朝なんて来なければ良い、と願って眠る夜もあれば、もう二度と目が覚めないんじゃないかと不安を抱いて眠る夜もある。
そうした私の願いも不安もすり抜けて、ジリリリ、という音と共に今日も暴力的に朝が来た。
朝なんて来なければ良い、と願って眠る夜もあれば、もう二度と目が覚めないんじゃないかと不安を抱いて眠る夜もある。
そうした私の願いも不安もすり抜けて、ジリリリ、という音と共に今日も暴力的に朝が来た。
眠い…
誰に聞かせるでもなく呟き、目覚まし時計を乱暴に止める。7:02を示すデジタルの画面を見つめ、早朝会議の存在を思い出す。何が悲しくて朝から脂ぎった上司と顔を突き合わせなければいけないんだ、そもそもなぜ二年目のあたしが会議に参加しなければいけないんだ、と嘆く。
それでもカーテンの隙間から射し込む朝日は眩しくて、あたしは私になるためにモソモソと起き上がった。
やんなっちゃうよなあ…
呟き、顔を洗う。狭い洗面台に水が跳ねて周りを汚したが気にしない。気にしている余裕がない、といった方が正しいかもしれない。
化粧水をつけて、下地を塗って、ファンデーションをつける。ビューラーでまつ毛をあげてアイラインを引き、最後に眉毛を書く。
あたしが、私になった。
上手くなったもんだなあ
鏡に映った自分の顔をしげしげと眺める。大学生の頃、朝に時間をとられるのが嫌で簡単な化粧しかしてこなかった。しかし社会に出ると化粧は簡単すぎてもケバケバしすぎていても駄目らしく、丁度良い濃さの化粧に慣れるまでしばらく時間がかかった。社会人も二年目に入った今では特に手間取る事もない。面倒なのは変わりないが、作業の一つとして身についている。
前日に買っておいた菓子パンを野菜ジュースで流しこんで鞄を方にかけ、外に出る。気分に似合わず晴天だった。雲の一つ一つが大きくて、夏が近いことに気が付いた。
遅い
申し訳ありません
二分遅刻で出社すると、係長のねちっこい説教が始まった。
笹川、社会人としての自覚が足りないんじゃないのか。お前は特別仕事が出来る訳じゃない。だったら尚更、時間くらいは守れなきゃいかんだろう。お前ももう二年目だ。後輩たちに示しがつかんだろう
係長の説教は、ねちっこくて長い。二分の遅刻に対して説教は既に五分は経とうとしている。その説教の時間を仕事にあてた方がよっぽど生産的じゃないか。そもそも、そんなに時間にうるさく言うくせに、終業時間は守られた試しが無いじゃないか。そう思うが言っても仕方のない事だし、遅刻をした自分も悪いからなにも言わない。ただ俯いて「申し訳ありません」とだけ言い続けた。
じゃあ会議を始めるぞ。さっさと会議室に来い
係長が最後にそう言い、大股で歩く。私もそれに着いていく。
会議は、要約すると「経営はピンチだけど頑張って乗り切ろう。具体的な策は無いし残業代は払えないけど皆で力を合わせて夢を見よう」という内容だった。そんなどうでもいい精神論で朝の一時間を使うのなら絶対にその時間を仕事に充てるか寝ていた方がマシだ。そもそも夢を見よう、とはどういう事なのか。夢を見ていたら、私はこんな小さな会社でデータ入力などしていないだろう。
そういえば、と幼い頃に聞いた父親のセリフをぼんやりと思い出す。
「頑張れば夢は必ず叶うから!」とことあるごとに言われた。もしも頑張る程度で夢が叶うのなら、世の中に手取り15万で朝から晩まで拘束され、休日は疲れをとる為に一日中泥のように眠り続ける若者はいないはずだし、会社では部下に煙たがられ、家に帰れば娘に無視をされ、少ない小遣いをどうにかやりくりしてチェーンの安い居酒屋で酒を飲むのが唯一の楽しみの中間管理職のおっさんもこんなにはありふれていないはずだ。
そして、彼らはきっと頑張ってこなかった訳ではない。
ルックスが良くなければモデルにはなれないし、才能も運もなければミュージシャンにはなれない。
世界が人に対して平等でも、世の中は人に対して不平等だ。23年も生きれば、そのくらいのことは誰でもわかる。
そういえば、私も子供の頃は夢を見てたっけなあ。でも、あの頃にとっての将来は今な訳で
要するに今って、将来中、なんだなあ
こんな大人になってる予定じゃなかったけど、なっちゃったもんは仕方ないか、と椅子にもたれて時計を見る。お昼の時間だ。
昼休憩が始まり外出が許されると途端にがやがやと音がし始める。「ランチ食べにいこ」という同僚の女性社員の言葉を合図に私も女性同士の輪に加わり、1000円以上もするランチを食べに行き、彼女たちによる彼氏や旦那の愚痴や、上司の悪口、「はやく寿退社したーい」を聞きながら値段ほど美味しくなく、量も少ないパスタを出来るだけ時間をかけて食べた。
毎日昼ごはんにこんなにお金をかけていたら生活が厳しいな、と思いつつも彼女たちと表面上仲良く振る舞っているのは、ここが社会だからだ。
平穏に、平穏に。
気が付けば、毎日は過ごすものではなく、ただ無為
に過ぎ去っていくものになっていた。
ただいまー。良太、来てたんだ
おかえりー。すげえ疲れたからこっち寄っちゃった
うーん、私も
家に帰ると大学生の頃から付き合っている彼氏がいて、だからと言って疲れがとれるわけでもなかったけれど、とにかく今日は化粧をはやく落とそうと思った。
化粧落としてくるね
洗面所で化粧を落とす。毎度面倒な作業ではあるが、落とさずに寝れば翌朝後悔するのは目に見えている。
春子、なに食いたい?
なんか作ってくれるの?
「作れる物ならなー」とのんびりした声が聞こえる。
じゃあ、ハンバーグ
うーん、そういや、駅前に新しいラーメン屋出来てたよ
ちょっと、食べに行こうとか言わないよね
言うよ。ハンバーグなんて、俺には作れん
威張るところじゃないよね
良太はもう靴を履いている。「もう化粧落としちゃったんだけど!」という声は黙殺された。良太は笑いながらドアを開け、外に出る。それを追いかけ、「あのね」と口を開く。
あたしはきっと、幸せなんだと思う
なんだよきっとって。幸せに自信を持てよ
うん、そうだね
外は少し暑かった。もうスーツの上着はいらないかな、と少し考えた。明日のことは明日考えれば良い。そんな気持ちになった。
どうせ、明日も明後日もその先も大した違いはないもんね
おう。よくわかんないけど、明日も明後日もその先も、俺は春子の隣にいるよ
そういうことじゃないんだけど
思わず笑う。少しだけ良太を羨ましく思って、もう少しだけ愛おしく思った。「あたしは幸せだ」と呟き、大きく伸びをした。月が綺麗だった。