僕が手首を切っていたちょうどその頃、布川は車に轢かれていたそうだ。

クラスのラインでそのことを知らされた僕はそれが冗談でないことを知って以降も、自室のベッドで布団にくるまって座り込んだまま動けずにいた。

自殺か、とか昨日の文化祭のせいか、とか意味のない文章が流れていく中、主犯格の女の子たちの私達悪くないよねとかばい合う寸劇が繰り広げられるのも、僕はただ眺めているだけだった。

時間が経つうちにラインに情報が集まってきて、お見舞いの話をしてた連中が段々と言葉数少なくなる。

どうやら集中治療室で手術中らしく、夜明け方になってもまだ終らないらしい。

とうとう担任からの連絡で布川が死んだ旨が告知される。

葬式に参加する代表者が決まる。

葬式に行ってきた二人が遺書らしきものの五文字を告げる。

『アイシテル』

僕は不登校になる。

気付けば半月ほど休んでいたことになっていて自分で呆然とした。

何度もあの日に何も出来なかった自分の姿を夢に見て時々嘔吐する。

あの日以前の布川との記憶を思い出して泣く。

僕と彼女のいなくなったクラスはしばらくして平常運転となったらしく、クラスラインは前のようにくだらない話題で動き出し、彼らや僕が殺した布川という才能のことはわざとかと思うほど口に出されなくなる。

ふざけるなと思った。

子どもを生む以外に能力のない凡俗どもが神にも届く演奏をする、世界にたったひとりしか存在しなかった才能を、それが彼らにとってつまらないからという理由だけで簡単に殺してしまったんだ。

僕にとって世界にたった一人、かけがえない愛してくれた人を殺すまで追い込んだんだ。

クラスメイトたちはこれからも意味のない行動と価値のない思考をこの世界に積み上げて生きていくのだと思う。

布川が彼ら誰かひとりの代わりにでも生き延びていたら、きっとその演奏で何人もの人を救って、何より僕を救い続けて、世界をもっと素晴らしい場所へと変えてしまっていただろう。

それを殺した才能のない彼女たちだけが子どもを生んで家庭を築き子孫を残す。

その中には僕も含まれていて、彼女を殺したのは実のところ僕という、これまた一人の凡俗だということを知っているから、僕は何度も繰り返し手首を切っては兄貴に殴られる。

ある日、何かに耐え切れなくなって不可解な衝動のままに、兄貴からキーボードを借りて布川が僕のために弾いてくれた曲を弾こうとした。

ド素人にこなせるものではなく、当然ながら音を拾うことさえ難しい。

それでも指の動かし方から練習して、残っていた演奏テープをデータに落として、何日もかけて耳コピをした。

そこまでで最初の一年は簡単に過ぎていた。

僕は学校をやめて、毎日キーボードを弾いていた。

どうしてもペダルや鍵盤の硬さがある電子ピアノが欲しくて、バイトを始めた。

この頃になってようやく布川の家に直接行くことができるようになって、線香を上げて墓を訪れた。

布川の下の名前が杏奈だったのだと初めて知る。

兄貴がいつのまにか就職して、僕はバイトで生活費を稼ぎながら同じ曲を弾き続けた。

どうやっても才能や技量が足りず、テープの再生する杏奈の音に辿りつけない。

文化祭の日の彼女の演奏にさえ劣るだろう。

時たまショパンも弾きながら、練習を重ねた。

テープに残っている以外のアレンジや即興もどうにか思い出して、杏奈が弾いたようにその時の感覚を得ようと何度も何通りも弾き重ねる。

そうして十年が経った。

両親が相次いで死に、兄貴は結婚して家を出て行った。

ギターやCDを実家ごとすべて譲ってくれたけど、最後まで僕のし続けることを止めようとも認めようともしなかった。

そろそろあれから三十年が経つ。

ピアノが置いてあるバーでのショパンの演奏と給仕を同時にこなすバイトも、今度その店が潰れるから別の口を探さないといけない。

僕はまだ杏奈の演奏に到底及ばないし、上っ面の真似ごとはある程度うまくなったけど、その心情を演奏に反映させるまでには届かない。

真似しようとして初めて彼女がどれほどの情熱や想いを抱えていたのかを知った時、僕は確かにそこに杏奈がいるような気がした。

彼女はこんな存在だったのだと、本人の記憶以上にその演奏が語りかけてきた。

僕はどうして自分がピアノを弾き続けて彼女の演奏を目指すのか、やっと思い知った。

その果てしないピアノの道の果てに、彼女が確かに立っているからだ。

僕は技術を磨いて、彼女の演奏にまでたどり着いた時、その演奏の最後の一音を押し切った時、彼女と真の意味で再開できるのだと本能で理解していた。

僕はピアノを弾く。

それは祈りだ。

鍵盤の先で待つ彼女にたどり着くか、もしくはこのまま僕が死ぬその日まで、それは終わらない旅路だ。

他の一切を投げ捨てて、ただひたすらに、誰もあとに続かない彼女へと通じる僕だけの道を歩み続ける。

彼女の背中は遥かに遠いけれど、この曲を演奏する一瞬だけ彼女の静かな視線を感じる。

本当にたどり着けるのかもわからないまま発狂しそうな苦しみを背負って、ただそれだけを頼りに弾き続ける。

才能の先に手を伸ばし続ける。

それは祈りだ。

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