去年、彼女の立ち位置にいたのは僕だった。

別に自己紹介でやらかしたわけでもなく、それどころか未だに、原因なんてものはこれといってなかったけれど、何となくクラス全体がそういう雰囲気になってしまったのだと僕は思っている。

だからたぶん運が悪かっただけで、僕は去年一年へらへらイジメられてないみたいな顔をしてイジラれ続けていたのだ。

不快だった。

だから正直、無事に布川が今年の標的に決まった時はホッとしたし、多少の後ろめたさを抱えつつも帰ってから一人、自室で喜びの余り叫びだすことさえしたのだ。

そのはずなのに、最近彼女から目が離せない自分に戸惑う。

それは恋だね


馬鹿な兄貴に期待せずにふっと相談したらそんなセリフが返って来た。

やっぱり馬鹿だ。

兄貴はギターでコードを抑えながら、くへへと笑う。

兄貴とは元々仲が悪いわけではなかったけど、こんな話までできるようになったのは最近だ。

というかつまり去年。

僕がクラスでイジラれ続けるストレスに耐え切れずリストをカットしてた時期にそれを見つかって殴られて以来だ。

馬鹿な兄貴は馬鹿だけどそこそこに卑怯だったから、生まれて初めて人を殴ってしまった拳をさすりながらそれは時間が解決してくれるよと言ったっきり、何ら行動を起こすこともなくただひたすら僕に音楽を与え続けた。

兄貴曰く、それは弱者の抵抗たるブルースだった。

奴隷制に虐げられるアメリカの黒人たちが発明した、たった三つのコードをリズムや独特のスケールで即興的に掻き回す音楽。

それはロックやジャズの原型となり、すべての世界で何処にも辿りつけなかった弱者たちをひたすらに救い続けた。

でも僕は正直そんな兄貴の長広舌にうんざりし、そのテンポの遅さにうんざりして、結局僕がまともに聞いたのは一緒に貸されたジャズくらいだった。

発狂したみたいに音の足りないフレーズを叩き続けるドラムはそれこそ酔っぱらいが演奏してるとしか思えないのに気付けば身体が揺れ、気持ち悪いくらいに正確なリズムとそこからずらしてグルーブを自然に生み出すベースに引き摺られる。

なんといっても死にたくなるのは高音から低音までを駆け抜けて狂言回しのように技巧フレーズを即興で打ち出し、気付けば打楽器も兼ねて平気の顔をして他のソロの裏方をしているピアノだ。

僕は黒人やイタリア人が酒のためだけに奏でた音楽に酔いしれた。

ふざけんなって笑いながらその演奏を、小遣いをはたいていくつも買い集めた。

ブルースこそ歴代最高の音楽だと信じている兄貴は若干不満顔だったけど。

それでも僕が去年一年を自殺もせずに生き残ったのは兄貴の与えてくれた音楽という世界のおかげなのだ。

せめて教室に殴りこむくらいしてくれれば同じ学校の年上なんだからもうちょっと現実に解決もできただろうけど、そこはそれ。

僕の兄貴だから期待するのも野暮というものだ。

実際彼の言葉通り、僕の顔見知りは全員別のクラスになって、僕はその役割から解放されて、布川が代わりにイジメられるようになった。

時間が解決してくれたといえばその通りだろうけど、僕はやっはりどこか釈然としない。

いや、君はさ――


兄貴は僕のことを君と呼ぶ。

つまり君は、俺が思うに悪くないわけだよ


兄貴は弟よりギターの方が気になるようで、コードを進行させながら頷くように呟いた。

悪かったのは運でさ。
だから君は環境の変わるきっかけで、普通にやっていけるってさ。
信じてたんだけど、まぁね


要領を得ないしゃべり方は兄貴がギター弾きながらの時の癖とはいえ、年中ギターいじってる兄貴のそれはもはや手遅れの段階に達していて、人によっては苛つくこともあるんじゃないだろうか。

僕なんかは毎度途中からだんだん腹が立ってきて、彼が実際的な話を始める前に部屋から出て行ってしまうから、まともな兄貴の語り方と言うのをブルースに関連する以外では聞いた事はない。

いつか弾いてる途中のギターを取り上げてみたら、存外その口からいろはにほへとくらいは脈絡のある文章が聞けるかもしれない。

ようは誰の記憶にも残らないようにしとけばいいわけよ。
わかる?君がどんな人間で誰で何処住みで、てかラインやってるって訊かれないように、常々ね。
頭をこうぶつけないように低く、姿勢で態度を示して生きていけばるるるるる


途中から歌い出した兄貴がこの件についてまったく頼りにならないと気付いた僕は、適当なタイミングで自室に戻った。

電気も点けないままに僕は暗がりを手探りで、机の上の手紙を手に取る。

よくよく考えて見れば兄貴の在学中三年間、ついでに無駄と知りつつその前の六年を思い返してみたところで、その学生生活中、彼の周りには浮いた噂のひとつも聞いたことがなかった。

やはり相談する相手を間違えたに違いない。

それは恋だね。

と言ったのだってたぶん当てずっぽうでさえない何かの歌詞だろう。

とはいえ、やはり兄貴の言葉は微妙に当たる。

ミュージシャン志望ニートより占い師見習いニートにでもなればいいんだ。

もちろんというか、占い師にありがちな現象で、その言葉に対して占われた僕本人としては多少の言い分も不満もあるのだけど。

……ラブレターもらったくらいで恋に落ちるかよ


ラインでぱぱっと済ませて明日のデートの予定まで立てるのがまともな頭をしてるやつの今風の手順だ。

ラブレターなんて遺物、もはやラノベでさえ見かけない。

しかも靴箱に入れるとなると、時代を少し跨がないと事例として歴史上に存在しない気さえする。

しかしそれは僕の目の前で簡潔な文章の中に甘い言葉と待ち合わせ場所、そしてA.Hukawa。

だからお前の下の名前、何なんだよ、って。

pagetop