淡い微笑みを浮かべた少女のようなあどけない姿にその年初めての雪がふわりふわりと舞い降りる。
初雪を抱き締めようとするように両腕を広げ天を仰ぐ、その姿に心を奪われ俺は思わずシャッターを切る。何回かシャッターを切ると、あとは惚けたように彼女の姿に見入っている自分がいた。
「初雪って暖かいですね」
思いがけない言葉が彼女の口から発せられた。それが自分に向けられたものだと彼女の視線で気付く。
「初雪って暖かいですね」
俺のほうへ歩み寄りながら彼女が再度言う。
雪が暖かいなんて、何を言っているんだろう。疑問がそのまま顔に出る。
「だって、初雪ってすぐに溶けちゃうのに、降るだけで心が浮き上がるようにわくわくするから」
微笑みながら言う彼女の声音はまろく耳に心地よかった。
「写真、出来たら貰えますか?」
気づかれていた。俺は思わず顔を赤らめて頷く。これが、彼女との初めての会話だった。
「雰囲気のいいカフェ知りませんか?」
その少女が続けて言う。俺はすっかり彼女のペースに巻き込まれていた。
「街中で良ければ」
「じゃ、連れて行って下さい」
俺は思わず頷く。豊平川の河川敷にいた俺たちは地下鉄に乗りススキノで降りた。そこからやや東に向かいとあるビルの地下へ降りる。
そのカフェは照明が薄暗く、ガラス張りの床の中にはカラフルなビー玉が敷き詰められていた。
「素敵」
床を見て彼女が呟く。恐る恐るガラスの床に足を踏み入れる彼女と俺は向かい合わせのソファ席へ座り二人ともコーヒーを注文する。
「煙草、吸ってもいいかな」
相手が喫煙者かわからない時は必ず確認するようにしている。
「どうぞ」
煙草に火を点けて煙を深く吸い込むとやっとペースが戻ってくる。煙が彼女に流れないよう、上を向いて煙を吐き出す。
「写真、いつ貰えますか?」
一服し終えたタイミングで彼女は訊いてきた。
「一週間後にここで今日と同じ時間でどうですか?」
俺が答えると彼女は微笑みながら頷いた。
コーヒーを飲みながら、いつの間にか俺は自分の趣味や仕事など色んなことを話していた。
「そういえば、名前聞いてなかったね。俺は藤原遥。藤原は普通の藤原、遥は遥か彼方のはるか」
「橘六花。木偏の橘に漢数字の六とお花屋さんの花。ろっかと間違われるけど、りっかなの」
笑いながら言う彼女の唇に見惚れていた俺はちょっと反応が遅れる。そんな俺を小首を傾げて彼女が見る。
「可愛い名前だね」
やっと言えた言葉はあまりに平凡だった。
「ありがとう」
くすりと笑いながら彼女は言う。
「遥さんもいいお名前ですね」
思わず顔が赤くなる。慌ててまた煙草に火を点けて誤魔化す。
「煙草を吸う男の人の指って、なんだかセクシーで素敵」
率直な褒め言葉にどう返していいのか戸惑う。俺はからかうような眼差しに翻弄されていた。
「じゃ、また来週」
そう言うと彼女はひらりと立ち去った。
連絡先を訊く間もなく、ただ名前だけを残して。

翌週、俺はプリントした写真を持ってあのカフェに行った。ふんわりと微笑みながら両手を踊るように広げているあどけない面影の少女の写真。
しかし彼女はいつまで待っても現れなかった。
一時間待ってみたが彼女が現れない為、ふと思い立って彼女と出会った豊平川の河川敷へと行ってみることにする。
河川敷へと降りる石段にちょこんと座っている少女、そう彼女だった。
「ねぇ、今日は雪が降らないのね」
振り向きもせずに彼女は言う。
「どうしてあのカフェに来なかったの」
彼女は答えずに石段をステップを踏むように下り、河川敷へと舞うように降りる。
「写真、できた?」
「うん、これ」
鞄から写真の入った封筒を取り出し彼女に渡す。すると彼女は封筒をコートのポケットに入れると美しいピルエットをくるくると数回回って見せた。
「ありがとう」
くすくすと笑いながら、しかし真剣な眼差しで彼女が言う。
「ねぇ、遥さん、そろそろもう自分を許してあげたらいいんじゃないかな」
突然何を言い出すのだろう、この子は。
「いつまでも自分を責めていても誰も救われないよ」
彼女は続ける。
「奏ちゃんは遥さんが幸せになることを願っているの。だからもう泣かないで」
言葉が胸に刺さる。俺の妹のことを何故知っている。衝撃に思わず膝をつく。
「どうして」
やっと顔を上げた時には彼女の姿はもうなかった。

それ以来、俺は毎週同じ曜日、同じ時間に六花の姿を求めて豊平川の河川敷に通うようになった。しかし雪が降り積もり河川敷へ降りられない季節になっても彼女に再び会うことは出来なかった。
河川敷に降りられないようになると今度は俺はあのカフェへと通うようになった。
たった一人、ソファ席で向かい合う相手もないままに煙草の煙を上に吹き上げる。
そんな日々を重ねて季節が変わり、春を迎えた頃。俺はまたあのカフェにひとりでいた。
「遥さん」
聞き覚えのある笑い含みの声。驚いて顔を上げると六花が向かいの席に座ろうとしていた。
訊きたいことがありすぎて咄嗟に声が出ない。
「遥さん、元気じゃないね」
「あ、あぁ」
俺の顔をのぞき込むように上目遣いでそっと彼女が俺を見ている。
「奏のこと、どうして」
俺はやっと声を絞り出す。
「私、奏ちゃんと同じ病室にいたんです」
妹に同室者がいたことなど全然覚えがない。
「覚えてないんですね。しょうがないか。奏ちゃん、お兄さんがよくお見舞いに来てくれるからすごく喜んでいたんですよ。自慢のお兄ちゃんだって」
「そうなんだ」
「なんだー、つれない返事」
「ごめん」
「奏ちゃんからの伝言、どうしても伝えたかったから会いに来たのに」
「伝言?」
「うん」
やっぱりくすくすと笑いながら、しかし真剣な眼差しで彼女は頷く。
「奏のお兄ちゃんがお兄ちゃんでよかったって。奏の分もいっぱい人のこと好きになって、いっぱい幸せになって、いっぱい笑ってねって」
彼女が俺の頬に手を伸ばして拭う。そう、いつの間にか俺は泣いていた。
「たくさん泣いたら、今度は笑ってね」
彼女はテーブルに身を乗り出すとふいに俺の唇に自分の唇を軽く重ねた。そしてまたひらりと席を立って去っていった。
急いで会計を済まし彼女を追いかけるが街の往来には彼女の姿はなかった。

俺は久しぶりにおふくろに電話をしてみた。奏の病院での同室者について何か覚えがないかどうしても確認したかった。
「母さん、俺。久しぶり」
「あんたが電話してくるなんて珍しいね。どうしたの?」
「奏のことなんだけど」
「...なに」
おふくろの口調が微妙に重くなる。
「奏が病院にいた時に同じ部屋にいた女の子のことって覚えてない?」
「さぁねぇ。あの頃はあの子のことでいっぱいいっぱいだったから」
「そうだよな」
さすがに覚えていないか。電話を切ってしばらく考える。まだあの当時の看護師さんは病院に残っているだろうか。
とりあえず動いてみるしかない、俺はそう考えて奏が当時入院していた病院を訪ねてみることにした。
病院の建物はすでに新しく建て替えられており当時の面影は何も残っていなかったが、とにかくナースステーションを訪ねてみることにする。
「遥君?」
年配の女性の声がかかったので俺は思わず振り返る。
「やっぱり遥君だ、随分立派になって」
看護師の制服に身を包みしゃんとした姿で立っているその女性は、奏が入院していた当時よくお世話になった看護師さんだった。
「お久しぶりです」
ぺこりと頭を下げる。
「どうしたの、今日は。誰かのお見舞い?」
「いえ、ちょっと伺いたいことがありまして」
「あらそう、ちょっとなら時間があるから、こっちいらっしゃい」
その看護師さんは俺をナースステーション正面にある面会室へと招く。
ソファに向かい合って座るとしみじみと看護師さんはため息をついた。
「奏ちゃん、残念だったわね。でもね、遥君が毎日お見舞いに来てあげてたからあれだけ頑張れたのよ。あなた偉いわ。本当によく頑張ったわね」
奏は拡張型心筋症という難病指定の病気の為幼い頃から入院生活を送っていた。内科的な療法も試みてみたものの残念ながら効果が得られず、残る期待は心臓移植、しかし未成年への臓器移植は日本国内では難しく奏も海外での移植を検討していたのだ。しかし間に合わなかった。
「あの、奏の同室の子で橘六花さんってご記憶にないですか?」
「たちばな、りっかさんねぇ」
看護師さんは記憶の倉庫をひっくり返すように一生懸命思い出そうとしてくれている。俺はじっとそれを見守る。
「ああ!思い出した」
彼女はぱっと顔が明るくなったかと思うと急に顔を曇らせた。
「六花ちゃんねぇ。確かに奏ちゃんと同じ病室に入院していたわ。でも...」
「でも、どうしたんですか」
胸がざわめく。
「六花ちゃん、拘束型心筋症っていうとても珍しい病気でね、残念だけど...」
「...亡くなったんですか」
「そうなのよ。奏ちゃんが残念なことになった後、すごく力を落としちゃってね。奏ちゃんの後、すぐに。あの子、バレリーナになるのが夢だって、元気な時にはくるくると回って踊って見せてくれたのよ」
「そうでしたか」
「六花ちゃんがどうかしたの?」
「いえ、奏に関連することは少しでも知っておきたくて」
「そう。少しはお役に立てたかしら」
「すごく助かりました。ありがとうございました」

俺の手元には確かに彼女の写真が残っている。触れた唇の感触や頬に触れた手のぬくもりも。
茫然とした思いで俺はまた豊平川の河川敷へと向かっていた。
やはり彼女はそこにいた。華麗にピルエットを決めて見せると俺に鈴のような声で笑いかける。
「遥さん、ほら笑って」
「ねぇ、君は誰なんだ」
「橘、六花。こないだ言ったじゃない」
「奏の入院していた病院に行ってみたんだ。橘六花さんのことも看護師さんに聞いたよ」
「そう、聞いちゃったのか」
寂しそうに彼女が俯く。
「まぁ、いいや。私は奏ちゃんからの伝言を残すために時間をもらったんだもの」
「え?」
「奏ちゃんの為にも、いっぱい幸せになってね」
小首を傾げ、彼女は俺の頬にそっと自分の手をあてる。そして俺の目を閉じさせると羽根のように柔らかな唇で俺の唇に触れた。
その柔らかな感触がなくなった瞬間、俺は目を開けた。しかし、そこにはもう彼女はいなかった。
頬にはらはらと冷たい感触が落ちてくる。見上げるとそれは、季節外れの雪だった。

雪の華の舞う頃(ショートショート)

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