売れ残った醤油どぴゅどぴゅをリアカーに積んで、あたしとデボゲレアクロシェンモは夕方の、人のいない住宅街をとぼとぼと歩いていた。

ミミミ

これは売れるって云ったじゃん

クロシェ

売れると思ったんだけど

ミミミ

全然売れなかったじゃん

クロシェ

ミミミだって売れる売れるって云ってくれたじゃん

 あたしはデボゲレアクロシェンモを睨む。さらさらの黒髪のすぐ向こうで、これでもかと言わんばかりにカーディガンを押し上げる巨きな胸が上下に揺れた。憎らしい。妬ましい。デボゲレアクロシェンモとは古代パノン語で「大いなる美の神のしもべ」という意味らしい。長いし美しくないのであたしはクロシェと呼んでいたが、名付け親である母親に「うちの子のことをしもべ(クロシェ)なんて呼ばないで!」と怒られるので仕方なくフルで呼んでいる。デボゲレと呼ぶには彼女は美しすぎた。デボゲレが「美の神」の部分らしいが。

ミミミ

どうすんのよ、百均で水鉄砲を10グロスも買っちゃった

クロシェ

あたしは醤油を10斗買ったもんね

ミミミ

105円の1440個っていくらよ、15万?

クロシェ

醤油は5万円でお釣りが来たかな

ミミミ

やっぱりアンタ、水鉄砲代ちょっと持ちなさいよ

 やぁよ、とクロシェ(もうこれでいいや)は逃げる素振りをする。途端にリヤカーがずんと重くなって、あたしはうっとなる。家まではまだしばらくかかる。
 車の後ろに回りこんだクロシェは車を押してくれるのかと思いきや、積んだ箱から醤油どぴゅどぴゅを出して両手で構えてみせた。紫色の透明なプラスチックに、醤油の黒がたぷたぷと踊っている。やー、としばらく標的を探してウロウロしていたが塀の上の猫に気がつくと追いかけていった。当たり前だが猫は逃げた。

クロシェ

ねー、猫が逃げる

ミミミ

逃げるに決まってるじゃん

 逃げないものを撃とう、と他所の家の前の鉢植えのサボテンを狙う。ちょうど咲いていた赤い花が醤油まみれになる。「SATOH」という合板の表札に醤油が斜めにかかる。これがホントの「さとー醤油」などと思いついたが口には出さない。

クロシェ

これがホントのさとーじょーゆ

 イヒヒヒ、とクロシェが笑う。矯正の末の綺麗な歯並びが羨ましい。

クロシェ

こんなに面白いのにねえ

ミミミ

売れないの、ねえ

クロシェ

あ、そうだ。料理屋さんでさ、隣のテーブルに向かって撃つのはどうだろうね。あちらのお客さんからです、みたいな。みたいな!

 遠くからサイレンの音が聞こえてきて、やがて消防車がリアカーぎりぎりに道を通って先に行ってしまった。先に火事があるらしい。

ミミミ

やだね

クロシェ

やだね。通れるかね

ミミミ

さすがに火事には役に立たないものね


 夕焼けと藍の混じる空をしばし眺めてみたが、とりあえず煙は立ち上っていないようだった。
 しばらく黙って歩いている。もうよろよろに疲れていた。クロシェが並んで歩いている。

ミミミ

後ろ、押してよ

クロシェ

アタシたち、これからどうなっちゃうのかな

ミミミ

なによ、急にセンチメントすか先生

クロシェ

お休みの日に馬鹿なことして、明日は月曜日。ああゆううつだ、ゆうーつだ

ミミミ

アンタ、明日も休みじゃん

クロシェ

そうは云ったってね、悲しくなるものなのよ。ああ笑点が始まっちゃう、ちびまる子ちゃんはどうでもいいけどサザエさんが始まっちゃうー、って

ミミミ

小学生の時からの刷り込みみたいなもんかな

クロシェ

そうかもね。サザエさん現象、とかテレビが名前をつけちゃったからかもしれない

ミミミ

で、今何時よ

クロシェ

どれ――あ、5時15分だ。まだ笑点に間に合う。急ごう

ミミミ

急ごう、って間に合うわけ無いじゃん、これでリアカー返して、水鉄砲何とかしなきゃ


 クロシェは黙ってリアカーの後ろに回った。やっと荷台を押してくれるのか、と思いきや、また別の水鉄砲を持ち出してきた。

クロシェ

ね、ね。これ、どうするの?

ミミミ

とりあえず押せよ。水鉄砲は後で考えるからおせよ。まぁ押せ。押して。いいから


 へあはっ、と妙な気合の入ったような入らないような。それでもなお余りある力で荷台はぐいと押され、アタシは前のめりに倒れこむ。

ミミミ

喧嘩売ってんのか

クロシェ

いやぁ、ミミたんならなんとかしてくれると思った


 ごめんね、と、へらへらっ、という擬態語が宙に浮いてうすら可愛い。もうこいつ、どうしてくれよう。
 不意に煙の匂いが鼻をかすめた。やっぱり近くで何かが燃えているようだ。クロシェは不意に刑事ドラマよろしく水鉄砲を構えると、道の先へと走っていった。十メートル先ぐらいに四つ角があって、角の壁に身を寄せている。が、数秒で飽きたらしく、素に返って角を覗きこんだ。

クロシェ

ミミたん、すごい人が火事だよ。いや、火事がすごい人

ミミミ

そんな家事のすごいスーパー主婦は知り合いにいないけど

クロシェ

いや、そうなんだ、火事ですごい人なんだ。よく燃えてる


 リアカーを不思議そうにみて通り過ぎる人の視線が気になりつつも、あたしはクロシェに追いついた。道を右に折れるとたしかに真っ黒な煙と真っ白な煙がまだらに立っていた。もうすでに消防車は到着していて、消防士や警官の制服と同じくらいに、野次馬と思しき人が立っている。

クロシェ

通れないじゃん。ということは帰れないじゃん

ミミミ

別に迂回したらいいよ


 迂回かぁ、とつぶやきながら、あたしの身体とリアカーは火事の現場に向かっていた。見に行くの? と不思議がるクロシェに

ミミミ

帰るのよ

と返事したような呟いたような。

クロシェ

火事が見に行きたいだけなら、その車を置いて行きなさいよ

ミミミ

クロシェは見に行かない?

クロシェ

私はそうね、早く帰りたい

ミミミ

そっか


 再びかたつむりは進路を変える。変えようとして道を塞いで、またあらたに走ってきた消防車の邪魔になったりした。
 クロシェの云う通り、まわり道で帰るのである。まわり道には子の日坂と呼ばれる桜並木の名所があって、上るのに今からうんざりするのである。

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