まずい・・・。やっちまった。

床から伝わる寒さにすっくと目が覚めたぼくは、慌てて枕元の時計に手を伸ばした。

案の定、嫌な予感は的中していた。隣でぐっすりと寝入る女の顔をちらりと見て、ぼくはどうしたものかと宙を仰いだ。窓の外は薄暗く、昨晩からの雨は相変わらずしとしとと降り続いている。

ふうー。しゃあない。今日はあきらめるか。

大きな溜息を一つ吐きながら、すばやくスマホから会社の電話番号を押してみれば、すぐさま事務の吉村さんのおっとりした声が耳にひびいてきた。

はあい。みつもと商事でございまあす。

おはよう。谷本ですけど、体調が悪いので今日は休みます。部長によろしく。

わかりましたあ。伝えておきますね。お大事にー。

電話が切れると、ぼくはすっかり拍子抜けしてしまった。悶々とした気持ちでテレビをつければ、男の割に甲高い声をしたアナウンサーが、若手俳優の浮気発覚について真剣な表情で伝えている。

くだらないと思いテレビを消そうとしたちょうどそのときだ。

本当、男ってバカだよねー。

いつの間に起きたのか、横で寝ていた女が、小さな声でつまらなさそうに呟いた。

あ、起きた?今日バイトは?

うーん、休んじゃおっかな

昨日飲み会で知り合ったフリーターのカナは、まったく帰る素振りがなさそうだ。

じゃあ、する?

うん、いいよ。

ぼくが冗談交じりに訊ねれば事も無げにすんなり頷く。随分軽いなと驚いたものの、ぼくは行き場のない気持ちを今すぐにでも発散したくて堪らなかった。

カナは何食わぬ顔をしてベッドから跳ね起きると、ピンクローズの香りをまとって洗面所から戻ってきた。

あっ・・・。これは、一ヶ月ほど前に別れた奈美が愛用していた香水の匂い。

女が手にする淡い桃色の瓶を見た途端、ここ数週間必死に忘れようとしていた奈美のことが急にはっきりと思い出されて、胸が痛んだ。と同時に、隣に座る女を抱く気が、どんどん薄れていった。

これ、いい匂いだねー

・・・・・

ごめん。私、やっぱり帰るわ。

どうやら、女は瞬時にぼくの気持ちを悟ったらしい。履き捨てるように一言言い残すと、バッグをつかんでそそくさと部屋から飛び出していってしまった。

バラの優美な残香が漂うひとりきりの部屋で、途端に息が苦しくなる。

本当、男ってバカよねー。

バカよねー。

呆れたカナの声が耳にこだまし、なぜか事務の吉村さんまでもが呆れた顔をしてぼくを蔑んでいるような気がした。

しばらしくしてはっと我に返ってみれば、窓を激しく打ち付ける雨音が、ぼくを非難するように静まり返った部屋にけたたましく鳴り響いていた。

バラの残り香

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