客様。
ぱたぱたと駆けていくメイの後ろ姿を見送って、俺は一つ溜息を零したのだった。