古いドラマや小説では死を考えた者が深夜にタクシーを拾って「海まで」と頼むことがある。時期は明言しないが私自身もくだらない感傷に浸ってそのような行動に走ったことがある。今思うと何故そのようなことをしたのか定かではないが、おそらく手ごろなナルシズムに浸っていたのだろう。

とにかく私はよく澄んだ秋の夜、タクシーを拾った。

お客さん、どこまで?

海までお願いします

お兄さん、海だと県をまたぐよ

私が住んでいたのは埼玉県。海のない県だ。

構いません

一番近い海でも良いのかい?

はい

運転手ははいよ、と呟きアクセルを踏む。タクシーは深夜の道をゆっくりと走った。住み慣れた町が景色の一部に変わっていく。すれ違う車。ふらふらと歩道を歩く酔っぱらった若い男女。街路樹。それを照らす街灯。

車内はしばらく無音だった。会話もラジオもカーナビの音声すらない外界と切り離された空間で、料金メーターだけが一定の間隔を守って動き続けていた。
そんな中で口火をきったのは運転手だった。

お兄さん、死ぬのかい?

露骨な質問だった。
私が返事をしないでいると、彼は小林、と名乗った。

小林は60代の男性だった。髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。年齢以上に老けて見える外見は、私に少しばかりの安心感を与えた。私は小林に素朴な疑問をぶつけた。

深夜にタクシー拾って海までなんて言う人、結構いるもんですか?

我ながらくだらない問いかけだった。少なくともこれから死のうという人間が抱く疑問ではないだろう、と思った。しかし私はこの期に及んで、まだ誰かと関わりを持ちたかったのかもしれない。

どう思う?

小林はこちらを振り向かずに言った。

いないんじゃないですか?

いるんだよな、それが

いるんですか

私は、私自身がまさにそういう人間であるにも関わらず驚いた。

いるよ。昭和のドラマではよくそんなシーンがあったからなあ。心中しようと思って海まで、なんてね。40代くらいかな、そんなこと言いだすお客さんが多いのは

みんなね、言うんだよ。やれ借金をこさえただとか、不倫相手に子供が出来て相手の旦那に訴えられた、とかね。ま、そうは言ってもそんなお客さん10年にいっぺんくらいしか巡り合わないけどね

そういう自殺をするつもりの人を乗せた時、やっぱり止めるんですか?

止めないよ。だって、放っておいたって死なないもの

小林が大きな声で笑った。タクシーが発車してしばらく経つが、彼の笑い声を聞くのは初めてだった。

これはあくまであたしの経験と、それに基づくデータの少ない統計でしかないけどね、本当に死ぬつもりがある人は深夜にタクシー拾って海まで、なんて言わないんだ。だって、そんなことすれば大抵は「なんかあったのかな」って運転手に思われるし、理由も聞かれて死なないように説得されるなんて、わかりきってるじゃない。本当に死ぬ気ならさっさと飛び降りるなり睡眠薬飲むなりすると思うんだよね

だからね、結局タクシー拾って海まで、なんて言う人は誰かに自分の話を聞いてほしいんじゃないかって思うんだよ。まったくの赤の他人にね。そうして、他人の説得という名の優しさに触れて「もう少し生きてみるか」なんて思いたいんだな、心の中では。もっとも、これは個人的な意見だしこれを言ったところで本人は認めようとしないわけだし。だからね、あたしは何も言わない。止める気はない。これはあたしなりの自己陶酔なんだな。

「じゃあ」と私は口を開いた。

どうしてさっき死ぬのかなんて聞いたんですか?

お兄さんが若いから。だから、純粋に興味があった。もう一度聞くけど、お兄さんは死ぬのかい?

どうでしょうね。死ぬつもりで海まで向かってもらってるんですけど

小林は何も言わず、車内は再び沈黙に包まれた。

どれくらい走ったのだろう。車窓からは海が観えた。タクシーはきっともう間もなく止まるだろう。そんなことを考えているうちに、速度が緩やかになっていく。波打った景色がやがて固定された。
「着いたぞ」と小林が呟き料金メーターを顎でしゃくった。料金は30000円近かった。私は30000円を小林に渡し、僅かばかりの釣銭を受け取った。タクシーを降りると小林も降りてきた。

お兄さん、煙草吸う人?

吸います

だろうな。夜の海に来ちゃうような奴は大抵煙草吸うんだよ

それも統計ですか

いや、これは偏見だ

小林が大きな笑い声をあげ、胸ポケットから煙草を取り出した。釣られて私も取り出し、お互いに火をつけた。
揺らめく紫煙を眺めながら、紫煙なんて名前を付けたのは一体誰なんだろうかと考えた。煙草を吸っている間、波の音だけが鳴っていた。

小林が煙草の火を地面で揉み消し、私もそれに倣った。さて、と小林が口を開いた。

死ぬのか?

帰りますよ

ま、死なねえよな。お釣り受け取ったし

小林がにやりと笑った。たしかに、お釣りはこれから死ぬ人間には必要のないものだった。

また、俺の自己陶酔が人の命を救ったな

小林がまた大声で笑う。静かな夜な分、その笑い声は際立った。
実際のところ、私自身なんで死ぬのをやめたのかはわからなかった。そもそも死のうと思った理由もわからない。理由なんてなかったのかもしれない。

よし、乗れ

小林が威勢よく言い、私は素直に乗り込んだ。タクシーは行きより速いスピードで夜を滑っていく。一時間程走って、小林が口を開いた。

あのな。本当は、海についてからそいつが本当に死のうとしたら、俺は全力で止めるんだ。「やめろ、死ぬな!死んだら悲しむやつがいるぞ!なんてな」

なんで止めるんだと思う?

後味悪いからですか?

ばーか、金の為だよ。生きてりゃ帰りの料金だって貰えんじゃねか。な?!

小林が精いっぱい作ったのであろう悪そうなにやけ顔でこっちを振り返った。私も笑みを返してシートに沈み込み、顔を覆った。泣きそうな、それでいて笑いだしそうな不思議な気分だった。
料金メーターは730円のままだった。

昔、死のうと考え深夜のタクシーを拾って「海まで」と頼んだ時の話

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